恋の一文字教えてください

2 古民家の書道教室


 門の前で車が停まった。
「着いたよ〜」
「琴美ちゃん、ありがとな。お茶飲んでくかい?」
「ううん、いい。今日午後から幼稚園の役員会なんだ、また来るわ。それじゃあ、日鞠をよろしくお願いします」
「あいよ」
 どっこいしょ、とおじいちゃんがドアを開けて車を降りた。
「日鞠、おじいちゃんの負担にならないようにね」
「うん、大丈夫」
「夕方には帰っておいでよ」
「あー、私このまま高円寺帰るから」
「そうなの?」
「これで決まりってわけじゃないだろうし、もう少しあっちでも仕事探してみる」
「どっちにしろ連絡ちょうだいよ?」
「ありがとう、琴美姉」
「いいえ」

 車を降りると、仄かな潮の香りがした。ここから海は見えないけれど気配は感じる。
「あ……何だろう」
 胸が甘酸っぱい気持ちで満たされる。実家に帰った時よりも強い、郷愁みたいなものが込み上げた。ずっとここには来ていないから、かな。
「早くおいでー」
「は、は〜い」
 もう玄関のドアを開けている。
 おじいちゃんてとっくに七十超えてたはずなんだけど、かなり若く見える。おじいちゃんは早くに結婚して子供ができた人だから実際若いんだよね。お父さんが早く結婚したのもおじいちゃん譲りかな。
 とにかく歩くの早いし、車も運転してるし、まだ骨董屋を営んでいるし……彼女までいるし。羨ましい。
「お邪魔しま〜す。あー……おじいちゃんちの匂いだ」
 靴を脱いで一歩足を踏み入れると、懐かしい匂いが私を取り囲んだ。
 狭い廊下を入って行くと右の突き当りが台所。全体的に随分とすっきりした気がする。
「お前、ここに来るの久しぶりだもんなぁ」
「ごめんね、なかなか来れなくて……」
「いいんだよ。琴美と幸香がしょっちゅう家に呼んでくれるからな。何も寂しいことはない」
 冷蔵庫を開けたおじいちゃんが麦茶を取り出した。私は置き場所の変わっていない食器棚からグラスを二つ取り出す。
「彼女もいるしな」
 笑ったおじいちゃんに、苦笑いで応えながら訊ねた。
「今日はその、彼女さんは?」
「仕事だな。夕方来るって言ってた」
「へぇ、仲良しなんだね」
「まぁな」
 その時おじいちゃんのスマホが鳴った。
 話し始めたおじいちゃんの横で椅子に座って麦茶を飲む。琴美姉が淹れるお茶と少しだけ味が違った。これはこれでとても美味しい。
「ちょっとご近所さんに用が出来たから、お前店番してくれないかい? その後、書道の先生紹介するから」
 通話を終わらせたスマホをズボンのポケットに入れ、おじいちゃんは立ったまま麦茶を飲んだ。
「私でいいの? 誰か来たらどうすればいい?」
「滅多に来ないけどもな、もしも来たら適当に相槌して、困ったらおじいちゃんのスマホに電話くれ」
「わかった」
「じゃあ行ってくるわ。そっちに店のドアがあるのはわかるな?」
「うん、覚えてる。行ってらっしゃい」

 台所を出て廊下を通り、玄関近くのもうひとつのドアを開けた。
 しんとしたお店の中へ入る。電気を点けると、様々なものが照らされて目に飛び込んだ。ここはまた独特の匂いがする。掛け軸、大皿、小皿、兜に、木彫りの置物多数。柱時計、お面、椅子に引き出し。骨董屋なんだから当たり前だけど、古びて色の掠れたものや錆びたもの、今見れば味のある物なんだけど、子どもの頃はその雰囲気が怖くて、すぐ外に出ちゃったっけ。
 通りに面しているお店のドアの鍵を開け、外の空気を少し入れた。
 おじいちゃんが営むこのお店は、今では趣味がてら開けているお店とはいえ、ネット時代ということもあって全国から問い合わせが入るという。
「誰が買うのかなぁ、こういうの」
 お店の中を歩きながら大きな壺をちょん、と触った時、ドアがひらく音がした。え、嘘。早速お客さん来ちゃったよ。
「い、いらっしゃいませ〜」
 私の声にこちらを向いたお客さんは、途端に不機嫌そうな表情をした。眉をしかめて私をじっと見ている。おじいちゃんじゃないから不振がられているのかも。軽く会釈をすると、その男性は目を逸らして置いてある骨董品を眺め始めた。
 意外と若い人が来るのね。
 黒髪に細身の男性は、紺色のロゴ入りTシャツにデニムを穿き、足元は……げ、下駄!? ビーサンかと思ったら下駄!? 最近流行ってるのかな、和男子というものが。鎌倉近いし、湘南はこれ、みたいな流れでさ。
 下駄に視線を奪われていると、彼がこちらを向いて言った。
「杉田のおじいちゃんは?」
「今さっき出掛けたんですけど、すぐ戻るそうです」
「そう」
 知り合いだから、余計変に思われたんだ。
「これください」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
 何に使うんだろう、この灰皿みたいの。意外と重たいよ、これ。ガラス製の花器のようにも見えるけど。値段は税込で五千円だって。安いんだか高いんだかもよく分からないなぁ。
「包まなくていいから領収書ちょうだい」
 万札を出した彼が早口で言った。それにしてもこの人……いい声してる。見た目は雰囲気イケメンって感じで結構好みだわ。
「あの、お名前は何と入れましょうか?」
「はなおか」
「はなおか様……お花の花でよろしいですか?」
「そう。岡は岡山の岡」
「はい」
「下の名前は……」
 バイトで慣れていたとはいえ、おじいちゃんのお店だから焦る。連絡入れる暇も無かったけど、普通に売っちゃって大丈夫だよね?
「ゆうじん。柚子のゆに、にんべんに漢数字の二で仁」
「は、はい。ゆず……って、ええと」
「きへん」
「あ、わかりました! こうですよね」
 花岡柚仁と書いて渡した。なかなか素敵な名前。どこかで聞いたことのあるような……芸能人に似た名前とか?
 領収書を見つめる彼は、その場から動かなかった。
「あの?」
「……字が汚い」
「え」
「まぁいいや。じゃあ、杉田さんによろしく」
「……ありがとうございました」
 字が汚いって、ショック。初対面でそういうこと言う?
 ドアを出て行ったのを確認してから独りごちる。
「汚いかなぁ、そんなに」
 そりゃぁ綺麗とはいえないけどさ。あんな、じーっと見つめられるほど酷い字ではないと思うんだけど。
 って、ちょっと待って。おじいちゃんが紹介してくれる書道家の先生、字が汚い人は雇わない、なんてことないよね。履歴書見た瞬間切られたりして。
 しばらくして、おじいちゃんが戻って来た。
「ただいま」
「お帰りなさい。お客さん来たよ」
「ああそうかい。……まさか売れたのか?」
「そのまさか。値札はこれね。花器みたいのだよ」
 花器だよ、とおじいちゃんは笑いながら、ポケットから取り出したメモ用紙を私に差し出した。
「ほれ、先生の住所だ。大きくて古い家だからすぐわかる。行っといで」
「え、おじいちゃんは行かないの?」
「日鞠にしても先生にしても、もし気に入らなくて断ろうとした場合、おじいちゃんがいたら言い出しにくいだろうと思ってな。行くのやめたわ」
「まぁ、それはそうかもしれないけど」
「らいんで連絡入れておいたから大丈夫だ。すぐそこのご近所だから」
 教えてもらった住所を自分のスマホに入れる。
「その人どんな人? 気難しい感じ?」
「そうだなぁ、少し変わってるが、いい人だから安心しなさい。何たっておじいちゃんが尊敬する人だからな」
 おじいちゃんの紹介なんだし、失礼のないようにしなければ。緊張するけれど、これが新しい私の第一歩になるかもしれないんだから、気合入れていこう。

「あ」
 門を出てすぐの路地前で立ち止まる。
 住所は入れたけど、先生の名前訊くの忘れた。まぁいいか、散歩がてらこの辺りをウロウロしてみよう。わからなかったら戻ればいい。
 海とは逆の方向を歩いて行く。何となくこの辺に見覚えがあるような気がした。そういえば小さい頃、私だけおじいちゃんちによく来てたんだよね。
 あれ、どうして私だけなんて思ったんだろう? でも琴美姉と幸香姉が一緒だった記憶がない。
 民家の間を通る道を、スマホの指示通り辿っていく。
「ここ、かな?」
 低い生垣に囲まれた屋根瓦が立派な古い民家。素敵な門構はバーンと開いていて中が丸見え。
「古くて大きいのは、ここしかないよね。周りは畑と普通のお家ばかりだし」
 表札には「花岡」と書いてあった。花岡? って何だっけ。
「あ! さっきの領収書の人、確か花岡だった」
 いやいやまさかそんな。この辺に同じ苗字が多いのかもしれないしね。第一、さっきのあの人が書道の先生と関係あるとは思えないし。
 門の周りにインターホンはない。玄関まですぐだし、そっちについてるのかな。
「お邪魔しまーす」
 梅の木や柿の木が植えられ、青々とした葉が涼しい木陰を作っていた。玄関の引き戸の脇に見つけたインターフォンを鳴らす。
「すみませ〜ん!」
 もしや、このお宅ではない? と思ったけれど、スマホで表示された場所は確かにここだった。
 玄関前を離れ、そろりと足を踏み入れる。家に沿って角を曲がると縁側のある広々とした庭が現れた。
「野菜が出来てる」
 艶のある茄子に、細長い胡瓜、弾けそうな赤いトマト。夏野菜が植えられた小さな畑が庭の中にあった。
 障子も襖も開け放たれた縁側から声を掛けてみる。
「すいませ〜ん! 杉田と申しますが〜!」
 未だ反応なし。どうしよう、帰ろうかな。でもおじいちゃんが連絡入れたって言ってたし。
 取り敢えず縁側に座って庭を眺めた。緑色の鬼灯の前を、野良猫が当たり前のように横切っていく。
「こーんな無防備でいいのかね。泥棒入ったらどうするんだろ」
 だから家政婦を雇うってことなのかな。
 昨夜は実験として納戸で無理やり寝たから体中が痛い。扇風機を借りても暑くて眠れなかった。
「ここ、風が通り抜けて涼しい……」
 振り返って広い畳の部屋を見る。田舎の古民家、って感じ。縁側の板は古いけれどよく磨かれて黒く光り、美しかった。手のひらでさすりながら、そのまま思わず横になる。見上げた空が、東京にいる時よりもずっと高く見えた。
「とんびだ……」
 ぐるぐると飛び回るとんびの、ぴーひょろ、ぴーひょろという鳴き声が降ってくる。湘南のとんびって、人が食べてるものを攫っていくのが上手なんだよね。高校生の頃、稲村ケ崎でハンバーガー獲られたことあったっけ。
 子どもたちが騒ぎながら歩いている。ああ、小学生は夏休みに入ったのね。
 瞼を閉じて夏の強い日差しを全身に感じた。蝉がすぐ傍で鳴き始めていた。ここでも微かな潮の香りが風に載って頬を撫でていく。本当、気持ち、いい、な……

「……おい」
 ぼんやりした視界の向こうで誰かが私を見下ろしている。せっかく気持ちよく眠ってたのに……誰?
「おいそこの、金太郎!」
「……え、あ、はいっ! き、金……?」
 しまった、自分の家じゃなかったんだ! 慌てて飛び起き、縁側に立つ声の主を見上げる。
「不法侵入かよ。人んち勝手に上がって、ガーガー寝やがって」
「すみません! あ……あなた、さっきの!」
 下駄男!!
「ああ。字の汚い女か」
「どっ、どうしてここに」
「自分の家にいて何が悪いんだよ」
 花岡って、本当にこの人だったの!?
「じゃああなたやっぱり、書道の先生やってる人のお孫さん?」
「は? 俺がここで書道教えてるんだけど」
「え」
「杉田さんが紹介してくれる人って、もしかしてあんたのこと?」
 花岡さんは私を胡散臭そうに見下ろしていた。多分私も、彼と同じ顔をしていると思う。
 だって、嘘でしょ? おじいちゃんが尊敬してるって言うから年配の方だと思ってたのに。この人が書道家? 店番だけじゃなくて、家政婦も頼みたいっていう……?
 ようやくしっかりと目が覚めて冷静に考えられた。そして気付いた。

 私が住み込みで働くことになったら、この人とここで一緒に暮らすって、こと……?