私の頭を抱え込むようにしていた彼が、涙に気付いて拭ってくれた。
「痛い?」
「違うんです」
痛いことは痛いけど、でも。
「嬉しいの」
「くるみちゃん……」
「前は置いて行かれちゃったから、今こうしてるのが……夢みたい」
胸が一杯になり、また涙が零れた。
「もう二度とあんなことしない。絶対離さないから」
私を優しく抱き締めた彼が、涙に口付けながら、ゆっくりと動き始めた。
「壊しちゃいそうで怖いな」
「……大丈夫です。続けて、お願い」
彼の細い腰に手を伸ばしてしがみつく。目を固く閉じて、ただひたすら彼を感じることだけに集中した。
「ごめん。もう余裕ないや、止められない」
永志さんの切ない声に、痛みが甘い雫に変わって溢れ出した。
カーテン越しの陽射しが部屋を明るくしている。
天気予報当たったんだ。ベランダにいるらしい鳥の鳴き声が響いている。
横向きに寝ている後ろから、私の体は彼の腕にすっぽり包まれていた。
目の前にある永志さんの手を弄ぶ。綺麗な指。ところどころにある火傷の痕。大好きなこの手に私の全部を知られてしまって恥ずかしいけれど、このうえないほど幸せ。
腕の中で静かに振り返ると、目を瞑ったままの彼が呟いた。
「……早いね」
初めて聞く、寝起きの声。少し掠れて鼻にかかった声に胸がきゅんとなった。
「起こしちゃってごめんなさい」
「ん〜……」
左手で目を擦ったあと、私を自分に引き寄せた。まだ眠いのかな。
「……もっかいしよ」
「え」
唇を重ねた彼が昨夜の続きみたいに、柔らかな舌で私を溶かしていく。朝からこんなことしちゃって、いいものなの……?
「永志さん、あの」
水の中にいる時のようにもがいて息継ぎをする私に気付いて、動きを止めた彼が申し訳なさそうな顔をした。
「あ、あーごめん。まだしんどいよな」
「平気です。慣れてみせます」
また全然ロマンチックじゃないことを言ってしまった。噴き出した彼が、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「昨夜は……ごめん。我慢できなくて。嫌じゃなかった?」
「幸せでした。すごく」
「ほんと?」
「ほんとにほんと」
永志さんの頬を両手で挟み、その唇に軽くキスをした。彼が同じようにお返ししてくれる。二人で笑ってじゃれあっている内に、気付けばそのまま求め合っていた。
今朝は昨夜の緊張が嘘みたいに解けて、彼をすんなり受け入れられた自分に驚く。
「なんか、溶けそうだ……」
静かに息を吐く彼にしがみつくだけで精一杯だった私の体は、一晩で生まれ変わったみたいに、その行為を悦んでいた。
「……私も」
「いいの?」
彼の胸の中で小さく頷くと、また昨夜みたいに私を呼び捨てた。
「くるみ。おいで」
私の背中に手をやって持ち上げた彼が、抱き起こした。彼と繋がったまま座る姿勢になり、明るい中で向き合って視線を受けることに顔が熱くなる。
「恥ずかしい」
「この方が、よく見えるから」
私の両腕を掴んだ彼が腰を動かした。預けた体が揺さぶられて、声を上げながら仰け反ってしまう。反らした首筋に彼が吸い付いた。
繰り返す波に翻弄されて、時間を忘れて名前を呼び合って、永遠に終わらないんじゃないかと思うくらいに愛し合った。
「言ってなかったことがあるんだ」
疲れ果てて、うとうとしながら暫くまどろんだ後、彼がぽつりと言った。こういう時ってお腹が空かないものなんだ、なんて不思議な満足感を味わっていた。
「何……?」
「俺、実はすごい嫉妬深いんだよ。多分くるみちゃん、引く」
驚いて彼の腕枕から顔を上げる。いっぺんに目が覚めた。
「あとから嫌われても困るから、今言っておく」
私が作ったプリンのことで職人さんに嫉妬したこと。そのあと目が合わなかったのは、自分の気持ちに気付いて戸惑っていたということ。
だから、いい歳して、なんて言ったんだ。酔っぱらいのおじさんが来ていろいろあった日だから、よく覚えてる。
「そんなこと全然わからなかったです」
「わからないようにしてたんだよ。みっともないから」
永志さんが苦笑した。
「嫌いになった?」
「ううん。なんか嬉しいです。それに私も嫉妬してたから、これでおあいこ」
「誰に?」
「……貴恵さん」
「あー……そうか。くるみちゃんがそう思っちゃったのか」
「?」
「貴恵の奴、良晴に妬かせようとしてたんだよ。それで何だかんだ俺のとこに来てたんだ。良晴は別に、って感じだったから彼女の空回りで終わっちゃったんだけど」
顔を近づけて鼻先を合わせた彼が言う。
「俺はくるみちゃんだけだから」
微笑む彼に、私も一緒に笑った。
「くるみちゃんは? 俺だけ?」
「うん。永志さんだけ」
すぐ傍で見つめあって、お互いの瞳を覗き込む。突然私から顔を逸らした彼が、深呼吸をした。
「あー、駄目だ! ここにいるとまたしたくなるから、一回外に出よう」
私の額に軽くキスをした永志さんは、勢いよく起き上がってベッドの下に落ちた長袖のシャツを着た。
「連れて行きたいところがあるんだ」
「どこですか?」
「ここから車でニ十分くらいの大きな公園。弁当作って、あっちで食べよう。住谷パンがまだ残ってるから、ここでサンドイッチ作る」
「私もカップケーキが余ってるから持っていきます」
一緒に起き上がって、床に畳んで置いてあった着替えを手に取った。
公園の駐車場で車から降り、広い芝生の続く園内をゆっくりと歩いた。何本も植えられた大きな樹が、上の方で風に吹かれてざわめいている。青い空がとても高い。今日は蒸し暑くもなく涼しくて、気持ちが良かった。
緩くなだらかな坂になっている見晴らしの良い場所の芝生に並んで座り、彼が作ったお弁当を食べる。ハムとレタスとチーズを挟んだだけのシンプルなものだけど、口に入れると、どんな高級なものよりも美味しく感じた。
「美味しいですね」
「うん。こういうところで食べると、倍美味しく感じる」
「はい」
「昨夜から、くるみちゃんしか食べてないから腹減ったしな」
「!」
真っ赤になった私の顔を見て永志さんが楽しそうに笑った。こんなに健全なところで思い出させるのやめてください……! ほんとにもう、もう……照れるよ。
買ってきたペットボトルのお茶を飲み、膝を立てた彼は遠くを見つめた。
「小さい頃、じーさんとばーさんが連れてきてくれたんだ」
「ここに?」
「うん。それだけなんだけどね。急にくるみちゃんと一緒に来たくなった」
思い出の場所に私を連れて来てくれたことに心が温かくなる。
食べ終わった彼が、隣に座る私の膝に頭を載せて寝転んだ。膝枕するのなんて初めて。平日だし人もまばらだけど、誰かに見られてしまうのが少し恥ずかしい。
私たちってもう、どこから見ても恋人同志なんだよね? その響きに一人で妙に照れくさくなってしまう。
膝の上で私の顔を見上げた彼が問いかけた。
「くるみちゃんの家族ってどんな感じなの? 妹がいるんだよな」
「父は普通のサラリーマンで釣りとゴルフが趣味。母は週に三回パートに行ってて、たまに編み物教室に行ってます。妹は女子高生で今年受験生」
話を聞きながら頷いた彼は、私の髪を触った。
「俺のとこで働いてて、何か言われたりする?」
「初めの頃は母が反対していました。最近は納得してくれたみたいで、割と協力的です。父は好きなようにやれって」
「ありがたいな。その内、ちゃんと挨拶しに行くよ」
「お店に来させてもいいですか?」
「もちろん! 俺、張り切って作るからさ。ぜひ来てもらってよ」
「はい」
私の髪を触っていた指を頬に移動させて、彼が目を細めた。
「今日も帰したくないな」
もうつらくはないのに、彼の言葉に、どうしてこんなにも胸が痛くなるんだろう。
「明日も明後日もずーっと、くるみちゃんが家にいてくれたらいいのに」
「永志さん……」
「来年あたり、実現させるか」
「え!」
驚いた私に向かって、彼が悪戯っぽく笑った。
「次の目標、決まり」
緑の匂いの風が吹く中、彼と二人で微笑みあった。
現実になったらいいな。ずっとずっと永志さんの傍に、椅子カフェ堂にいること。