.


恋の一文字教えてください

3 三食、屋根裏、男付き



 腕組みをして私を見下ろす花岡さんに向けて、口をひらいた。
「あの」
「何」
「金太郎って何で、ですか……?」
 もっと他に訊くことあるでしょ、っていうのはわかってるんだけど、混乱しているらしい私の頭の中には、こんな言葉しか浮かばなかった。
「その頭」
 彼が私の頭を指差した。ああ、髪形のことね。顔が引きつる。
「ショートボブって言って下さい。大体あんなに前髪短くないですし、髪の色真っ黒じゃないですし」
「どうでもいいわ。名前は?」
 ものすごい流し方に、かちんとしつつも答える。
「……杉田、日鞠です」
「杉田さんの孫、ってことで間違いないんだな」
「はい」
 縁側に座っていた私は、そこでようやく地面に足を下ろして立ち上がり、滅多に穿かないスカートの裾をさっと直した。一応面接的なものをすると思って穿いて来たんだよね。……寝ちゃったけど。
「で、どうすんの。やるの、やらないの」
「家政婦って、本当に住み込みなんでしょうか?」
 おじいちゃんはどういうつもりで、ここに行けって言ったんだろう。この人、私と同年代な感じだよ? いっても二、三歳上くらい。だから咄嗟に書道家の孫なんじゃ、なんて勘違いしちゃったんだけど。
「杉田さんがそう言ったんだ? 俺が住み込み家政婦募集してるって」
「え? はい、そうですけど、違うんですか?」
「……違わないけど」
 視線を外した彼が、ちっ、と舌打ちをした。……やっぱりおじいちゃんに、一緒に来てもらった方が良かったんじゃ。
「杉田さん、俺のことは何か言ってた?」
「おじいちゃんが尊敬する書道の先生だと言ってました。だからてっきり、おじいちゃんと同じか、もっと年上の方かと……」
 花岡さんは、うんうんと何度も頷き、満足げな声を出した。
「そうかそうか、尊敬か。まぁ、尊敬してるのは俺の方なんだけどな。とにかく杉田さんの顔を潰すのは俺もごめんだ。靴脱いで上がれ。家の中、案内する」
「あ、はい」
 すごい命令口調。こういうのを俺様っていうんだろうか。三次元で初めて出会ったよ。おじいちゃん曰く変わってる人らしいし、書道家ってこういう人が多いのかな。

 靴を脱いで縁側から上がる。ここ、今は全開してるけど、大きなサッシ窓が付いていて開け閉めできるようになってるんだ。幅もあるから広縁っていうのかな、こういうの。
 襖の開いた二間続きの和室。廊下の向こうにも同じような和室が二間。奥に行くほどひんやりとした空気になり、薄暗くなっていくのが日本家屋らしい。どこからか漂ってきた蚊取り線香の匂いが、ふと鼻先を掠めた。
 玄関から一番近い和室が書道教室。隣に生徒さん用のトイレ。玄関横に想像よりも狭い書道専門店があった。
「書道教室は火、水、金、土の四時から八時。店も同じ曜日に開けてる。店に人は滅多に来ないから、ほとんどがネット販売になりつつあるな。店番と、その間に在庫確認と受注、発送メールなんかも管理してもらいたい」
 元々店番の方を探していたんだっけ。家事をしながら出来るだろうか。
「あんたの部屋は屋根裏だ」
 書道教室を過ぎた廊下にある階段前に連れて行かれた。屋根裏……蜘蛛の巣が張ってて鼠だらけだったらどうしよう……。いやいやいや、納戸に比べれば天国、天国。
 ぎしぎしと軋む急な階段を花岡さんについて上っていく。と、急に視界が広がった。
「え……!」
 驚きのあまり、その場で硬直する。と、次の瞬間大声を上げていた。
「ひ、広〜〜い!!」
 屋根裏部屋なんて呼んだら申し訳ないくらいに立派な空間だった。立ち上がっても高さが十分ある。床は半分が畳、半分が板張りになっている。天井は梁が剥き出しで雰囲気がいい。
 壁には網戸の付いた窓、押入れと備え付けの本棚。エアコンまで付いてるよ。反対側は吹き抜けだけど、腰の高さ位の壁があるから、オシャレなロフトのようで何の問題もない。そこから見下ろすと、さっき見た奥の和室が真下にあった。
「冬場の昼寝に使ってただけだから、汚れてはいないと思うけど」
 押入れの中を確認する彼に、後ろから訊ねる。
「すごく素敵で贅沢過ぎるくらいなんですけど、私が使っていいんですか?」
「ここしか貸せる部屋ないから」
 さっきまでの不安が全部吹き飛んじゃったよ。これは、これは良すぎる……!

 その後、昭和な味のある台所を案内され、トイレ、洗面所、お風呂を見せてもらった。お風呂はなんと檜風呂……! 木の具合が真新しい色に見えた。
「いい匂い。新しいんですか?」
「風呂場とトイレと洗面所はリフォームしたばかりだ」
「私が入ってもいいんでしょうか……?」
「さっきから何なんだよ。いいから見せてるんだろうが」
 そりゃそうなんだろうけど、今日知り合ったばかりの赤の他人に使われるのって嫌じゃないの? まぁ、そんなんだったら最初から住み込み家政婦なんて頼まないよね。そうそう、考え過ぎるとロクなことがないんだから、ここは流れに身を任せよう。私にはお金どころか、住む場所すら無いんだから。
 お庭に面した端っこに当たる部屋の前に来た時、彼が言った。
「そこは俺の仕事部屋だから、絶対に入るな」
「わかりました」
 仕事部屋、ということはそこで字を書いているんだよね。どんなふうになっているのか見てみたいけど、今は言われた通りに大人しくしていよう。
 屋根裏部屋の下の和室に戻り、大きな座卓の前に向かい合わせで座った。
「私の履歴書です」
 差し出した封筒を受け取った花岡さんは、履歴書を見ながら話し始めた。
「休みは日月木。働いて欲しいのは書道教室を開ける、火、水、金、土。朝の十一時から二時までは自由。三時から六時は店番をして欲しい。朝七時には朝飯、夜は俺の夕飯を作っておいてもらうところまで。書道教室が夜の八時までだから、それまでに準備だけしておいてくれればいい。あとはご自由に」
 週四日の勤務ね。昼休みが意外と長くて驚き。
「で、やるの、やらないの」
 顔を上げた花岡さんは、私に再び同じ質問をした。
「三食付いてるんですよね?」
「あんたが作ればね」
「お部屋は、あの屋根裏部屋を? お休みの日にいてもいいんですか?」
「そうだ」
「本当にあの檜風呂入っていいんですか?」
「どうぞ」
「光熱費は……」
「こっちで出す」
 魅力的……!
「で、悪いんだけど給料は十五万までしか払えないから、不満があるなら今断ってくれ」
「やります」
 考えるまでも無いでしょ。
「即答だな」
 私の返事に目を丸くした花岡さんは、確認するように言った。
「本来なら住み込みで、この給料じゃ全然少ないんだけど、いいのか?」
「おじいちゃんから聞いていると思いますが、私……プロどころか家政婦の仕事は初めてなんです。だから逆に、そんな人間が入ってもいいんでしょうか? もちろん一生懸命やるつもりではいますが」
「それ以上金は出せないから、かえって都合がいい。やることは俺がきっちり教え込む。これから募集するのも面倒だから、このまま来てくれると助かる」
 きっちり教え込む、の言葉が引っかかるけれど。
 あの広い部屋と、三食と、光熱費タダ、檜のお風呂。昼間の休憩時間も長い。年金とか保険とかスマホの通信費とか引いても十分貯金ができる。当初の目的通り半年で新居に移るくらいのお金が貯められるかもしれない。
 花岡さん口は悪いけど、意外といい人そうだし、雰囲気イケメンだし、何たっておじいちゃんが尊敬する人だし、この若さで十五万払えるってことは、その道ではかなり有名な人なんだろう、きっと。
 ほとんど気持ちは固まっていたけど、最後に私から確認しておきたいことがあった。
「今更ですが、ここには何人で住んでいらっしゃるんでしょう」
「俺一人だ」
「あ、そうですよね」
 改めて目の前にいる彼を見つめて考える。この人175cmはある、と思う。細身だけど腕に筋肉見えるし、男なんだから力では絶対敵わない。いくら広い家だって同じ屋根の下に暮らすのは……
「何だよ」
「……貞操の危険が」
「俺は字の汚い女に興味無いから」
「!」
 そこね、そこに拘るのね。
 ショックを受けてる場合じゃない。逆に吹っ切れたんだから、ありがたいと思わなくては。もしも何かありそうだったら、近所のおじいちゃんちへ行けばいいし。というか、書道の先生やってる人が問題起こすとも思えない。とにかく、背に腹は代えられない。
「間に杉田のおじいちゃんが入ってるから、お互い悪いことは出来ないだろ。問題は発生しにくいと思うけど」
「それは……そうですね」
「後で契約書作って渡す」
「ありがとうございます。……あの、花岡さん」
「柚仁でいい。花岡さんとか気持ち悪い」
 彼がぼそっと呟いた。
「じゃあ柚仁さん」
「呼び捨てにしてくれ、頼むから」
「だったら私も日鞠でお願いします。雇われてる方だけが呼び捨ては、おかしいですよね」
 俺様なのに自分の名前は呼び捨ててくれなんて、やっぱり少し変わってる。
「……わかった」
 履歴書に視線を置いて溜息を吐いた彼は、観念したように呟いた。
「ひま」
「……え」
 終わり? いくら何でも、ひまって。
「ひ・ま・り・です」
 言い直した私の顔を睨んだ彼は、咳払いを一つして私の名前を呼んだ。
「日鞠」
「はい。ええと……柚、仁」
 じっと見るから余計言いにくいんですけど。
「で、いいんですか? ほんとに」
「ああ、そうしてくれ」
「歳はおいくつなんでしょうか」
「お前の二個上。二十七歳」
 お前とか、あんたとか……。いやいやいや、家政婦初心者の私を住まわせてくれて、ご飯も付いてて、お給料もいただくんだから、ここはぐっと抑えよう。

 出来るだけ早く来て欲しい、とありがたいことを言われ、よろしくお願いしますと挨拶をした。帰り際に彼から貰った名刺には、名前の上に師範、と印刷されていた。
 ま、何とかなるでしょ、なーんて、琴美姉に聴かれたら叱られそうな言葉を小さく呟き、花岡家を後にした。