椅子カフェ堂で働くことになってから一週間。梅雨は明けて、外は真夏の陽気に覆われていた。
 レジを置いたカウンターに両方の肘をつき、手のひらで顔を支えてホールの壁にある時計を見た。ランチ時が過ぎた二時二十分。本当にびっくりするほど人が来ない。
 面接をした時、二人のお客さんが入って来たけど、確かちょうど今くらいの時間だったんだよね。あれが奇跡だと思えるくらい、一時を過ぎるとぱったり人が来なくなる。

「まかないですよ、っと。食べよう、くるみちゃん」
 店長が厨房から両手にどんぶりを持って出てきた。
「良晴ー! 昼飯!」
 レジの脇に置いてある、ホテルのフロント用ベルを店長が鳴らした。これで出て来ない時はスマホで呼び出すらしい。アナログなのか何なのか、この二人ってほんとよくわからない。こんなちっさいベルの音、奥まで届くものなのかな?
 三人揃っていただきますをした。普通は交代で食事をとるんだろうけど、ここではこんな状況が有り得てしまう。

「あーあ、今日も暇だなあ」
 ですね、とも言えずに黙々と親子丼を口へ運ぶ。カプチーノに続いて、このまかないご飯にも私は衝撃を受けていた。雑誌で評判の店なんかより、ずっと美味しい。
 出汁の良く取れたお味噌汁にミョウガと青ネギが散らしてある。ふう、と冷ましていると、店長が言った。
「くるみちゃん、チーズケーキ作ってる?」
 作り直しになって、それから何度も挑戦してるんだけど、人に出せるかと問われれば、まだ納得がいかない。
「はい、作ってます。でもフロマージュの口どけが、なかなか上手くいかなくて。すみません。これ、っていうのが出来たらすぐに持ってくるので、その時は試食して下さい」
「ありがと。甘いものを出せたら、この時間も人が増えるのかな」
「……」
 何て答えたら、いいんだろう。
 カプチーノは素晴らしいし、料理も味に申し分ない。
 職人さんが作ってる家具だっていい。無骨でシンプルで。床も古くて可愛い。だけど、だけど……。顔を上げてチラリと壁の方を見る。棚の上の達磨と目が合ったような気がした。カレンダーの文字がやけに大きく感じた。

「若い子が来てほしいんだよなー。駅前に取られてんのかね、客」
 店長の言葉に私が黙っていると、職人さんがコップを手にして言った。
「さあ。場所がわかりにくいとかじゃね?」
「やっぱそう思う? 宣伝するかな。でも広告費高いんだよなー」
 違う、それ絶対違う。
「あとはもっとメニューを増やすとか、かねえ」
 それも違う。駄目だ、もう限界だよ。
「……違うと思います」
 慎重に言葉を選ぶんだ。店長のおじいさんとおばあさんが遺したお店だということを忘れちゃいけない。
 箸置きにお箸を載せ、大きく息を吸い込んでから、一気に話した。
「この辺て、すごくいい場所なんです。まだ開発されている途中だけど、お散歩しながらいろんなお店を回れます。椅子カフェ堂は駅から歩いて五、六分の場所です。お買いものして歩き回って疲れた時に立ち寄れる、最適の場所に位置しています。……もったいないです!」
「急に叫ぶよね、この人」
 親子丼を頬張ってる職人さんが、ぼそっと呟いた。
「すみません、でも続けさせてください」
「どうぞ続けて。勉強になるよ。で、どうしたらいいの?」
 店長の顔つきが急に厳しくなった。食べるのをやめて私を正面から見つめてる。
「だから、その……」
「くるみちゃん。怒ったりしないから、はっきり言って」
「はい。お店の前で立ち止まった時の感想、なんですが」
 客観的な意見を素直に言おう。
「何のお店か、わかりにくかったです。外の立て看板にメニューがあったので、飲食店だとはわかりました。でも中が見えないから入りづらいです」
「入りづらい?」
「はい。だから窓に掛かってるレースのカーテン、取っ払っちゃった方がいいと思います」
「でもさ、中、丸見えじゃない?」
「見えた方が安心して入れます。混んでいるかどうかわかるし、明るく見えます」
「そういうもんかな」
「あと、立て看板にメニューと店内の写真が貼ってあるといいです。和食メインか、洋食屋なのか、コーヒーが売りなのかわからない。家具が置いてあるなんて、思ってもみませんでしたし」
 あーもうだめ、止まらない。
「あとは、お店の中なんですけど」
 言いにくいけど、思い出の品にケチをつけるわけじゃないけど、でも……。
「店長が和洋折衷、いろんなメニューを作れるのは、このお店の強みだと思うんです。でも、それを生かすには、他は徹底的に、シンプルにした方が、いいか、な、と」
 店長の視線が痛くて、自信の無い声になってしまった。
「ホールをシンプルにするってこと?」
「……そうです」
 彼は私の言葉に腕組みをして考え込んだ。
 そうだよね。店長にとって不要なものなんて、ここにはないんだから、考え込んでもおかしくない。
 もういっそのこと、置いてあるものを活かした雰囲気作りをしてみようか。ハードル高そうだけど、下町の定食屋さんみたいな感じで。

 食べ終わった職人さんが、麦茶を啜ってから言った。
「あのダルマとか邪魔じゃね? 棚からはみ出してるじゃん」
 ストレートすぎるうう! この人、店長とどれくらいの付き合いがあるんだろう。まさか知らないの? ここにあるものは、店長のおじいさんとおばあさんの大切な思い出の品だっていうこと。
「あ、そう? んじゃ事務所に持ってくか」
「えーーーーっ!!」
 店長あっさり頷いたよ! 何でそんな簡単に返事しちゃうの?
「ど、どうしたの、おっきな声出して。びっくりしたなー」
「だって、あの達磨は特別なものなんじゃ」
「いや別に特別でもないよ。商店街の人たちと出掛けた時に無理やり買わされたようなもんだし。縁起物だから事務所には置いとくけど、駄目? ここの方がいい?」
 立ち上がった私を覗き込むようにして、店長が優しく訊ねてくれる。
「いえ、いいんです。店長がそれで良ければ」
 まさか、あれも? 恐る恐るそちらを指差す。
「あの招き猫は」
「ああ。俺、猫好きなんだ。くじで当てたんだよ、あれ」
 そんな、そんな……。
「時計は?」
「前にビンゴで当てたんだよ。使ってなかったから、ちょうどいいかなーって」
「おじいさんとおばあさんの思い出の品じゃないんですか?」
「へ? そんなの、ここにはないよ。あのレジくらいかな。使えるから取っておいたんだけど」
「そ、そうでしたか……」
 はー、力が抜けた。
「急によろけてどうしたの? 具合悪いの?」
「大丈夫です。あの、さっきのシンプルにするっていう話の続きですけど、今度こそはっきり言っちゃってもいいでしょうか」
「おう! どんどん言っちゃいな!」
 私一人で思い込んでて、ほんとに馬鹿みたい。

 漫画と時計とカレンダーと、置物全部と、テーブルにかけたビニールのクロスと、レジに並べてある小さな人形と、窓際にぐるぐる巻きついてる造花と……。
「これ全部、撤去しちゃっていいと思います」
 私が指を差して回ると、ついて来た店長が呆れた声を出した。
「すげー、そんなに? 残ってるの、テーブルと椅子しかないじゃん」
「すみません。でも店長に拘りがあるなら、そのままでいいとは思うんですけど」
「俺、味にだけ拘って来たから、別にそれはいいんだけど。でも、そうか……」
 私から離れて店内をゆっくり歩き始めた店長は、顎に手を当て真剣な顔で呟いた。
「どうせやるなら、徹底的にした方がいいな」
 窓の前で立ち止まった店長が、離れた場所にいる私を振り向いた。逆光になってその表情がよく見えない。目を細めた時、店長の大きな声が私に届いた。
「くるみちゃん、一か月以内にチーズケーキできる?」
 その瞬間、体がぞくっとして同時に胸が熱くなった。武者震い、ってこういうの?
「やってみます。頑張ります……!」
「よし。俺もメニュー見直してみる。営業時間も考えよう。お盆休み使ってリニューアルする」
「え!」
「ちまちまやるよりさ、いっぺんにやった方が面白いじゃん。既に失敗してる身としては、その場しのぎじゃなくて、次こそしっかり考えてやりたいし」
 店長がカーテンを掴んで、勢いよくあけた。隣の窓のカーテンも、その隣も。道行く人が一斉にお店の方を見た。明るくなった窓際に佇む彼の背中を呼ぶ。
「店長」
「んー?」

 もっと、聞いてほしいことがある。
 たかが一週間ここで過ごしただけの、まだ頼まれたチーズケーキも満足に作ることの出来ない、そんな私の話に耳を傾けて、すぐに実行してくれたこの人に。もっと。
「あとでパソコンお借りしてもいいですか? 見せたいお店があるんです」
「いいよ。じゃあ今日の帰りに事務所で作戦会議しようか」
 黙ってお茶を飲んでいた職人さんが焦って顔を上げた。
「まさか俺もすんの?」
「当然。くるみちゃん、時間ある?」
「はい、大丈夫です!」