三日目の朝が来ても……直之様の意識は戻らなかった。
 呼吸が少し弱くなっているからと、看護婦さんが頻繁に様子を見に来る。その度にはらはらしながら、私にはなす術もなく、ただ彼のお姿をじっと見つめるだけだった。

 手を洗いに病院の水道へ行き、病室に戻る一歩手前で名を呼ばれた。
「蓉子」
 振り向くと、柏木の付き添いでお父様がいらしていた。
「お父様……!」
「西島殿は」
 難しいお顔をしているお父様は柏木に支えられ、杖をついて私の前で立ち止まった。見えないわだかまりが、私の肌をぴりりと刺す。
「ありがとうございます、お父様。柏木も、こちらへ」
 ドアから出て来た看護婦さんと入れ替わりに、皆で病室へ入った。
「何ということだ、何という……!」
 お父様は杖を床に落とし、わなわなと震えながら直之様のお傍へ近寄った。柏木が咄嗟にお父様のお背中を支える。
「お前から連絡が入ったその後、西島殿は一度も目を覚まさないというのか?」
「……ええ」
「これは、いかん……。蓉子、お前はこれからどうするのだ」
「そちらへお座りになって、お父様」
 長椅子を勧め、私もお父様のお隣に座った。お父様は咳払いをしながら、何度も御髭を撫でている。深く思案をされる時のお父様の癖だ。
「先日、直之様のお父様にも申しあげましたが、私は諦めておりませんので」
「しかし、このような状態が続けば」
「お父様。直之様は喪が明ける前に籍だけでも入れましょうと、私におっしゃいました。直之様が元気になられたら、すぐにでも宜しいでしょうか」
 杖を床に着き、持ち手に載せてた両手の皺を見つめる。お父様もお年を取られた。この手に頬を打たれたことはもう、いい。今は直之様と私の思いをお伝えしたい。
「たとえ元気にならずとも、直之様がこのままの状態でも、私は一生彼に添い遂げたいのです」
「蓉子」
「お願い、お父様」
 お顔を見つめて懇願する。媚びている訳ではない、心からの懇願。
 溜息を吐かれたお父様は低い声で呟いた。
「儂がお前に、この結婚を勧めたのだ。お前が良ければ何も言うことはない」
「お父様……!」
「何かあったら、また連絡しなさい。足りないものがあれば柏木を寄越す」
「ありがとうございます、お父様」

 一日が過ぎていく。
 直之様の持ち物である懐中時計の針は午後九時を指していた。サワはベッドで仮眠を取っている。
 お医者様から告げられた三日目が、あと数時間で終わってしまう。
 直之様のお顔を見つめていると、ぽたぽたと涙が零れて、彼の頬に落ちた。水滴を拭う為にその頬へ触れても何の反応も示されない。椅子に座った私は、ベッドに両腕を載せて顔をうつ伏せ、涙を流し続けた。
 泣いても仕方がないのはわかっている。でも、明日はもう四日目。一体どうしたらよいの? どうすれば目を覚ましてくださるの? お話したいことがたくさんあるのに。訊きたいことがまだ、山ほど……

 頭上の青い空に、ウミネコが飛び交っている。
 広い海に大きな外国の船。行き来する人々。潮の香り。波の音。
 照れたように笑ったあなたは繋いだ指を上にあげ、私にそっと口付けをされた。
 私には、わからなかった。
 あの時のあなたの、私に向けられていた、たくさんの愛情が、私には……

 うとうととしていた私は、ふと顔を上げ、しっかりと目を覚まして立ち上がった。
 病室を出て病院内の自働電話のある場所へ足早に向かう。
 山手のお家へ電話を繋いでもらった私は、家令の河合さんに、あるものを持って来て欲しいと頼んだ。


 目が覚めると四日目の朝が訪れていた。
 直之様を見ていてくれたサワに声を掛け、水道へお顔を洗いに行く。手拭いで拭き、鏡に映る自分の姿を見た。目の下はくすんで、髪が少し乱れている。寝不足なのだろうけれど、眠りについてもすぐに目が覚めてしまう状態が続いていた。髪を撫でつけてから廊下を戻ると、河合さんがこちらへ向かって来るのが見えた。
「蓉子様!」
 まだ早い時間のせいか、廊下に他の人はいない。
「河合さん……! 早かったのね」
「朝一番の鉄道へ乗ってまいりました。昨夜お電話でご連絡をいただいたご本です。こちらで間違いないでしょうか」
 差し出された本を受け取る。
「ええ、間違いありません。お忙しいのにありがとう、河合さん」
「蓉子様……」
 無理に笑顔を作ったのが伝わったのだろう。河合さんは悲痛な表情で私を見ていた。
「大丈夫よ。直之様は、きっと皆さんのところへ帰ります。山手のお家でまた、直之様と共に皆で楽しく過ごしましょう」
「ええ、ええ、そうですとも。私たちは皆、誰も諦めてなどおりません。ツネさんもミツコさんも、友三さんも磯五郎さんも三枝さんも依田さんも、蓉子様とこちらにいらっしゃるサワさんだって、そして私も……皆、直之様と蓉子様のお帰りを、いつまでもいつまでもお待ちしております」
「そうね、そうよね。ありがとう」
 河合さんと涙を浮かべて何度も頷き合った。

「少しの間、二人だけにして欲しいの」
 河合さんとサワには廊下へ出てもらい、私は一人、直之様の病室に入った。ドアを閉めて顔を上げると、窓から秋晴れの空が見えた。爽やかな朝の涼しい風が入り込む。殺風景な部屋を彩るお見舞いのお花が風に揺れた。
 直之様のお傍にある丸椅子に座って、静かに話しかける。
「直之様。あなたが私に渡そうとして下さった、異国の本です」
 膝の上に置いたご本の頁をゆっくりと捲る。
「この本の本当の持ち主が直之様だと知って、あなたが書いた文字だと知って……ますます愛おしくなりました。何故、教えて下さらなかったの……?」
 本に挟んでおいた、私が訳を書いた紙を広げた。
「最後の数頁の訳が書き込まれていませんでした。いつか私が自分で訳してみようと、幼い頃よりずっとそう思っておりました。あなたが事故に遭われる前日、訳が完成していたのです。聞いて下さい」
 一度直之様の手を握ってから、紙に書いた文字へ向き合った。
「では、読みますね」
 
 孤独で内気な少女が、近所に引っ越して来た少年と少しずつ仲良くなっていく。薔薇のお庭や近所の泉で遊ぶ二人は、やがて森で出会った小動物たちと不思議な冒険を体験した。再び別の土地へ引っ越してしまった少年は、数年後立派な青年となり、美しく成長した彼女を迎えに来た。
 とても素敵な物語で、幼い私にも共感する場面がたくさんあった。訳されていなかったのは、数年後の彼らの姿。
 私なりに訳した部分を、直之様に届くよう、ゆっくりと慎重に読み進めた。

 最後の行を読み終え、ひと息吐いてから紙を折り畳み、頁へ挟んで本を閉じた。
「拙い訳でお恥ずかしいのですが、これで間違ってはいませんか?」
 問いかけても彼は眠ったまま、表情は全く変わらない。
「直之様、お返事をして」
 胸の奥から切なさと苦しさが湧き上がると、途端に彼のお姿がぼやけて見えた。彼の右手を私の両手で強く握る。膝から滑ったご本が床に落ちた。
「指切りをして、何度も約束したではありませんか」
 涙が次々に溢れ出て、頬を伝っていく。
「私と一緒に……客船に乗って欧州へ行くのでしょう?」
 お母様、お願い。
 私に来てはいけないと諭したように、直之様にもお声を掛けて。
「結婚すると、私を幸せにするとおっしゃったでは、ありませんか……! 私の幸せは、あなたと一緒にいられることなのに……!」
 彼のお顔の横に突っ伏した。
「何もいりません。あなたがお傍にいてくださったら、私は、他に何も……何も」
 嗚咽が止まらない。私が泣く振動でベッドがぎしぎしと揺れている。

 諦めたくない。
 もう一度、お声を聴きたい。
 直之様、お願い。お願い……!!

 しゃくりあげた時、握っていた彼の手が、ほんの僅かに動いたような気がした。
「……直、之様?」
 彼の手を見たけれど、それは気のせいだったのか変化はない。表情を見ても何ら変わりはなかった。と、思った次の瞬間。
「……」
 直之様の唇が微かにひらいた。何かをおっしゃった? それともただ、息を吐かれただけ?
「……」
 違う。何かをおっしゃろうとしている……! 動こうとする唇に私の耳を近付け、彼のお名前を夢中で呼んだ。
「直之様! わかりますか!? 蓉子です、直之様!!」
「……ま」
「え?」
「まち、が」
 私の耳にかかる息と共に、小さく言葉が吐き出された。
「まちが、って、など……いません、よ」
 顔を上げて彼の表情を見る。一度止まっていた涙が再び溢れ出した。悲しみではない、喜びの涙が。
「直之様……!」
 ゆっくりと瞼を上げた直之様が、瞳を私に向け、小さく微笑んだ。



++++++



 窓の外に見える木々の葉が色を変え始めた、十月の中旬。
 ベッド周りのカーテンを引いてから、小さなテーブルの載ったお湯の入る洗面器に手拭いを浸ける。ぎゅっと絞り、ベッドの上に起き上がっている直之様の頬にあてた。
「ああ、気持ちが良いです。生き返る心地だ」
「良かった。痛かったら、おっしゃってくださいね」
 彼の寝巻の前を寛がせ、慎重に首筋と肩、お怪我をされていない方の腕を拭いていく。擦り傷や足の打撲は順調に良くなっていた。
「あなたにこのようなことをさせて、申し訳なく思います」
「私がしたいと申し出たのですから、お気になさらずに」

 直之様が目覚めてから二週間。
 骨折された左側の鎖骨と左腕は変わらずしっかりと固定されており、痛みもだいぶ残ってはいるけれど、昨日から起き上がっても良いとの許可が下りた。お若いから回復はお早いでしょう、と相変わらず淡々と担当の医師に告げられた。
「蓉子さん。そう何度も来られなくても平気ですよ。山手からここまで来るのに、毎回大変でしょうから」
 寝巻の裾を肌蹴て足を出した直之様が、私へ申し訳なさそうに言った。まだ内出血の痣が残る箇所に温かい手拭いを優しくあてる。
「だって……寂しいんですもの」
 彼の足を拭きながら、思わず口を突いて出た言葉に頬を熱くする。照れ隠しにごしごしと拭いてしまい、くすぐったいと笑われた。
「女学校はどうされている?」
「出来る限り行ってはおりますが、事が事なので、お休みは大目に見ていただいております」
 両足を拭き終え、その手拭いは洗面器の脇に置き、新しい手拭いをまたお湯に浸した。

「直之様、そろそろお聞きしてもよろしいでしょうか」
 温かい手拭いをぎゅっと絞りながら、思い切って問いかける。
「何でしょう」
「どうして、異国の本のことを黙っていらしたの?」
 病院へ面接に来ている方たちのおしゃべり声が、廊下から聴こえた。
「あなたの記憶に残っているのは本を渡した兄であって、持ち主の俺ではないからです。実は俺の本です、などと後から言うのは情けないじゃありませんか」
「そんなこと」
 直之様は首を横に振り、苦笑した。
「俺はね、兄にずっと劣等感を持って生きて来たんですよ」
 骨折をされている方の手の指を、絞った手拭いで一本ずつそっと拭く。
「母が芸妓だとわかってからは尚更です。一時期は父を憎んだことすらあります。何故そのような行いをしたのか、そして何故俺を西島家の息子として迎え入れたのかとね」
 静かな病室で、淡々と彼の言葉が紡がれていた。
「家を出ようと決心してからの俺は、見えないところで兄を追い抜こうと必死でした。与えられた境遇の中で目立つことを許されないながらも、出来る限りのことを身に着けておこうと思った。勉強も、運動も、趣味的なことも、マナーも」
 何でもお出来になると思ったのは、彼の努力に他ならなかったと知り、その頃の直之様を思って胸が痛んだ。
「英語がね、苦手だったんですよ。それで一時期は西島の家に出入りする客人に頼んで、欧州土産に本を頼みました。児童書から入ればまだ何とかなるのではないかと、暇を見つけてはそこに翻訳を書き込んでいました」
「そのご本の一冊が、私がいただいたものなのですね」
「ええ」

 再び手拭いを洗って彼の前に戻る。
「あなたは言っていたでしょう。俺の兄が本を渡す前に、女中に」
「……何をですか?」
「あなたのお父上が、母上ではないどなたか別の女性と一緒にいるのを見てしまった、と。その女性に愛の言葉を掛けるお父上を見たと、酷く動揺されていた。思い出したくないことでしたら、すみません」
「あ……」
 そういえば、そんなことがあった。
 葉山で過ごす間は、お母様は幾分か楽しそうで、お父様とも仲良くされていると思っていたのに、そのようなことがあって、私の気持ちは沈んでいたのだ。
 傷ついたことを心に閉じ込めて無かったことにし、単に退屈だったという思い出に変えて、幼い私は自分を保とうとしていたのかもしれない。
「そこで、あなたの気が少しでも紛れるのではないかと本を渡そうとしましたが、なかなか渡せなかった」
「何故?」
「あの頃、俺のような卑しい者が華族のあなたに本を渡すなど、容易には考えられなかった。一番、卑屈になっていた時期でしたからね。しかし兄は俺とは違い、堂々とあなたにこの本を渡した。俺のような翳りを一切持っていない兄が心底羨ましかった。今でもどこかで、そう思う自分がいる」
「……直之様」
「傷ついたあなたのことがずっと……気になっていました。もしや俺と同じように、お父上の女性関係で、おつらい思いをされているのではと。数年経っても、心のどこかに留めていた。しかし葉山の別荘はなくなっていましたし、大した手がかりもなく、時は過ぎていきました。俺も大学に仕事にと忙しく、あなたのことは時折思い出す程度でした」
「……」
「ある夜会で、あなたのお父上とお会いした時は、その偶然に歓喜しました。しかし純粋にあなたを見つけた喜び、という訳ではありません。兄や父を見返す為に華族令嬢のあなたを妻にしたいという思いは、少なからずあった」
 じっと耳を澄ませ、正直に話す直之様に小さく頷く。
「でもあなたと再会して、その考えは消え去りました。あなたは美しく成長されていたが、寂しさの面影はまだ残っていた。どうにかして、あなたを手に入れたいと思った。手許に置いて、幸せにしたいと。ですから無茶な事を言って、あなたが結婚を断れないようにしたのですよ」
「最初は、とても嫌な人に感じました」
 私の言葉に直之様が笑った。
「あの時、正直な事を言っても信じてはもらえなかったでしょうしね。ゆっくり、少しずつ、時間を掛けてあなたの心に入っていければ、それでいいと思っていました」
「今はもう、少しどころか私の全部に入っていらっしゃいます」
 本当に……心の中も体までも、隅々までこの方は私の中にいらっしゃる。
 直之様のお話を聞いて心の中に光が差し込んだようだった。見えなかったものが照らされ、迷うことなく進んでいける、温かな光が。
 もう一方の手の指を拭こうとしてかがむと、逆に私の手首を掴まれてしまった。
「蓉子さん」
「あ、駄目です」
 手首を離した直之様は、すぐさまその手で私を引き寄せた。しばらく寝ていた方とは思えない程の力強さ。抵抗すれば痛みを感じられるかもしれないと、大人しく俯いていた。
「あなたに口付けをしてもらえたら、すぐに元気になれそうなんだが」
 熱いお声を出す直之様に、私の心臓がどきどきと鳴った。何故か夜会で踊ったワルツの曲が頭を過ぎる。私をリードしたあの手の力強さと、今も何ら遜色がない。
 窓から入る秋風がベッドを覆い隠すカーテンを揺らした。どなたかお部屋にいらして、この様子が見えてしまったらと思うと、気が気ではなかった。
「意地悪、言わないでください」
「駄目ですか?」
 捨てられた子犬のような目で見られてしまったら、嫌だなんて……言えない。
「……いいえ」
 お顔を傾けて、ゆっくり近付ける。
 睫が触れそうなくらいの距離で目を瞑り、私の方から初めて直之様に接吻をした。
 久しぶりの彼の唇の感触に、うっとりしながら接吻を続ける。舌を絡ませ、吸い付き、熱い吐息を与え合う。しばらくそうしてから、そっと唇を離した。
 すぐ傍の愛しい人に問いかける。
「……元気に、なりましたか?」
「ええ、今すぐにでも家に帰れそうだ」
 直之様は満足そうに笑って言った。

「早く退院して、今度こそあなたとの約束を果たさねば、ね」