「あの、全員辞めたって、どういう……」
「どうせあとで永志に頼まれるんだろうから、先に見せておくか。こっちどうぞ」
職人さんは私の顔も見ずに立ち上がった。言うだけ言っておいて、私の質問はスルーなのね。
「どこに行くんですか?」
私も立ち上がって、歩き出した職人さんのあとをついていく。
「家具作ってるとこ。って言っても、ここじゃ大したことしないんだけど」
お店の入口近くのレジに行く。入った時には気付かなかったけど、レジの一角に椅子やテーブルが置いてあった。全部値札が付いている。狭いけど、ここが家具コーナーなんだ。
レジの後ろを通って奥に行くと、ドアが二つあった。職人さんが右側の扉に手を掛けてひらいた。
十畳ほどの広さの部屋に机と椅子。壁にぴったりとついた棚にはたくさんの書類が並び、横に小さなロッカーもあった。机の上にはパソコンと電話。
「一応ここが休憩室兼事務所。俺は昼間は大抵ここにいて、家具の受注と発送作業をしてる。ホームページもここで更新してる。ホールが忙しくなったら手伝うことになってる」
「家具はどこで作ってるんですか?」
「あっちから裏に出られる」
入口とは反対側の壁に、もうひとつドアが付いている。その扉を開けると、少し離れた場所に倉庫のような建物が見えた。夏の強い日差しが地面に照り付け、外から暑い空気が入り込んでくる。
「あの倉庫で仕上げをしてるんだ。材木の切断と大きい音の出る作業は別の場所を借りてやってる」
「ここから遠いんですか?」
「近いけど、カフェが休みの日にまとめてやってるから、関係ないよ」
外に出る訳でもなく、すぐに扉を閉めようとした職人さんに訊いてみた。
「あのー、倉庫の中は見せてもらえないんですか?」
「あんたがここで働くって正式に決まったらね。それまではやだ」
そんな言い方しなくても、ってまた思ったけど、この人の言うことも一理ある。よくわからない人間に大事な場所は見せたくないよね。
入って来た事務所のドアをもう一度開けて戻ろうとした時、隣に並んだもうひとつのドアから店長も出てきた。
「おう、ちょうど良かった。遅くなってごめんね。しまいこんじゃっててさ」
どこに通じてるんだろう。お店と事務所、その他にも部屋があるってことは、すごく広いよね、ここ。
「良晴ありがとな。事務所案内してくれたんだろ。倉庫も」
「いや、倉庫の中は見せてないけどね」
「そうなの? まあいいや」
ホールに戻り、さっきのテーブルについて、店長が差し出した書類に目を通す。メニューも見せてくれた。怪しいところなんてない、きちんとしたお店だった。
「時給はこれね。勤務日は週三日以上で、時間は」
「永志」
横から職人さんが遮った。彼は事務所の冷蔵庫から持って来たペットボトルを手にしている。
「何だよ、今話し中」
「そんな説明よりも先に、言っておいた方がいいんじゃないの?」
「……やっぱ、そう思う?」
何だろう。まだ何かあるの?
「せっかく入っても、話が違いました、って急に辞められたら困るし。この時間が無駄になる」
「まあな」
「無理なら無理だって初めに言っておいてもらわないと。困るのはお前だろ」
職人さんに言われた店長は大きく頷いたあと私の方に向き直り、背筋を伸ばして右手をグーにした。
「チーズケーキだけにあらず……!」
「はい……?」
この人もよくわからないなぁ。私が答えに困っていると、テーブルに肘をついた店長はずいっと身を乗り出した。
「あのさあ、駒田さん、だっけ。チーズケーキの他にお菓子作れる?」
「作ろうと思えばできますけど、何を作ればいいんですか?」
というか何の免許も持っていない素人なんですけど。そこら辺はいいのかな。
「そうだねえ」
店長は腕組みをして天井を仰いだ。業務用の大きなエアコンがゆっくりと羽根を動かしている。
「このカフェ、四月に開店してから客の伸びが悪いんだ。今、見てもらってもわかると思うけど、誰も来ないでしょ?」
確かに、さっきから誰も来ない。私がここに来て一時間近くは経っていると思う。
「だから、これから気合入れて立て直していこうと思ってるんだ。それで出来れば、その辺りを全面的に協力して欲しい」
「協力……」
「俺はスイーツが作れない!」
「え!」
「料理はできるんだ。エスプレッソも淹れられる。でもお菓子が作れない! これはカフェをやるのに致命的だって最近わかったんだ!」
カフェにデザートがないなんて、確かにそれは嫌かも。
「でも思いついたのはそれだけ。どうしたら人が入るのか、もっと店が盛り上がるのか、わからないんだ。俺だけじゃなくて、こいつにもわからない」
店長はペットボトルの水を口にした職人さんを指差した。
「俺は家具作り以外に興味が無いだけ」
うん、そんな感じする。そこだけは妙に納得しちゃう。
「だからスイーツのことだけじゃなくて、客観的な意見が欲しいんだ。何がいけないのか、どんなところを変えたらいいのか、遠慮しないでどんどん言って欲しい。っていうのが条件」
「でも、そんな大事なこと、私でいいんですか? プロの方もいますよね? 店づくりをプロデュースするような」
「自称プロの言うことはあんまり信用できない。店を丸ごと作り変えられるのも嫌なんだ。できればさっき、カプチーノを飲んだ時みたいな、ああいう素直で身近で率直な意見が欲しい」
店長の真剣な表情と言葉を聞いていたら、急激に自分のことが恥ずかしくなった。
普通はプライドが邪魔して、自分の店をどうしたらいいかなんて、そんなこと人には訊けない。本気なんだ、この人。それに比べてさっきまでの私は……。
自分の都合で次が決まるまでの繋ぎで働いてみようかと思ったり、その癖お店に入った途端に幻滅して上から目線でそこら中のもの評価して、挙句の果てに変な勧誘されたらどうしようなんて思い込んで。美味しいカプチーノ出された途端に気分が上がったり、勝手なことばかり。
「ここで働きたいと思ってくれたら、まずそのことを視野に入れて欲しいんだ。もし無理なら早めに連絡くれると助かる」
こんな私、どこ行ったって採用されるわけがない。好きでもない資格取ったって、次の会社が嫌になったらそれを言い訳にして、また辞めようとするんだ、きっと。最低だよ、そんなの。
私の中に今まで味わったことのない気持ちが、むくむくと湧き上がった。
「そうだな、三日以内に返事を、」
「やります!!」
立ち上がった拍子に座っていた椅子が、がたーんと大きな音を立てて倒れた。店長は驚いて私の顔を見上げた。
「どうしたの、急に」
変わりたい。
「私で良ければやります!! 決めました私!」
このお店と一緒に、私も。
「いやでも就活中なんでしょ? 嬉しいけど、一旦家に帰ってさ、よく考えてからでも」
「私、趣味がお菓子作りとカフェ巡りなんです! 持ってる限りの情報を出して、ありったけの知恵を絞って、協力します! いえ、させてください!!」
「ほんとに? いいの?」
戸惑った店長に私は続けた。
「たくさんの人が来るお店にしましょう! あのカプチーノを皆に知ってもらいましょう! 私、あの味に感動したんです!」
「お、おう……!」
店長の返事を聞いた職人さんが隣で吹きだした。この人のこと、すっかり忘れてた。
「あ、あと椅子も!」
「後付けかよ」
「すみません……」
私の後ろで倒れた椅子を起こしてもう一度座り、重たい鞄の中を探った。確か余分に持っていたはず。
「やる気があるのは今だけで、俺は途中で逃げ出すと思うけどね」
「逃げたりしません! これ履歴書です。いつも持ち歩いてるんです。どうぞ!」
職人さんに反抗してから、店長に履歴書を差し出した。私も本気になったってこと、わかってもらうために。
「駒田くるみさん、ね。二十四歳か。あれ、結構いい会社勤務だったんじゃん。……根性ありそうだな」
履歴書を広げて目を通した店長は、ふと顔を上げて私を見た。
「きつかったんじゃない? ここ」
何で知ってるんだろう。驚いた私に意味深に笑いかけた店長は、履歴書を畳んで自分の前に置いた。
「俺は二十八。良晴も同じ。俺ら下の名前で呼び合ってるから、駒田さんもくるみちゃんでいいよね。カフェっぽくておいしそうだし」
「カフェっぽい、ですかね」
「食べ物の名前っていいじゃん。俺らのことも気軽に呼んでよ。な? 良晴」
「別に……どーでもいいけど」
にこにこ笑っている店長と、ほとんど笑わない職人さん。対照的な二人と一緒に、ここで働く。
まだ気になること、たくさんあるけど。怪しさも多少感じるけど。
こんなふうに突然決断したの、生まれて初めてだけど。もしかしたら、すごく後悔することになるかもしれないけど。
一度決めたからには、とことんやるしかない。
得意なチーズケーキのレシピを頭の中に思い浮かべた時、からりんと鳴ったドアがひらき、お客さんが入って来た。