ななおさん
1 居づらい実家
蒸し暑さが過ぎ去り、秋の気配がようやく訪れた十月初め。
窓の向こうに広がる青空を、熱い日本茶をすすりながらぼんやり見つめていると、カットソーの裾を引っ張られた。
「ななちゃん、あーそぼ」
ツインテールをした姪っ子が、畳に座る私の顔を覗き込んだ。髪を留めているゴムにはプラスチックで出来たピンクのキャンディが付いている。小首をかしげた愛らしい仕草に思わず抱き上げたくなってしまう。
「うん、いいよ。何する?」
「かくえんぼ」
「かくれんぼね。どっち鬼?」
「じーじもするの。じーじ! じーじ! どこ、じーじ!!」
帆夏(ほのか)は私の手を、その小さな手でぎゅっと掴んでから、大声で私の父を呼んだ。張り上げる甲高い声に耳を押さえたくなるのを我慢していると、隣のリビングから私の父が颯爽と現れた。
「はいはい、じーじはここだよ。どうした帆夏ちゃん。うん?」
私が小さい頃には見たことのないような、めろめろの顔をした父はひょいと帆夏を抱っこして頬ずりした。……私が先に抱っこしようと思ってたのに。
三回かくれんぼをしたあと、リビングから母に呼ばれた。
「七緒(ななお)、ちょっと来て」
父は帆夏のリクエストに応え、今度はお人形さんごっこを始めている。
リビングのテーブルに行き母の前に座った。後ろのソファで弟夫婦がテレビを観ている。咳払いをひとつした母が私の顔を見つめた。何だか嫌な予感がする。
「ねえ七緒、お見合いしてみない?」
「……」
「いい感じの人がいるんだけど……」
「……」
「あのほら、違うのよ。そういうのって、少しでも顔を知ってる人からのつての方が安心じゃない? それで知り合いに頼まれてね? せっかくだから七緒にどうかしらと思って。嫌なら別にいいんだけどね」
何も答えない私に焦った母が早口でしゃべり続けた。皆の前で母親に気を遣わせるなんて、居心地が悪すぎる。
「別にいいよ、お見合いしても」
「え! あらまぁ、ほんとに!?ちょ、ちょっと待っててよ。いい?」
母が驚きと嬉しさの入り混じったような声を上げた。いそいそと自分の部屋へ行った母は、すぐに戻ってきて私の前に再び座った。
「素敵な人なのよ〜。ほら、このお写真見てみて!」
「いい。見たくないからお母さんが持っててよ」
差し出された写真から顔を逸らすと、いつの間にかソファを立ち上がっていた弟が、母の背後から現れて写真を奪った。
「どれどれ。お、中々いいじゃん! 時恵(ときえ)も、こっち来いよ」
「やっぱり隆明(たかあき)もそう思う? 結構いいわよねえ?」
写真を見ながら奥さんを呼ぶ弟に、母が同意を求めた。
「へえ、写真屋で撮ったのじゃなくて普通の写真渡すもんなんだな。ほら時恵、見てみ」
「ほんとだ〜! 眼鏡のイケメン男子ですよ、お義姉さん!」
弟のお嫁さんであり、帆夏のママでもある時恵ちゃんが満面の笑みを私に向ける。
「ありがとね、時恵ちゃん。でも見たくないの」
「どうしてですか?」
「う〜ん、変に期待したくないから、かな。当日までのお楽しみにします」
本当は、お見合いなんて興味が無い。
「なるほど。そういう考えもありますね〜。でも本当に素敵な感じですよ」
理想を言えば、好きな人と恋愛してから結婚に繋げたかった。
「この方ね、七緒を気に入ったらしいわよ」
好きな人なんて何年もいないけど。
彼氏がいたのも十年以上前の高校生の時だけ。
大学出てからずっと真面目にコツコツ働いて来たのに、その真面目さが仇になったのか、お堅い人に見えるのか、この眼鏡がいけないのか、髪をひとつにきゅっと結んでいるのがいけないのか、メイクが薄いのが駄目なのか、必要以上の愛想を見せず、きゃっきゃ出来ないのが良くないのか、飲み会で酔っ払って甘えたりもせず一人淡々と飲んでいるのが悪いのか……とにかく、可愛くないんだろうなぁ。
誘われることもなく、誘うこともなく、彼氏も出来ないまま、いつの間にか二十九歳。
もうすぐ三十だというのに未だに私……処女とか。こんなこと悲しくて誰にも言えないよ。
時恵ちゃんが淹れてくれた紅茶を口にする。
「先方が気に入ったって、七緒のどんな写真見せたんだよ?」
「去年の夏の旅行の」
母も時恵ちゃんから紅茶を受け取りながら、弟の質問に答えた。
「軽井沢の?」
「そうそれそれ。ほら、あのイタリアンのお店で撮ったじゃない」
「美味かったよな〜あの店」
軽井沢? イタリアン? もしかしてお店の前で、家族みんなで変顔して撮ったやつ?
「あ、あんなの渡したの!?」
「可愛く映ってたから大丈夫よ」
微笑む母は上機嫌だ。お見合いしたって上手くいくとは限らないのに。
「それ、私じゃなくて時恵ちゃんと間違えてるんじゃないの? 皆で映ってた写真のことでしょ?」
「ううん。あんたとお父さん、二人の写真」
「そんなのあったっけ……?」
全然覚えてない。父と帆夏のはしゃぐ声がこちらまで響いた。二人は本当に仲良しだ。
「それでその人ね……。あら? 名刺をもらったんだけど、どこいったかしら。ちょっと待ってて七緒」
「お母さん、いいよ。前情報もいらない」
「どうしてよ」
「当日聞けばいいことでしょ」
「失礼じゃないの、何も知らないで行くなんて」
上機嫌だった母が一転して眉をしかめた。
「まぁまぁ、七緒がそうしたいって言うならそれでいいじゃん。上手く行くといいね〜、お姉さま」
「……余計なお世話」
私の背中を叩いてくる弟に低い声で呟いた。そうよね。私が上手くいけば、皆も気兼ねなく先へ進めるんだものね。そりゃ嬉しいよね。
「ななちゃん、抱っこ」
「はいはい」
父と追いかけっこしながらリビングへ駆け込み、私の傍へ来た姪っ子を膝の上に乗せる。ついこの前までは小さな赤ちゃんだったのに、ずい分と重たくなった。その重みに心から愛おしさを感じる。この子の幸せを第一に考えてあげたいだなんて、私も歳を取ったわけよね。
いじけてる場合じゃなくて、本気でここを出ることを考えないと。
ダイニングテーブルへ来て、母の隣に座った父に訊ねる。
「ねえお父さん、いつごろ家建てるの?」
「え、お、おお。そうだなぁ。来年辺りが……いいか? なぁ?」
父は、しどろもどろ答えながら母に助けを求めた。そんなに焦らなくたっていいのに。さっきのお母さんみたい。
「そうねぇ。ほのちゃんが幼稚園に入る前くらいが、いいかしらねぇ。と思うんだけど……どうかしら、時恵ちゃん」
私の視線に気まずくなったのか、次はお嫁さんに振る母。
「え、ええ。いつでも大丈夫ですが、そうしていただけると助かります」
彼女の頷きに弟が溜息を吐いた。
「そしたら親子ローンかぁ」
「何よ、不満なの?」
母が勢いよく振り向くと、弟が肩を竦ませる。
「いえいえ、不満なんかじゃないです。お世話になります」
皆のやり取りを聞きながら、私は黙って紅茶を飲み干した。皆が私に気を遣っているのがわかる。直接言われたことはないけどさ。
「ねーなになに? なあに?」
私の膝の上に座ったまま、帆夏がテーブルをバンバンと叩いた。父がにっこりと答える。
「新しいお家のお話だよ。じーじとばーばも、帆夏ちゃんと一緒のお家にするんだ。このマンションよりもっと広いお家にな」
「やったー! あたらしいおうち!」
私の膝から降りた帆夏が、万歳をしながらリビングを飛び回った。
この3LDKのマンションは私が幼稚園の頃に購入したらしい。弟が結婚して家を出て、私と父母の三人で住むにはちょうど良い広さだったのだけれど、帆夏が生まれて父母の考えががらりと変わってしまった。二世帯住宅を建て、一軒家の広々とした中で帆夏を家族みんなで育てていきたい、と私の父母の夢は膨らんでいった。二人目を望む弟たち夫婦にも何かと手助けしてくれる父たちと一緒に住むのは願ったりのことで、話は順調に進んでいる。……私のことを除いては。
わざと話を振ったのは私。お見合いをする理由を自分に叩きつけたかったから。
「ななちゃんも、おうちいっしょ?」
「え」
「いっしょがいー! ななちゃんもいっしょがいー!」
「……ありがと」
もうすぐ三歳になる姪っ子の言葉に苦笑いした。同時に皆の視線をひしひしと感じる。
大丈夫。二世帯住宅に図々しく割って入るほど、空気読めてないわけじゃないから、私。
私がお見合いをしてそのまま結婚し、この家を出ていく。その流れが家族全員にとって一番安心できるのかもしれない。
こんな私を気に入ったなんて希少な人がいるのなら、恋愛だの何だの贅沢言っている場合じゃない。そこにロマンチックだの、ドラマチックだの、そんなものいらない。
そう、時間はないんだから。