「くるみちゃん」
 私を見つめ続ける彼が眉根を寄せた。
「はい」
「本気で言ってるの? カフェ・マーガレテに行きたいって」
「本気です。永志さんは行ったことありますか?」
「いや、ないけど」
「どうしてですか?」
「どうしてって」
 目を逸らした彼が小さく溜息を吐いた。
「忙しいのもあったけど、行く気にはならなかったっていうか……。俺の顔が割れてるかもしれないのが面倒だったし、同じようなメニューを見ても不快になるだけだと思ってさ」
「私も行った事はありません。こんなに近いのに怖くて行けなかったんです。現実を目の当たりにしたら、自分の仕事が出来なくなりそうで」
 一生懸命考えたスイーツをそっくり真似されたチラシを見ただけで怖くなった。だからといって、見て見ぬ振りをしても先には進めない。
「永志さんと一緒なら行けると思ったんです。連れて行ってくれますか?」
「……逃げてても、仕方ないもんな」
 再び私と視線を合わせた彼が、きっぱりと言った。
「わかった。明日一緒に行こう」


 ラベンダー色のストライプのワンピースに薄手のカーディガンを羽織って、足元はいつもより高いヒールの靴を履いた。石畳の上が歩きにくかったけど、これなら少しは彼と身長差を縮められるよね。一応デートだから頑張ってみたんだけど、変じゃないかな?
 椅子カフェ堂の扉を開けると、ちょうど奥から彼が支度を終えて現れたところだった。心を落ち着けてからカフェ・マーガレテに向かいたくて、駅ではなく、ここで待ち合わせをしたいと言ったのは私。
「おはようございます」
「おはよう。……いいね、うん」
 私の姿を上から下まで見つめた彼は、傍に来て私を抱き寄せた。
 昨日から何度も抱き締められちゃって、とても嬉しいけど困ってしまう。永志さんってスキンシップが好きなのかな? こうなる前から頭を撫でたり、傍に寄ってきたり、いつもどぎまぎさせられていた気がする。
「可愛い、すごく」
 ぎゅーっとされて、彼の匂いでいっぱいになる。
「永志さんも、そのシャツとパンツかっこいい。眼鏡も」
「そ、そう?」
「いつもコンタクトだったんですか? 知らなかった」
「いや視力は悪くないよ。これはその、変装用の伊達眼鏡」
「変装?」
 思わず腕の中でクスッと笑ってしまった。
「……笑ったな?」
「笑ってないですよー」
 言葉とは反対に笑顔で彼を見上げ、背伸びをした。照れている彼の頬にキスをすると、唇へ軽くお返しをしてくれる。こうして彼の傍にいるせいもあるけれど、椅子カフェ堂の中にいると緊張が解けるのがわかる。
 カフェ・マーガレテに向かう心の準備は出来た。

 椅子カフェ堂の前の通りを歩き、角を右に曲がって、石畳の通りを駅の方へ進んだ。外は日差しが強くなりそうな良いお天気。
 駅に着く手前を左に曲がったすぐの場所に、カフェ・マーガレテがあった。
 入口近くで一旦足を止め、二人で深呼吸をする。
「入るよ? いい?」
「はい。行きましょう!」
 覚悟を決めて気合を入れると、彼がカフェ・マーガレテのガラスの扉を押した。
 明るい木目調の内装が全体を柔らかな雰囲気にしている。テーブル席は椅子カフェ堂の三倍はありそう。
「すごく広いですね」
「そうだな。特に奥の家具置き場と雑貨コーナーが広い」
 彼に言われて奥へ目をやろうとした時、店員さんが現れた。
「いらっしゃいませ〜。お二人様ですか?」
「はい」
「こちらへどうぞ」
 学生さんかな? 若い女の子に案内をされて窓際の席に着いた。もうすぐランチの時間だけど、思ったよりはお客さんが入っていない。
 テーブルにあらかじめ置いてあったメニューに、全ての写真が掲載されていた。椅子カフェ堂とそっくりなワンプレートやスイーツが載っている。
「うちと同じメニュー以外はオーソドックスだな。イタリアンなんだか洋食なんだか、和食なんだかよくわからないけど」
「これって、椅子カフェ堂と同じようにしたのが裏目に出てますよね」
「ああそうか。うちは日替わりとか、週メニューで統一してるからおかしくはないのか。ってこれ、くるみちゃんが最初に指摘してくれたことだよな?」
「はい。何のお店かわからないと、お客さんは迷うと思うので」
「なるほどね。客として見てみると、よくわかるよ。シンプルが一番だな」
 椅子カフェ堂と同じメニューをひとつ、もうひとつは違うものを頼み、半分ずつシェアすることにした。
「私、食事が来るまで雑貨コーナーを見て来てもいいですか?」
「おう。俺よくわかんないから、じっくり見て来てくれると助かるよ」
「わかりました」

 雑貨と家具が置いてある隣にキッズコーナーが設置されていた。小さい子が遊んでいる。これならお母さん達は安心して雑貨を見ていられるし、お食事中も助かるよね。場所が広いと、こういうこともできるんだ。
 家具の上にディスプレイされている雑貨を手にした。
 やっぱりレプリカだ。値段も安い。カフェ・マーガレテのホームページには何故か雑貨のページがなかったから、今まで確かめることができなかった。ヴィンテージやアンティークがこんなにピカピカしてるわけがないもんね。でもデザインは可愛いから、ちょっと欲しいかも。
 次に家具へ目をやる。残念なことに、全て好みに合わないものばかりだった。木材が合板ばかりで塗りも雑。形はシンプルだけどすぐに壊れそう。時間が経つにつれて味わいが増していく職人さんの家具とは大違いだよ。
 だけどもう、椅子カフェ堂に職人さんはいない。家具は減っていくばかりだし、寂しいけれど頼ることはできない。

 席に戻り、彼の正面に座った。眼鏡の真ん中を押した彼は、興味深げな表情で私に訊いた。
「どうだった?」
「雑貨は全部レプリカでした。でもすごく可愛いのもあって……欲しくなっちゃいました。ごめんなさい」
 私の言葉に彼が笑った。
「正直だな、くるみちゃんは。家具はどうだった?」
「そっちは全然いいとは思いませんでした。職人さんの作ったものとは比べ物になりません」
「そうか」
 頷いた彼がコップのお水を飲んだ。職人さんの話題が出ると、どうしてもお互い溜息が出てしまう。
「お待たせいたしました」
 店員さんがテーブルにお皿を載せた。彼はオムライスとサラダのセット。私は和食のワンプレート。いただきますをして、お互い料理を口にする。
 ふたくち、みくちと進んだ時、彼が言った。
「特に不味い訳じゃないけど、何か味がぼやけてんな。典型的なアレだよな……」
「ファミレスの味、ですよね。ファミレスが悪い訳じゃないんですけど、椅子カフェ堂に対抗したんだったら、これは違う気がします」
「やっぱそう思う? 親父のファミレスの方から食材回してんのかな、これ」
 半分ほど食べ終わったところで、お互い食べていたものを取り替えっこした。
 彼の食べかけのオムライスを口に入れる。……うーん。悪くはないんだけど、どこにでもあるような味かな。彼も私から受け取ったご飯を食べて微妙な顔をしていた。
「永志さん」
「ん?」
 コップのお水を口にした彼が私を見た。
「これ真似しちゃいましょうか? オムライス」
「え!」
「だって散々こっちが真似されてるんだから、一つくらいはいいかなって。同じのを作って、それをこの味より何倍も美味しくするの」
「何倍もって、俺が作るんだろ?」
「永志さんなら絶対にできます。自信あります」
 身を乗り出した私に、彼が声を上げて笑った。
「くるみちゃんって大胆だよね。普段は大人しそうなのにさ」
「ごめんなさい」
「いや、すごくいいよ。俺が好きになっただけのことはあるな」
「何ですか? それ」
「良晴に聞いたかもしれないけど、俺って人の好き嫌いが激しいんだよ。女の子も……ていうか俺、全然モテないんだけどね。くるみちゃんも良晴も誤解してるみたいだけど」
「それはきっと、永志さんに彼女がいそうだから、告白する前に諦めてるんじゃないかと思います」
 モテないなんて絶対嘘。放っておかれる訳がないもんね。
「そうか〜? でもそんなんで諦めるくらいなら、たいして好きじゃなかったってことだよな」
「まぁ、そう言われればそうかも……」
「くるみちゃんは全力で来てくれたもんな」
 満面の笑顔で私を見つめる彼に、急に意地悪を言いたくなった。
「……拒否したくせに」
「あ、いやだから、それはほんとごめん。でもあれはさ……」
 焦った彼は私のことをどれだけ好きか、一生懸命説明し始めた。必死な表情が何だか可愛くて笑ってしまう。
「もうわかったからいいです。大丈夫」
「ほんとに?」
「ほんとに、ほんと」
 スプーンを持っていない私の左手を、彼がそっと握って微笑んだ。
「今度は俺の方が全力でいくから、待ってて」
 こ、こんな所で突然何を……と顔を赤くした時、隣のテーブル席に三十代くらいの女性が二人座った。さり気なく手を離して、彼も私も何事もなかったかのように食事を続けた。

 隣の女性が雑誌をテーブルに置いて話し始めた。
「私、本当は違うお店に行きたかったんだよね」
「どこ?」
「これ。このお店より、ずっと小さいんだけど」
「椅子カフェ堂?」
 その名前に心臓がどきーんとした。店長を顔を見合わせて小さく頷く。私も彼も手を止めて、彼女たちの言葉に耳を集中させた。
「すごくいい感じなんだよ」
「ここと似てない?」
「似てるけど、雑貨も家具もあっちの方が良さそうなんだよね。ホームページもシンプルで可愛いし」
「へえ」
「ここ、いかにもチェーン店って感じで正直がっかりした。大きな声じゃ言えないけどね」
「その行ってみたい方って、今日はお休みなの?」
「うん。月曜定休なんだよね、残念」
 こっちが残念です! って謝りたい〜! 言えないのがもどかしい!
 食後のコーヒーを口にしてから、彼が静かに言った。
「良晴がさ、わかる人にはわかるんだって、よく言ってたんだよな。その通りだった」
「私にも言ってました。こちらが無理に変える必要はないって」
「そうか」
 ぶっきらぼうで、自分はいつも関係ないって顔してたのに、本当は椅子カフェ堂のことをすごく心配してくれてたんだ。
「戻ってきて欲しいよな」
「はい……」

 カフェ・マーガレテを出た私たちは、ショーケースを探しに中古ショップを巡った。結局納得いくものが見つからず、厨房のお店で新品を注文することになった。届くのは月末。ショーケースの中で映える、綺麗な色の新しいスイーツを考えよう。
 彼は私が降りる駅まで送ってくれた。明日またすぐに会えるのに、離れてしまうのが寂しくてたまらない。気持ちが通じ合っても、もっともっとって、どんどん贅沢になっているみたい。

 翌朝の開店直前、椅子カフェ堂に一本の予約の電話が入った。