椅子カフェ堂の扉を開けて中に入ると、貴恵さんが窓際のテーブル席で待っていた。
「貴恵、ごめん。帰ってなかったんだな」
「お帰り。鍵かけなくていいったって、いくらなんでも不用心だから待ってたのよ」
 バッグを持ち、椅子から立ち上がった貴恵さんは、私たちの方へ歩いて来た。
「ふーん。そういうことだったのね」
 繋いでいる私たちの手をチラリと見た貴恵さんが意味深に笑った。
「えーとまあ、そういうことだよ」
 恥ずかしいから手を離そうとしたんだけど、彼がそれを許してくれない。余計にぎゅっと力を入れて握られた。
「永志くん、教えてくれなかったじゃない。私は良晴のこと何でも相談してたのに。ほんと秘密主義なんだから」
「言う必要ないと思ってたんだ。彼女に……くるみちゃんに迷惑掛けたくなかったしさ」
 貴恵さんは胸の前で腕を組み、店長から私に視線を移した。
「私、あなたって良晴のことが好きなんだと思ってたの。仲がいいみたいだったし」
「え! 全然違います」
「うん、さっき出てった時にわかった。私と永志くんのこと誤解したでしょ? 私、永志くんは全く好みじゃないから気にしないでね」
 この人、こんなに優しい顔で笑うんだ。すごく綺麗。見惚れていると、店長が私の手を強く握って揺らした。
「な? 言ったろ?」
「はい」
「何の話よ?」
 私たちのやり取りに、彼女が怪訝な顔をした。
「俺と貴恵の間に恋愛感情は一切ないって話」
 当たり前でしょ、と言った彼女は、バッグを肩に掛けて長い髪をかき上げた。
「私、再来月から海外勤務が決まりそうなの」
「行くのか?」
「もちろん。元々向こうで働くのが夢だったし。でもその前に良晴に会いたかった。ヨーロッパだったらあっちで探してやるのに」
 彼女は話を続けながら、バッグの中を探って一冊の雑誌を取り出した。
「でも良晴のことは何とかしてみせる。こうなったら意地でもね」
「何とかって?」
「教えないわよ。永志くんだって彼女のこと教えてくれなかったんだから、これでおあいこでしょ」
 店長の質問に首を振った彼女が、悪戯っぽく笑った。
「あいつから連絡あったら、すぐに貴恵に知らせるよ」
「ありがと」
「貴恵さん。いろいろと、ありがとうございました」
 落ち込んだこともたくさんあったけど、椅子カフェ堂の為に動いてくれたことは本当に感謝してるから。
「これ、あなたにあげる」
 彼女はさっき取り出した雑誌を、私の手に持たせた。
「カフェ・マーガレテが掲載されてたのを偶然見つけたの。小さい記事だけど良かったら読んで」
「ありがとうございます」
 じゃあねと手を振って、貴恵さんは椅子カフェ堂を後にした。
 急に静まり返った場所で彼と顔を見合わせる。ホールに二人きり。いつもと同じ開店前の時間なのに、今日は何だか意識してしまう。
「えーと、じゃあ準備始めるか」
「はい」
「俺、上行って着替えてくるわ」
「汚しちゃいましたか? ごめんなさい」
 尻餅着いちゃったもんね。どうしよう。
「いや、全然大丈夫。汗掻いたし、ちょうどいいよ」
「私も事務所でエプロン替えてきますね」

 見本用のプチカップケーキに飾りのクリームを絞っていく。
 店長、着替え終わったのかな。厨房に入ったみたい。これから何の仕込みをするんだろう。
 さっき彼の肩に担がれた時、すごく高い場所で驚いたな。店長の視線っていつもあんな場所にあるんだ。そのあとベンチに座らせて、私に言ってくれた言葉をひとつひとつ丁寧に思い出す。
 私、店長に好きって言われたんだ……。
「あ!」
 クリームの組み合わせ間違えた! このカップケーキにはチョコクリームなのに。初めてだよ、こんなこと……。肩を落としていると、こちらの厨房を覗いた店長が声を掛けてくれた。
「どうした? 何かあった?」
「カップケーキのクリームを間違えちゃって。全然違う組み合わせにしちゃったんです」
「珍しいな。大丈夫?」
「大丈夫です。すみません、気を付けますね」
 あーもう馬鹿馬鹿! 頬を両手でパンと叩いて気合を入れた。
 冷蔵庫を開けてマシュマロフォンダントを取り出す。浮かれてる場合じゃないの! やることはまだまだあるんだから。
「うわ、やべ!」
 店長の声と共に、大きな音が厨房中に響いた。
「どうしました!?」
 急いでそちらに行くと、しゃがんでいる店長が落としたボウルを拾っていた。
「ああ、ごめん。何でもない。落としちゃっただけ」
 作りたてらしいソースの材料が床に広がっている。いい香り。それにしても店長がこんなことするなんて本当に珍しい。ここで働くようになってから初めて見たかも。
「拭きますね」
「平気だよ。くるみちゃん、自分の続けてな」
 言われた通りに自分の厨房へ戻ると、後ろからパンパンと叩く音が聴こえた。さっき私が頬を叩いた音に似てるんだけど……まさかね。店長に限ってそんなことはないはず。

 でも結局、その後はもう競争してるみたいに、物を落としたりぶつけたりする音や失敗するたびに上げる叫び声を、お互い何度も厨房に響き渡らせていた。
 私は追いかけてきてくれた彼を思い出して、嬉しくてたまらなくなって、気持ちが浮ついてるからなんだけど、彼はどうしたんだろう。まさか、また具合でも悪いのかな。
 心配になって手を止めた時、再び声を掛けられた。
「くるみちゃん、今手空いてる?」
「大丈夫です」
「悪いんだけど、ちょっとこっち来て」
「はい」
 ホールに呼ばれて、テーブルに寄り掛かっている店長の前に行く。近付いた私から顔を逸らした彼が、自分の首の後ろを触りながら言った。
「なんか俺、仕事が全然手につかないんだよ。どうしちゃったんだろ」
「え」
「くるみちゃんのことが気になって仕方ないんだ。参ったな……」
 困ったように笑った彼の横顔に胸がきゅんとした。もしかして同じ気持ちだったの?
「私もです。何か、気持ちがふわふわしちゃって」
 具合が悪いわけじゃなかったんだ。店長がそんな気持ちになってくれるなんて嬉しい。
 椅子カフェ堂の前をベルを鳴らしながら走る自転車が通り過ぎた時、突然彼が言った。
「一回だけ抱き締めさせてくれる? 多分それで気が済むと思うから」
「え! ここでですか?」
「駄目? 外からは見えないよ」
 もちろんロールスクリーンが下りてるし、ドアも閉まってるから見られることはないけど……。
「だ、駄目じゃないです。でも」
 言い終わらない内に、ぎゅっと抱きしめられた。
「ちょっと遠いな」
 すぐに離れた彼が、職人さんが作った家具の中から少し高さのあるスツールを私の前に置いた。それに座り、私を目の前に立たせた彼が満足そうに微笑む。
「これなら近いね」
「近いですけど……」
 身長差が少しになって嬉しいけど、近すぎます。この状態で抱き締めるってこと?
「約束した、さっきの続きね」
 私の腰に左手を回して自分に引き寄せた彼が、右手で私の首の後ろを支えた。
「!」
 驚く暇もなく、目を伏せた彼に唇を奪われる。慌てて瞼を閉じてその唇に応えた。軽く重ねた間から、吐息と共に甘い言葉が囁かれる。好きだよ、って何回言ってくれるんだろう。
 彼の首に手を回し、合わせた唇の隙間から、私も好き、って彼の真似をして囁くと、柔らかくて温かい彼の舌がその言葉を遮った。
 深く入り込んでくる舌に応えると、ますます激しくなっていく彼の動きに戸惑ってしまう。いつの間にか彼の両手は私の背中や腕や腰を優しく撫でたり、力をこめて抱き寄せたりしていていた。なんだか体が熱い。幸せすぎて溶けちゃいそう……。
 ゆっくり唇を離した彼が、すぐ傍で小さく息を吐きながら言った。
「……気が済んだ」
「そ、そうですか」
 何度も深呼吸して乱れた息を整える。ちょっと激しかった、よね。たった今したばかりのキスを思い出して顔が赤くなる。
「ありがとうな」
「いえ、こちらこそ」
「こちらこそって」
 目の前の店長が噴き出した。また変な返事しちゃった。だってまだ恥ずかしくて、急に恋人みたいになんて振る舞えないよ。

 私の腰に手を回したまま、彼は嬉しそうにこちらを見つめていた。私もその瞳に応えて見つめ続ける。たったこれだけのことなのに、もう他には何もいらないくらいに幸せ。
「本当は今すぐにでも、くるみちゃんを上に連れて行きたい」
 彼の穏やかな表情が真剣なものに変わった。
「俺の部屋で、あの時できなかったことを全部したい」
 その言葉の意味に胸が高鳴る。
「でも我慢する」
「我慢?」
「うん。今はこれで十分幸せだから、焦らない。大事にしたいんだ、くるみちゃんのこと」
 とても大切な宝物のような言葉を受け取った私は、きっと昨日とは全然違う顔をしていると思う。彼のことを深く知ったら、今度はどんな私になるんだろう。それを知ることができるのは、遠い未来のことじゃないんだよね?
 私の頭を撫でた彼が、優しい声で言った。
「明日デートしようか。ショーケース見に行きがてら」
「いいんですか?」
「いいよ。どこに行きたい? 車出そうか」
「嬉しい! どこがいいかな……」
 前みたいに食べ歩き? 映画でも観に行く? 美術館? 水族館? それとも少し遠出する?
 迷っていた私の脳裏に、ふと全く違う場所が現れた。今の私たちにとって、それが相応しい場所なのかはわからなかったけれど、でもそれを選択することが一番いいような気がした。
「あの、どこでもいいんですよね?」
「いいよ、もちろん」
 彼の瞳をしっかり見つめて、静かに声を出す。
「カフェ・マーガレテ」
「え」
 永志さんと一緒なら、きっと大丈夫。

「私をカフェ・マーガレテに連れて行って下さい」