お店を飛び出して石畳の通りまで全力で走った。
 いつもだったら右へ曲がって駅の方へ向かうのだけど、家に帰るわけには行かないから左へ曲がった。
 逃げてどうするの? 椅子カフェ堂の営業は? 頭の中でもう一人の私が囁いた。
 わかってる。あとで必ず戻るけど今は無理。もう自分がいやだ。ついさっき、店長と私の関係に納得したばかりだったのに。二人の姿を見ただけでこんなにも動揺しているなんて。
 店長の好きな人って貴恵さんだったの? 貴恵さんもきっと彼のことが好き。最初から私は邪魔者で、ただの独りよがりだったんだ。それなのに彼に迫って困らせていたなんて、恥ずかしくてたまらない。

 後ろから走ってくる足音が近付いて来た。嘘でしょ? まさかだよね?
「くるみちゃん!」
 以前と同じ展開に何だか悔しくなって、自分から立ち止まった。息を大きく吸って吐いてから彼を振り向く。
「どうして、また追いかけて来るんですか!?」
 息を切らして私の前に来た彼を見上げ、睨んだ。
「店長のそういう優しさは本当の優しさじゃない……! ずるいです、そういうの。もうやめて」
 嬉しくてたまらない幸せな気持ちも、声を聴くだけで切なくなる感情も、自分が自分でなくなってしまう複雑な思いも、全部彼に恋したから知ったもの。
 それを手放して忘れようとしているのに、どうして?
 視線を落とすと店長の靴が目に入った。走って追いかけてきた彼の息遣いが聞こえる。何を言われても負けないように、両手を握り締めて声を振り絞った。
「あとで必ず戻りますから、今は放っておいて下さい。私、あの時しっかりフラれたのわかってます。店長のことは諦めますけど、椅子カフェ堂は絶対に辞めないので安心して下さい」
 頭を下げてから、彼に背中を向けた。これ以上惨めになりたくないよ。
 歩き出した瞬間、手首を掴まれた。椅子カフェ堂のホールで眠っていたはずの彼に、そうされた時と同じように。
 少しかがんで私の手首を握っている彼の方を向き、抵抗した。
「は、放して。人が見てます」
 駅に向かって私たちを見ながら足早に過ぎる人、興味本位で振り返る人。店長も私も、長さは違うけどお揃いのカフェエプロンをしている。椅子カフェ堂を知っている人が見ればすぐにわかってしまう。
「嫌だ」
「意味わかんないです。私に構ってないで早く貴恵さんのところに戻って下さ、」
「俺はくるみちゃんが、好きなんだよ!」
 突然大きな声で言った彼の言葉に身動きが取れなくなった。
「嘘、言わないで下さい。店長の好きは私の好きとは違うんです。その気もないのにそういうこと言わないで」
「嘘じゃない」
「信じられません、そんなの……!」
 手を振りほどこうとした瞬間、私の体が宙に浮いた。
「きゃ」
 私を抱き上げた彼は、自分の肩の上に私を乗せて担いだ。視界が急激に広がってその高さに眩暈が起こる。
「ちょ、ちょっと何するんですか!」
 彼の右肩の上で抵抗したけれど、力で敵う訳がない。これじゃ私、運ばれてる米俵みたいだよ。
「くるみちゃんが俺の話を聞かないからだろ」
「荷物じゃないんだから下ろして下さい! スカートの中が見えちゃう」
「見えないように押さえてるよ」
「か、勝手に触らないで下さい! 小さいと思って馬鹿にして……! 下ろして、下ろして……!」
 彼の背中を思いきり両手で叩いた。
「嫌だよ。絶対下ろさないし離さない」
 ずんずん歩き出す彼の肩の上から地面を見下ろす。私、何でこんな目に遭ってるんだろう。
「う……」
 涙がぽろぽろ零れて石畳の上に落ちた。駅に向かう人とすれ違っているんだろうけど恥ずかしくて顔が上げられない。

 店長が私を好き?
 椅子カフェ堂に必要だからじゃなくて?
 私が店長を好きでたまらない感情とは絶対に違うのに。
 どうしてさっき貴恵さんは店長の肩に顔を埋めていたの?
 混乱する頭に次々と浮かんだ疑問を掻き消すように、彼が静かに言った。
「貴恵は、まだ良晴のことが好きなんだ」
「え……?」
「良晴が音信不通になって、いてもたってもいられなくて俺のとこに来たんだよ。さっきは気が動転して泣き出しただけ。俺も貴恵もお互いに恋愛感情は一切ないよ」
 貴恵さんが職人さんを好き? 彼の肩の上で涙を拭いた。
「そんな……。だったら尚更戻ってあげて下さい。不安でお店に来たんですよね?」
「冷たいかもしれないけど、貴恵のことは後でいい。今の俺にはくるみちゃんの方が大事だから追いかけて来たんだ。貴恵には、鍵掛けなくていいから帰ってくれって言っておいた」
 歩く速度が、さっきよりも緩やかになっている。
 暴れるのをやめて肩の上で大人しく揺られ続けていると、彼がぽつりと言った。
「俺は、本気でくるみちゃんが好きなんだよ」
「……」
「だからあの夜、途中で止めたんだ」
「……どういうこと、ですか?」
「逃げないで聞いてくれるって約束してくれれば下ろして話す。返事がもらえないなら、くるみちゃんがいいって言うまでこのまま歩き続ける」
 お花をプレゼントしてくれた時みたいに有無を言わせない彼の声。こうなると本当にどこまで連れて行かれるかわからない。
「聞きますから、下ろしてください」
 頷いた店長は石畳の通りにある樹の下のベンチへ行き、私をそっと下ろして座らせた。

 住谷パンの帰りに感じた爽やかな風と同じものが、二人の間を吹き抜ける。
 私の前にしゃがんだ店長は両手を差し出して、私の膝の上にあった両手を優しく握った。
「くるみちゃん、ごめん」
 どう答えていいかわからなくて、黙ったまま彼を見つめた。
「本当は店の存続が決まってから言うべきだと思ってたんだけど、もうこういうのはやめたい。これ以上誤解させたくないし、不安にもさせたくない」
 強く握られた手から店長の気持ちが伝わり、胸が痛んだ。
「何回も言うけど、俺はくるみちゃんが好きなんだ。もう、だいぶ前から」
「……前って、いつくらいから?」
「くるみちゃんが良晴のこと好きなんじゃないかって思い始めた頃だと思う。でも、大事な従業員に対してそういう気持ちは持つべきじゃないって考え直した。だから自分の気持ちは誤魔化して、くるみちゃんのことを応援しようとしたんだ。結局俺の空回りだったんだけど」
 苦笑した彼が顔を伏せた。
「俺が落ち込んでる時、くるみちゃんが好きだって言ってくれて本当は死ぬほど嬉しかった。でもあの時言ったように責任持てないって思ったのも本当なんだ。自分の仕事が駄目な時に、好きな子に慰めてもらう形になるのは嫌だった。それに」
 彼は周りをチラリと見てから、声を落として言った。
「くるみちゃん、初めてだったろ?」
「え!」
「違ったらごめん。でも、そうだとわかったらできなかった。俺がこんな状態で、くるみちゃんの大切なものを受け取っていいのかって」
 違ってないけど、当たっていたけど、本当にバレてたなんて。顔を逸らした彼に恐る恐る訊いてみる。
「永志さん」
「ん?」
「あの、どうしてわかったんですか? は、初めてって」
「寒くないって言いながら震えてたから、何となくわかったよ」
 右手を離した彼は私の頬を優しく撫でた。
「ありがとう。勇気いったろ?」
 その言葉にまた涙が溢れそうになった。
 勇気、だったんだろうか。
 ただ目の前にいる彼のことが好きで好きで、誰にも取られたくなくて、傍にいたくて、駄々をこねた我儘を勇気とは言えない気がする。でもあんなふうに好きな人へ自分の思いをぶつけたのは初めてだった。
「俺も勇気いったよ、途中で止めるなんてさ。止められた自分にも驚いたけど」
「私、自分に全然魅力が無いから店長が途中で止めたんだって思ってました。ずっと」
「逆だよ。本気で好きだから、やめたんだ」
 目を細めて私を見つめる彼の視線に胸が苦しくなる。職人さんが言った事、まさか私に当てはまっていたことだなんて思ってもみなかった。
「でもそのあと、俺の方がどうしていいかわからなくなっちゃってさ。くるみちゃんの姿を見るだけでなんか、どうしようもない気持ちになって、たまに抑えられなくなってた。ここのところ店の調子もいいし、くるみちゃんに気持ちを伝えてもいいんじゃないかって考えに変わって来てさ。結局迷ってる内に、こんなことになっちゃったんだけど」
 最近何かを言おうとしていたのは、このことだったの?
 知らなかった彼の気持ちをいっぺんに渡されて、抱えきれない大きさに戸惑っていた。でも絶対に零したり、落としたり、失くしたりはしたくない。
「いろいろごめん。俺、たくさん傷つけたよな、くるみちゃんのこと」
 頭を下げた彼は、しばらくしてからゆっくりと顔を上げて言った。
「もし許してくれるなら、この先もずっと一緒にいて欲しい。まだ店の存続は決まったわけじゃないけど、どんなに時間を掛けても、どんなことをしてでも、くるみちゃんを絶対幸せにしたいと思ってる」
 真剣な眼差しに胸が震えた。
「私は何があっても椅子カフェ堂にいるって決めてました。永志さんの傍にいられるなら尚更嬉しいし、それだけで幸せです」
 信じてもいいんだよね? 私もこの気持ちを伝えたい。

 彼の手を離して立ち上がった。まだ人通りがあるけど、通り過ぎる人がこちらを見ている気がするけど、そんなの構わない。
 驚いて私を見上げた彼の胸に飛び込んだ。
「私も好きです、永志さんのこと。大好き」
 その勢いに地面へ尻餅を着いた彼が、腕の中にいる私をぎゅーっと抱き締めた。
「大好きだよ、くるみちゃん」
 彼の胸に顔を擦りつけ、甘い言葉に浸りながら幸せを味わった。白いシャツから彼の匂い。何度も確かめて、これは夢じゃないって自分に言い聞かせる。
 私の髪を撫でた店長が言った。
「くるみちゃんはいつも、俺が言う好きは違うって言ってるけど、それ間違ってるからな? いつもちゃんと気持ちは入ってたよ。全然伝わってなかったけど」
「ほんとに?」
「ほんと。くるみちゃんが俺を好きって言うよりも、絶対に俺の方がくるみちゃんを好きだしな」
 顔を上げると私を見つめる彼の穏やかな表情があった。そのずっと向こうには五月晴れの青空。
「そんなことないです。私の方が好きです」
「いや、俺だね。絶対」
「いいえ、絶対に私の方が勝ってます」
 クスッと笑った彼が私の額に唇を寄せた。
 すぐ傍で視線を合わせて、今度は私がお返しに彼の頬に唇をあてる。
 最後に近付いた彼に合わせて瞼を閉じ、軽くキスをした。顔を離した彼が残念そうな声で言った。
「ほんとはもっとしたいけど、朝からこんなとこでラブシーンしてたら商店街中で噂になるから、ここでやめとく」
「そ、そうですよね」
 端っことはいえ、人通りのある場所で抱き合ってるんだもんね。さっきは勢いで抱きついちゃったけど、急激に恥ずかしくなってきた。
 彼は私の手を取り、一緒に立ち上がらせてくれた。
「店に戻ろう。続きはまたあとで」
「あとで?」
「くるみちゃんが良ければ、だけど」
「え、はい」
「改まってこういうこと言うの、何か照れるな」
 顔を赤くした彼が、私の手を取って歩き始めた。

 石畳の通りを歩きながら、店長に寄りかかっていた貴恵さんのことを思い出した。
 彼女が泣くなんて、よっぽど心配したんだよね。職人さんのこと、本気で好きなんだ。
 店長が言った通り、もうとっくに帰ってしまったのかな。

 私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれている彼の手を引っ張り、急ぎ足で椅子カフェ堂に向かった。