ななおさん

3 鎌倉物語 (1)



 鎌倉駅で降りてバスターミナルに向かう。駅前は人でごった返していた。時計は午後一時を過ぎたところ。
 金沢八景方面のバスに乗り込んだ。間もなく出発したバスは鶴岡八幡宮の手前を右へ曲がり、突き当りの萩寺と呼ばれる宝戒寺前を左折する。

 金沢街道を進んでいくバスに揺られ、十分ほど経った頃、到着した浄明寺バス停で降りた。そういえば、どうしてバス停とお寺の漢字が違うんだろう。あとで調べてみようか。初めて訪れる浄妙寺は、のんびりできるお茶室があるらしく、以前から楽しみにしていた場所だった。
 バス停から少し歩いたところで、大きな桜の葉が赤く染まっている。その先にある浄妙寺の山門をくぐって入山料を払い、中へ。全てがすっきりと手入れされた境内に本堂が現れた。高さのある縁側に仲良く座る年配の女性が二人。端では猫が丸くなっている。
 お賽銭をして手を合わせ、本堂左脇からお茶室「喜泉庵」へ向かった。

 平日だから人が少ないんだろうか。
 入口で代金を支払って履き物を脱ぎ、余計な物は一切ない設えの美しい茶室へ足を踏み入れた。緋毛氈に正座をし、手にしていた籠を横に置いて枯山水の庭を見つめた。
 縁側に座る年配の夫婦。私のあとから茶室を訪れた人の足音。静かな空間で自然と背筋が伸びていた。しばらくして私の前にお抹茶と干菓子が運ばれた。

 お茶碗を手にした時、ふと、誰かの視線を感じて顔を上げた。
 振り向くと、斜め後ろの少し離れた場所に一人の男性が座っている。こちらを見ていたその人と目が合った。私よりも年下に見えるけれど、珍しいことに和服を着ていた。年配の男性ではない着物男子を、この辺りで見かけたのは初めて。
「わぁ、すご〜い」
 あとから入って来た若いカップルの声に目を覚ました私は、彼から顔を逸らして向き直り、手元のお茶碗に視線を戻した。きめ細かく泡立てられたお抹茶から湯気が立ち昇っている。口につけた茶碗を傾かせると熱い温度が舌に絡まり、お抹茶の良い香りが鼻を抜けていった。
 とても美味しい。ひと呼吸おいてから、再びふた口目を飲む。縁側を去る夫婦が私の前を通り過ぎた。自由な雰囲気だし、特別なお作法を知らなくても大丈夫だから、緊張せずに落ち着けるはずなのに。何故か私の意識は、まだ斜め後ろを向いたまま。
 どうして和服なんだろう。私と同じように一人で来ているんだろうか。
 干菓子の甘さが口の中でほどけていく。私の斜め前に座ったカップルは意外にも静かにお茶を楽しんでいる。葉のざわめく音が茶室を通り過ぎた。

 飲み終わったお茶碗の端を拭き、立ち上がって誰もいない縁側へ移動する。
 見事な枯山水の奥に、ほんのり紅く色づき始めた紅葉が見え、その景色に溜息を吐いた時、ぎし、という音が響いた。音のした方を向くと、さっきの和服の彼が縁側の左端に行き、何かへ耳を寄せている。
 確かあれは水琴窟(すいきんくつ)だった、と思う。ガイドブックに書いてあったのを忘れていた。そちらを見つめていると、彼と目が合ってしまった。

 何故かその人はこちらへ近付いてくる。顔を伏せて足音を聴いた。別に何をしたわけではないけれど何となく気まずい。歩み寄って来た彼が静かな声で私に言った。
「お先にすみません。どうぞ」
「え?」
 顔を上げると、私を見下ろす優しげな笑顔。
「いい音でしたよ」
「あ、はい。すみません」
「いえ」
 そう答えたその人は茶室に戻り、そこを出て行った。
 ――素敵。
 頭の中に浮かんだ言葉を追い払うように、首を横に振って再び庭へ視線を置く。

 結局、三分も経たない内に私も茶室を出てしまった。あの人、もうとっくにどこかへ行ってしまっただろうか。追いかけるように、さっきの男性を探して早足で進んだ。つまづきそうになりながら、本堂の脇を通り過ぎようとした時……見つけた。
 彼は本堂の縁側に座って遠くを見ていた。全身に緊張が走る。
 鳥が鳴いたと同時にこちらに気付いた彼に軽く会釈をして、逃げるようにそこを去った。……何してるんだろう、みっともない。
 おひとりですか? なんて訊いてみたかったけど、変なプライドが邪魔して何も言えなかった。そんなこと訊ける勇気があるくらいなら、今頃彼氏だっていないわけがないじゃない。和服を着て眼鏡を外して見た目だけは変身しても、結局中身までは変われないってこと。

 ……変に疲れてしまった。早くバスに乗ろう。
 金沢街道を向こう側へ渡り、鎌倉方面のバス停に並ぶ。
 あの人、まだ本堂の縁側に座って遠くを見つめているのかな……。喜泉庵でのことが頭に浮かぶ。穏やかな口調、優しげな表情、ふんわりしたショートの黒髪に和服が似合ってた。 
 ぼんやりと考えていたその時、通りの向こう側、たった今辿って来た道を、思い描いていた彼が歩いて来るのが見えた。途端に鼓動が早まる。
 同じバスに乗るかもしれない、なんて期待はやめておこう。歩いて移動してるのかもしれないし、そのまま杉本寺の方へ行くのかもしれない。こちら側に来ても、ここを通り過ぎて竹林の見事な報国寺に行くのかもしれない。だからといって、そこについて行ったら……ストーカーだよね。
 彼のことなど微塵も気にしていない素振りで、籠バッグからスマホを取り出し眺める。都合のいいことにバスが迫る音が聴こえた。左を向き、前に並んでいる人について歩き、彼の姿を確認することなく乗り込んだ。
 後ろの空席に座り顔を上げると、予想を反して彼も同じバス乗り込んで来た。こちらを見るでもなく、優先席の前に立ち、吊革につかまって窓の外へ顔を向けている。バスが発車した。鎌倉駅までたった十分ほどの時間が、とても長く思えた。

 終点の鎌倉駅のバスターミナルに着き、彼が先に降りた。順番に私も降りる。どこ、行くんだろう。立ち止まって信玄袋に手を入れながら何かを探している彼の横を通り過ぎた。もちろん声なんて掛けてもらえない。
 自意識過剰なのよ、私。
 誰もあんたのことなんか見てないんだから、さっさと鎌倉駅に行って江ノ電に乗りなさい、七緒。

 緑色の電車に乗り、長谷駅で降りた。今日の予定はこの場所で終わり、のつもり。草履で歩き回るのは、すぐに疲れてしまうからそうしようと思っていたんだけど、前よりは履き慣れてきたみたいで、今日はまだまだ歩き回れそうだった。
 平日とはいえ、長谷駅で降りる人はとても多い。人の流れに乗って、お店が並ぶ長谷通り沿いを歩いていく。今日は着物姿の人と行き交うことは無かった。

 鎌倉大仏で有名な高徳院へ。夏は深い土と緑の匂いが強かったこの近辺も、今は秋風の香りが漂うばかり。お土産屋さんの横に来た時、拝観受付に並ぶ人を見て心臓が高鳴った。
「あ……」
 さっきの、あの人……!
 後ずさりながら、そちらを見つめていると、拝観料を払い終わった彼が振り向いた。一瞬目が合ったけれど、自分から逸らしてしまった。私がついて来た、なんて変な誤解をされたらどうしよう。
 それにしても……彼も鎌倉から江ノ電に乗っていたということ? それで長谷駅で降りたの? 人が多かったから気付けなかっただけ?
 ぎこちない動きで私も拝観受付へ進む。彼はもちろん私のことなど気にせずにそこを離れ、大仏様の方へ行ってしまった。ホッとしつつも、少しだけがっかりした。もしかして今度こそ喜泉庵の時みたいに声を掛けてくれるかもしれない、なんて淡い期待をしてしまった自分が恥ずかしい。ここで回れ右して帰ってしまおうか。
 ついさっき出逢ったばかりの一言交わしただけの人に、一人で赤くなったり、そわそわしたり緊張したり、胸を撫で下ろしたりして、私ってば簡単すぎる。免疫が少ないから、いちいち敏感になってるんだろうけど。
 古都鎌倉で、お気に入りの着物を着て、いつもと違う日常の中、あんな人と一緒にこの辺りを巡れたら、きっと楽しいだろうな、なんて。悲しい妄想が膨らむ自分に自己嫌悪。

 そこら中で葉が秋の色を纏い始めていた。翌週あたりが紅葉の盛りかもしれない。階段を上がり、大きくて立派な大仏様の前の賽銭箱へ小銭を投げ入れ、手を合わせた。大仏様の後ろには雲一つない青空。ここは広々としていて気持ちがいいから、前回鎌倉を訪れた時も立ち寄ったんだっけ。
 大仏様の背中の方へ左側から回り込んで進み、大わらじのある方へ向きを変えたその時。
 急ぎ足で目の前に現れた人に、ぶつかりそうになった。
「お、っと」
「あ!」
 よろめいた私の腕を取ったその人は。
「すみません、大丈夫ですか?」
「は、はい」
 またもや……。わざとじゃないのに再び彼に近付いてしまった。彼の紺色の羽織の袖と私の着物の袖が触れ合っている。知らん顔するわけにもいかないし、何か言った方がいいんだろうか。迷っていると、彼が苦笑した。
「さっきから、よく会いますね。浄妙寺でご一緒したの、覚えてますか?」
「……ええ」
 腕を離した彼を間近で見る。顔も首筋も肩も、全体的に無駄な肉付きが無くてすっきりとした容姿。目が合った私に、その人が訊ねた。
「お仕事か何かのご用事で鎌倉に?」
「いえ、そういうわけではないです。観光というか、この辺りが好きなので散策です」
「そうなんですか。僕も好きなんです。この辺」
 秋の午後が控え目な光を優しく投げて、地面に頼りない影を作っていた。
「もし良かったら、一緒に回りませんか?」
「え?」
「おひとりですよね?」
 信じられない彼の問い掛けに、小さな声で「はい」と返事をするのが精一杯だった。
 何考えてるの。さっき見かけたばかりの名前も知らない人に対して、こんな気持ちを持つなんて。
「僕もなんですよ。お好きなところが似てそうだし、どうですか? 和服を着た者同士で」
 でも、私。
「……はい。お願いします」

 当たり前のように頷いてた。