寝坊するところだった。
ベッドから飛び起きて走ってキッチンへ飛び込み、冷蔵庫から素早くケーキを取り出す。
「お姉ちゃん、学校でチーズケーキ好評だったよー。売ってるのみたいだって。すぐ無くなっちゃった」
「あー待って、今日も持ってって! お願い!」
朝の支度を終えた女子高生の妹にチーズケーキを箱に入れて渡した。全部で三つ分。
「マジこんなに? やったー」
この三日間、私はチーズケーキを作りまくっていた。作り方は簡単だけど、シンプルなものほど出来上がりに差が出てしまう。久しぶりに作るせいもあって、なかなか上手くいかなかった。
結局、あの面接の最後に、本当に働く気があったら三日後においで、と店長に言われてしまった。冷静になってよく考えなさい、なんて、子どもに言い聞かせるような口調で。たいして私と歳は変わらないのに。でもそんなふうに言われたら、冷静になるどころか、かえって燃え上がるものじゃない? 絶対働いてやる! って。
だからなんとしても、このチーズケーキを自信作にして、店長に食べさせたかった。私のやる気がその場限りのものじゃないって、認めてもらうために。あの意地悪な職人さんも見返してやりたいしさ。
そして昨夜、ようやく納得のいくものに仕上がったわけ……! これならどこに出しても恥ずかしくない! 多分自分史上最高の出来だと思う、ベイクドチーズケーキとレアチーズケーキ。私は自信満々で二種類のケーキをホールのまま箱に入れ、保冷できる大きなバッグへ保冷剤と共に、そっとしまった。
このまま梅雨が明けてしまいそうなくらいの良いお天気が続いている。
駅前の大きな時計の針は九時ちょうどを指していた。季節のプチブーケをたくさん飾った花屋の前を通り過ぎ、石畳の上を歩き、路地を曲がった。しばらく行くと、お店の前で箒を動かす男の人がいた。小走りに駆け寄って、後ろからその人に挨拶をする。
「おはようございます」
「ん? おーおはよう! 来てくれたんだ?」
振り向いた店長が手を休めた。開店前にきちんと掃除してる姿が、当たり前のことなんだけど、ちょっと意外。
「はい。よろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしく。それじゃあ、これは剥がしちゃおう」
店長はドアの横の張り紙を、べりっと剥がして手の中で丸めた。
「誰か他に面接の方は来なかったんですか?」
「うん、来なかったよ」
屈託のない笑顔で店長が答える。暢気だなぁ……こっちが心配になってしまう。
「一人も?」
「なんか店の様子を偵察に来たっぽい若い子がいたけど、食べてすぐ帰っちゃった」
ちりとりに集めたごみをゴミ袋に入れた店長は、先に入ってて、と周りを片付けてから裏に回った。
「失礼、しまーす……」
ドアを開けると、中は電気が消えていて薄暗い。そろそろと入り、手前のテーブルに荷物を置いた。何の匂いだろう、これ。出汁かな。和食っぽい感じ。それに混ざってトマトソースのような香りもする。
鼻をひくつかせていると、奥からドアを乱暴に開ける音がした。ドタドタと足音が近付いたと思ったら電気が点いて明るくなった。
「いるんなら点けろよ。電気の場所くらい言われなくてもわかるだろーに」
あー……、この人もいたんだっけ。私を睨んでいる職人さんに、とりあえず頭を下げて挨拶をする。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「永志の許可得たの?」
「え、それは……」
いいとは言われていないけど、貼り紙を撤去してくれたし、喜んでくれたし。それだけじゃ、駄目なの?
「いいんだよ。いいに決まってるだろ。俺は待ってたんだからさ。余計な事言うなよ、良晴」
私の気持ちを汲み取ってくれたかのように、奥から現れた店長が職人さんを嗜めた。
「あーそうですか」
ちっと舌打ちをした職人さんが、どかっと椅子に座った。こわー。私何か悪い事でもした?
「な? くるみちゃん」
待っててくれたんだ……。優しく言ってくれる店長の期待に応えなければ。
「ありがとうございます。これ、チーズケーキです。作ってみました。試食お願いします」
「早速作ってきてくれたんだ。ありがとう。開店前に皆で食べよう」
よく考えたら、夢のような話なんだよね。自分が作ったお菓子を、お客さんに出せるなんて。チーズケーキを気に入ってもらえたら、次にお店のためにできることを相談しよう。まず変えたいのは、この店内の雰囲気。装飾をすっきりさせれば、ぐんと良くなるはず。
二種類のチーズケーキを小さめに切り分け、店長が淹れてくれたコーヒーと共に口へ運ぶ。
職人さんはもぐもぐとレアチーズケーキを口に入れ、あっという間に完食すると、ベイクドチーズケーキも食べ始めた。店長は両方を少しずつ口に入れ、真剣な顔でゆっくり味わっている。
どうなんだろう。美味しいのか、不味いのか。二人とも無言だから緊張する。
それぞれ半分ほど食べ終わったところで、店長がフォークをお皿に置いた。
「うーん。ごめん、これじゃないんだよなあ」
「え……」
嘘。すごいショック……。自信あったのに。
「これはこれで、すごく美味しいんだけどね。でも、俺が作って欲しいのはちょっと違う」
不味いわけじゃないんだ。素人にはお店で出すものを作るのは難しいんだろうか。
「こっちに近いんだけどさ」
店長はベイクドチーズケーキを指差した。横で職人さんが唐突に口をひらく。
「俺はプリンが食いたい」
「……そういうこと言う人は食べないで下さい」
カチンと来て取り上げようとすると、慌てた職人さんがお皿を押さえた。
「食うっての! 食います……!」
素直に食べたいって言えばいいのに。
それにしても、何が違うんだろう。店長の目を見て、無言で問いかける。
「こう、何ていうのかな。もっと口当たりが濃厚で、触るとぼろぼろ落ちるんだ。濃厚だけど口の中でとろーっとしたあと、すーっと溶けてく感じ」
店長の言葉をメモに取っていく。
「ここまでふわっとしてない。そういえば最近、コンビニスイーツで食べたのが一番近かった気がする」
コンビニのチーズケーキ……
「もしかして、フロマージュじゃないですか?」
「ああ、そういう名前だったかも。多分」
私が作ったのはスフレに近いベイクドチーズケーキ。口当たりが軽いのが特徴なんだけど、それじゃ駄目だったんだ。
「わかりました! また作ってみるので、もう少し日にち下さい!」
あんなふうに、もっと濃厚に仕上がるレシピを持っていたはず。帰りに本屋にも寄ってみよう。
ふと視線を感じて顔を上げると、店長が私をじっと見つめていた。変な事言ってしまったんだろうか。
「あの……?」
「いいなあ。やる気のある子は好きだよ、俺」
そ、そういうこと、そんな優しい顔して、さらっと言わないで欲しいんですけど……。
焦る私のことなんて気にも留めず、店長は頭の後ろで両手を組んで、椅子の背もたれに寄り掛かった。
「俺さあ、この前も話したけど、デザートだけ作れないんだよね。レストランで料理の修業はした。カフェも行った。カフェはバリスタがいてさ、そんな有名な人じゃないんだけど、ずいぶん勉強させてもらったんだよなー」
隣で食べ終わった職人さんが席を立ち、私を見下ろした。
「ごちそうさん」
「え、はい」
文句を言われなかった、ってことは美味しかったのかな。綺麗に全部食べてくれてる。職人さんはそのまま店の奥へ行ってしまった。
「ま、そういうことで、もうちょっと頑張ってね。チーズケーキ作り」
「頑張ります!」
「よしよし。さ、俺たちも食っちゃおうぜ」
「はい」
食べながら説明を受けた。
私が作ったものをお店で出せるようになったら、自宅ではなく、飲食店営業許可をもらっているこのお店の厨房を使ってケーキを作ること。店長が料理を作る厨房の奥に、区切られた小さめの厨房スペースがもうひとつあるから、そこを使用すること。
椅子カフェ堂ってホールは狭いけど、土地は結構広いよね? こんなに若いのに、どうやって資金繰りしてるんだろう。
「今日から接客してもらうけど、やり方は任せるよ」
「え!」
「あの会社にいたなら鍛え上げられてるでしょ? 小さいカフェの接客なんて痛くもかゆくもないはずだよ」
だから何で知ってるの? そんなにあの会社って、悪い意味で有名なんだろうか。
「この前から疑問だったんですけど、あの会社、ご存じなんですか?」
「内緒。こっちおいで、レジの使い方教える」
空のお皿をまとめた店長がレジに向かった。
店長といい、職人さんといい、二人とも肝心なことは、はっきり答えてくれないのがもどかしい。まだ信用度が低いってことなんだろうな……。
昔ながらの古いレジ。角が丸くて味があって可愛らしい。
「これ、俺のじーさんとばーさんが昔使ってたんだ。今はいないけどね」
店長がレジを開けると、高い音が鳴り響いた。
「この店、その二人が遺したものなんだよ。厨房と壁は直したけど、柱と天井と床はそのまんま」
懐かしそうな表情で、店長がホールに目を向けた。
お店を丸ごと作り変えられたくないっていうのは、そういうことだったんだ。
ちぐはぐに見えた店内の物は、ただ無造作に置いてあるだけじゃなくて、その二人の思い出の品なのかな。多分そうだよね、きっと。
まずは店内の装飾をどうにか、と思っていたけれど、店長の横顔を見ていたら、何も言えなくなってしまった。