抱っこされていた私は、事務所のドアの前でそっと床に下ろされた。
「このまま連れて行きたいんだけど、くるみちゃんの着替えと荷物、事務所にあるんだよな?」
「はい」
「取っておいで。風呂場の用意しとくから、先にシャワー浴びていいよ」
「わかりました」
「一緒に浴びる?」
「え!」
な、なな……いきなり一緒に!? 普通はそういうものなの?
「冗談だよ。ここ開けておくから、入ったら鍵閉めてね」
笑った彼は上に繋がるドアを開け放し、中に入って行った。
一人になったところで大きな溜息を吐く。一緒にシャワーとか、無理無理無理。……まだ、無理。
急いで荷物を持ち出して事務所を閉め、彼が開けておいてくれたドアから入る。電気は点いているけど、彼はもう二階に上がったみたい。靴を脱いで板敷きの床を歩き、お風呂場へ向かう。
お風呂のスイッチパネルがちょうどいい温度に設定されていた。脱衣所には綺麗なバスタオルが用意してある。
両手で掴んでふわふわのバスタオルに顔を押し付けた。心臓が破裂しそうなくらいにドキドキしてる。大丈夫。この前みたいに、あれ以上の悲しいことはもうないんだから。
シャワーを浴びて脱衣所に出た。着替え、どうしようかな。
とりあえず以前と同じようにバスタオルを体に巻いて、着替えをと荷物を持ち、二階に上がった。深呼吸をして木製の引き戸をそろそろと開ける。
ベッドに寝転がっていた彼が、頭を上げてこちらを向いた。
「お先に、ありがとうございました」
「うん。くるみちゃん、寒くない?」
「大丈夫です」
「服着ててもいいんだよ? まぁ、どうせ俺が脱がしちゃうんだけど」
タオル一枚の姿でこんなこと思うのも何だけど、そんなこと言われたら顔から火が出そうだよ。
起き上がってベッドから降りた彼が、ドアの前に立つ私の横に来た。
「じゃあ待っててね。すぐ戻るから」
「はい」
私の頭をぽんと触り、彼は部屋を出て階下に下りて行った。
胸の前で合わせたバスタオルの端を握る。またこんな恰好で上がってきて、張り切ってるって思われたかも。
彼のベッドに座り、部屋の中を見渡した。綺麗に片付いてる。またクローゼットに全部入れたのかな。想像して笑みが浮かんだ。
一人でこの部屋に泊まった時は悲しくて苦しくて、あんなにつらいことはなかった。二度とここに来ることはないって、そう思ってた。
横になり、体を丸めてシーツに頬を寄せた。
永志さんの匂いがする。その匂いが私の心も体も、安心させてくれた。体が心地よい怠さに包まれて、同時に瞼を閉じた。
ふと目が覚めた。
眠い目を擦って横向きになる。何だか、いつもと違うお布団の感触。離れたところにあるテレビから明日の天気予報が流れている。全国的に晴れだって。……私の部屋にテレビなんてあったっけ? 顔をあげると、目の前にベッドに寄り掛かって座る人の背中があった。
「わ!」
何これ! 掛けられているお布団を勢いよく捲って起き上がった。
「おう、起きたか?」
振り向いたのは、私の大好きな人。
「私、私……すみません!」
馬鹿馬鹿馬鹿! 眠っちゃってたんだ……! 朝? じゃない。まだ夜中?
「いいよ。疲れてたんだろ? 今日忙しかったもんな」
「今何時ですか!?」
「んー? 十一時半かな」
嘘でしょ、どうしよう。
「永志さんは何を……?」
「シャワー浴びて、テレビ見てたよ。今ちょうどドキュメンタリーが終わったところ」
「ごめんなさい! 本当に」
「謝ることないって。眠かったら寝てな。俺も適当な時間に寝るから」
せっかくいい雰囲気でここまで来たのに。自分から壊してしまったことに顔が青ざめる。俯いていると彼が私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「永志さんに嫌われちゃう、と思って」
寝起きのせいか少しパニクっていた。体を確認するとバスタオルはちゃんと巻かれた状態のまま。
「こんなことで嫌いになるわけないじゃん。大好きだよ」
「でも、でも……」
「寝顔、可愛かった」
私に手を伸ばした彼が髪を触った。
「よだれ垂らしてたよ。大きな口開けて」
「う、嘘!」
ぎゃーー!! ほんともう私ってば最低! 慌てて口の端を触って確かめる。
「嘘だよ。すごい慌て方だな」
「……意地悪」
ベッドに突っ伏して笑っていた彼が、顔だけこちらに向けて目を細めた。男の人なのに、その瞳が何だか色っぽく感じる。
「眠っちゃったお返しだよ。俺がキスしたって全然目覚まさないんだから」
「キス、したの?」
「したよ」
静かにベッドに上がった彼が顔を寄せた。近すぎる眼差しに縮こませた私の両肩を彼が掴む。
「こんなふうに」
優しくて軽いキスを私の唇に何度も落とした。
「あとはこうやって、ほっぺと、耳と。肩に……」
ホールでの感触を思い出して体が疼く。
「ほんとにしてたの……?」
「さあね」
首筋にキスした彼が、私の体をそっと押して仰向けにさせた。
「もっと、いい?」
「……はい」
「寝起きなのに平気?」
「平気です。どんなふうにしてたのか教えて、下さい」
彼の瞳を覗き込んで応えた。私がそこに映っている。
「こうだよ」
今度は唇に吸い付いた彼が舌を絡ませた。彼の甘い唾液を何度も飲み込んで、一度顔を離して言葉を吐きだした。
「これは、嘘です」
「何で?」
「だってこんなことされたら、絶対目が覚め、あ……!」
巻いていたバスタオルを剥がされた。空気が直接肌に当たる無防備な自分を庇いたくなる。
「永、」
言い終わる前にまた唇を塞がれた。あの夜のことが脳裏に浮かぶ。
「どうして名前、呼ばせて……くれない、の?」
熱に浮かされたように、途切れ途切れに息を吐きながら彼に尋ねた。
「くるみちゃんに名前呼ばれると、ヤバいんだ俺」
私の両手を自分の首に回させ、彼はその顔を私の胸に強く押し付けた。
「こんなふうに、止められなくなりそうだったから」
言いながら、大きなてのひらと唇で強く弄んだ。小さくあげた悲鳴が私のものじゃないみたいに部屋に響く。
呼ばれるのが嫌だった訳じゃないんだ……。その意外な答えが嬉しくて、私の肌に舌を這わせる彼の頭を抱き締めた。
彼の動きと吐く息がますます激しく熱くなって、このままだと止められそうもないことに気付く。いつ言おうかとタイミングを掴み損ねていたけど、これを逃したら無理かも。
「永志さんあの、電気消して欲しい、です」
「……え? ああ、うん」
大きく息を吐いた彼は私から離れ、リモコンを使ってテレビを消し、ベッドサイドの明かりを点けてから、部屋の電気を落とした。
「本当は明るい所でよく見たいんだけどな」
「だめ、です」
戻って来た彼が着ていた服を全部脱ぎ、再び私に圧し掛かった。直接重なる肌が温かい。
「これくらいの暗さなら、見てもいい?」
唇と舌を私の腰の辺りまで進ませた彼が、閉じていた足の付け根に顔を埋めた。恥ずかしさに顔が一気に熱くなる。
「……いや」
「駄目、見るよ」
太腿を掴んで足をひらかせた彼が、反対の手でそこを優しく撫でた。
もう他に何も考えられないし、思いつくことも出来ない。天井を見ている筈なのに、それは全く目に入って来ない。出し入れしていた指に代わって唇を押し付けてきた彼の頭を押さえ、勝手に浮いてしまう腰と溶けていく自分を感じながら、彼の名前を呼び続けた。何も、見えない。恥ずかしくてたまらないのに、やめてほしくない。
体を震わせ、あっという間に永志さんの舌に落ちてしまった私を、起き上がった彼が満足そうに微笑んで見つめた。私のせいで唇が濡れている。
「良かった?」
耳元に近付いた声に体の奥が反応してしまう。まだ甘い怠さに浸っていたいと、爪先から手の指から髪の先までもが、私に訴えていた。呼吸を整えながら、彼に手を伸ばす。
「恥ずかしい。一人で……ごめんなさい」
「いいよ。嬉しいから」
私の手を取った彼がそこにキスをした。
「あの」
「ん?」
「私も何か……しましょうか」
「え」
驚いた顔をした彼が、私の顔を見た。
しまった。変な言い方してしまった。何かしましょうかって、厨房手伝う訳じゃないんだから、その台詞どうなの。
「ありがと。十分だよ」
優しく微笑んで、髪を撫でてくれる。
「でも、なんかあの」
舐めましょうかとか、咥えましょうかなんて言ったら、ますます驚かれそうだし……引くよね。というか、知識はあっても実際にしたことはないから、どうすればいいかわからない。でもお返しがしたい。私もこんなにあなたを好きなんだってこと、わかって欲しい。
上手く言えなくて口ごもると、彼が私の手を取った。
「……じゃあ、触って」
体をずらした彼に、導かれるままに触れる。
これでいいの? と顔を上げて瞳で問いかけると、苦しそうに顔を歪めた彼が低い声で言った。
「すごくいい。このまま、続けて」
私の手を包んでいた彼の手がそこから離れ、私の足の間に伸びた。私の顔にキスを降らしながら彼が囁く。
「好きだよ、くるみ」
「!」
「くるみ……!」
呼び捨てにされて、彼が言っていたことの意味が今わかってしまった。自分の名前なのに、なんて甘く響いて、体の奥深くまで沁み込んでいくんだろう。永志さんを欲しいと思う気持ちに抵抗できなくなる。私が呼んだ時も、こんなふうに感じてくれていたの?
外は雨が降り出している。
明日の天気予報、外れたのかな……。
瞳を閉じて静かな雨音を聴きながら、その時を待った。
一年前、お店の前で初めて彼に逢った時のことを思い出す。後ろから声を掛けられて振り向くと、彼がそこに立っていた。きっとあの時から、私は永志さんに夢中だったんだ。
準備を終えた彼が私の上に重なり、ゆっくりと私の中に沈んでいった。慎重すぎるくらいに私を思いやる彼の心を感じて、瞳から雨粒みたいな涙が零れた。