恋の一文字教えてください

1 夢も希望もお金も尽きた



 今年初めて聴く蝉の声が、梅雨明けの夏の陽射しと共に窓から入り込んでいた。額と両手をつけた床板は、それに反して意外とひんやりしている。
 この沈黙がつらい。
 などと悲劇のヒロインぶっている場合ではないので、息を深く吸い込んで、お腹の底から声出した。
「資金が底をつきました! 半年だけここに戻らせてください!」
 もうすぐ二十五になるというのに、実家で土下座して、こんな台詞を言うことになるとは思わなかったよ。……まだ続く沈黙の中、蝉だけがじーわじーわと威勢がいい。本来ならば日曜ののんびりした午後を味わうはずだった家族の雰囲気を壊しちゃって、大変申し訳ないのだけど。
「……あーんたねぇ、」
「わかってます! よーくわかってます! ほんっと、すいません、琴美(ことみ)お姉様!」
 頭を下げたまま、姉の呆れた声を遮った。
「次の部屋借りるお金が溜まったら、すぐ出て行くから」
 うーん、と姉の唸る声が聴こえた。よし、このまま低姿勢な態度でいこう。床からそーっと顔を上げて上目遣いでお伺いを立てる。
「納戸でいいの。そこに少しの間だけ住まわせていただければ……」
「あそこは五畳しかないし、荷物でいっぱいだよ」
「大丈夫! 私、持ち物超少ないから!」
 ソファに座っていた長女の琴美姉とその夫、そして次女の幸香(さちか)姉がこちらをじっと見ている。琴美姉から幸香姉に視線を移して訴えた。
「あのう、何なら二階でもよろしいんですが……」
 一階は長女家族、二階は次女家族が暮らす、二世帯住宅なのだった。別名私の実家でもあるんだけど。
「ちょっ、うちは子ども四人だから無理だよ、無理」
 お座りができたばかりの赤ちゃんを膝の上に置いている幸香姉が慌てた。カバーを付けた扇風機が気になるのか、両手をそちらに伸ばして体を揺すっているのが可愛い。
「あはは、ですよねー」
 苦笑いして、琴美姉に顔を戻すと彼女が溜息を吐いた。
「うちだって三人いるんですけど」
「じゃあ私が四人目ってことで」
「日鞠(ひまり)、調子に乗らない……!」
「す、すみませんっ」
 怖い怖い。肩を竦めて即謝った。こういう時は長引かせずに、すぐ謝るのが大事。
「まぁまぁ、ここは元々日鞠ちゃんの実家なんだから半年くらい」
「甘やかさないの! 一生東京に住むから、こんなとこいたくないって言ったのは日鞠なんだから」
 お義兄さんの助け船を沈ませた姉が私を睨み付けた。
 うん、確かにそう言いました。何でもできる、自分には才能があるって信じ切っていたあの頃。若気の至りというより、もはや黒歴史だよね〜。……発言した自分を殴りたい。
「甘やかした結果がこれなんだからね。いくら末っ子って言ったって、夢ばっかり見て好きなことして、結婚もしないし、やりたい放題じゃないの。その歳でフリーターとかどうすんのよ、この先。大体あんたは、」
 あー始まっちゃった。こうなると琴美姉のお説教は長い。
「お父さんとお母さんが遺してくれた日鞠用のお金の一部を学費に使った。その残りはあんたが結婚する時までとっておくつもりだったけど、どうする? 今使う?」
「……やめとく」
「だね。それが懸命だよ。ここに住む気なら真面目に働く道を探して、いい人見つけて早く結婚しちゃいなさい。とにかくあんたはね、小さい頃から……」
 お説教再燃したよ。黙って頷いてやり過ごすしかないか。

「日鞠〜、こっちおいで」
 隣の和室にいたおじいちゃんが私を呼んだ。
「は〜い。あの、おじいちゃんが呼んでるから」
「ちょっと日鞠」
「すごく反省してます。今後、真面目に働くつもりですので、ここに置いてもらえることを考えておいていただけると助かります」
 もう一度頭を下げると、琴美姉と幸香姉の溜息が聴こえた。三時を過ぎたから、そろそろ幸香姉の旦那さんが、隣の公園で遊ばせている子どもたちを連れて、おやつに帰ってくる頃だし、これ以上の説教はないだろう。やれやれ。

 実家とはいえ無理かな、やっぱり。納戸はいいけど、ここにいたら無理やり結婚させられそうだし、毎日こんな感じで叱られるのも、わかってたとはいえ、つらいものがある。こうなったら友人宅を渡り歩くしかないかな。迷惑だからそれだけは避けたかったんだけど……
「お前は、いくつになったんだい?」
 座布団の上に座って、俯いているおじいちゃんが呟いた。彼の傍に正座をする。
 おじいちゃん、スマホ弄ってるよ。操作早いな〜。
「来月の八月で二十五になるよ」
「二十五にもなって、一緒に住んでくれる男もいないのかい」
「うっ……それは、その」
 顔を上げたおじいちゃんの笑顔が痛い。
「正直に言ってごらん」
「い……いません」
 正直で宜しい、とおじいちゃんが声を上げて笑った。
「ねぇ、おじいちゃんの家に住んだら駄目かなぁ」
 おじいちゃんは父方の祖父。おばあちゃんは私が生まれた時には病気で既に他界していて、それ以来おじいちゃんは独り暮らしをしている。
「駄目よ日鞠! おじいちゃん彼女いて最近同棲中だから、邪魔しないの!」
 リビングから幸香姉の声が飛んできた。耳を疑うその言葉を、目の前にいるおじいちゃんにぶつける。
「へ? か、彼女!?」
「悪ぃなぁ、日鞠」
 マジですか。
「う、ううん、全然悪くないよ〜。そっかーおじいちゃん彼女が、そっかー」
「らいんもやっとるぞ、ほれ」
 弄っていたスマホの画面を、おじいちゃんが私に見せた。……何このラブリーな感じ。
「可愛いスタンプ、だね……はは。あ、今、その彼女とやってたのね。ああ、へー……」
 相手は週に一度、好意でお掃除に来てくれていた近所の女性だという。歳はおじいちゃんの二十個も下の未亡人。完全に負けました。
「お前は可愛いから、すぐに彼氏なんぞできるだろ」
「まぁそう上手くもいかなくてさ、これが。おじいちゃんだけよ、可愛いなんて言ってくれるの」

 ここ、杉田(すぎた)家は私の実家であり、姉二人の二世帯住宅でもある。杉田家とは言っても姉たちはそれぞれ結婚相手の姓に変わっているから、杉田家ではないんだけど。それは置いといて。
 私が中学の時に事故で他界した両親が遺したこの家。長女と次女はそれぞれ地元の人と結婚した。近くのアパートにしばらく住んでいた彼女らは、独りになった私を心配し、ここを二世帯住宅に改築し、私も含めて一緒に暮らそうと言った。
 でも結局私は東京の美術専門学校を受け、一人暮らしを始めてしまった。卒業しても実家には帰らず、一人暮らしを続行。
 必ず有名になるんだと夢を追いかけ、バイトに明け暮れながら絵を描き続けたこの約五年間。同期は何人か一般文芸書や文庫本の表紙を飾る商業デビューをし、個展は盛況、同人誌も売れまくり。
 一方私は個展をひらいたり、同人誌も出したけれど……彼らに比べたらたいして人気は出ず、開花せず。好きでやってるからそれでも良かったんだけど、あることがきっかけでスランプに陥り、何も描けなくなる状況が続き、そうこうしている内にバイト先が潰れ、他で働き始めるもたいしたお金にはならず、いつの間にか夢も萎んでいた。
 一生ここでは暮らさない、なんて姉たちに粋がって出て行ったので、彼女たちに叱られるのは自業自得。私がいない間に姪っ子や甥っ子が増え、私の部屋はとっくに子どもたちの部屋に変わっていた。

「それでお前、働く宛てはあるんかい?」
「え、あ、ああええと、こっちでバイトか何か探すつもり。それでお金溜まったら、どこか借りて、ここは出るよ」
「おじいちゃんの知り合いでな、近所で店番を頼みたい、って言ってる人がいるんだが来るかい?」
「店番て、何のお店?」
「書道専門店だ」
「……書道専門店? 筆とか売ってるの?」
「そうそう、そういうの。おじいちゃんが尊敬している書道家の先生でな。書道教室をしながら、店もやってるんだ」
「ふーん」
 書道専門店かぁ。習ったこともないし、全くわからないんだけど……時給は低そう。出直すにはそれなりのお金が欲しいから悩んでしまう。だって家を出るとなると、そこそこのお金が必要になるわけだし。
「忙しい人だから、住み込みの家政婦も欲しいって言ってたような」
「それほんと!?」
「お、おお、多分な」
 住み込みだったら、その名の通り住む場所が確保できる。家政婦って何だっけ。所謂、家事手伝いってことでいいんだろうか。当然お給料もそっちの方がいいよね。そうか、その手があった。
「住み込みの方が興味ある。良かったら紹介してください」
「そうかそうか、じゃあおいで。明日おじいちゃんは家に帰るから、一緒に行こう」
「うん、ありがとう」
 お盆の上にグラスを載せた琴美姉が入って来た。
「おじいちゃん、その人大丈夫なの?」
「俺が尊敬する立派な人だ。大丈夫だ」
 おじいちゃんと私でグラスを受け取り、冷えた麦茶を同時にごくりと飲む。ああ、小さい頃から飲んでいた杉田家の麦茶だ。香ばしい匂い、濃すぎず薄すぎない、ちょうどいい具合の、やかんで煮出した麦茶。ペットボトルじゃこうはいかない。家を離れて初めてわかるこの美味しさ。ノスタルジックな思いが、喉を一気に通り過ぎていった。
 おじいちゃんは同居していないけれど、私たち姉妹をずっと気に掛けてくれた人だ。一番身近な血のつながりのある人で、信用できる人。だからなんだろう。琴美姉は、おじいちゃんにそれ以上何も突っ込まなかった。
 しばらく働いて新しい場所に住む資金を貯めよう。それまでに就職先を探して……ううん、その前に何か資格を取るんだ。ずっと絵だけでここまで来たけど、もういい加減諦めて違う道を探さないと。

 グラスに付いた水滴に人差し指で触れる。つっと流れて、テーブルに落ちた。
 おじいちゃんの家がある逗子は、海がとても近かったっけ。何年振りだろう、そこを訪れるのは。