麗らかな春の匂い漂う、三月一日のよき日。
「支度は済みましたか?」
「はい」
 マガレイトに結ってくれたツネさんと入れ替わりに、直之様がお部屋にいらした。
「海老茶袴を穿くのも今日で終わりだと思うと、感慨深いです」
「卒業おめでとう、蓉子さん」
 お傍へ寄った私の言葉に、満足げなお顔で頷かれた。
「直之様、私を女学校へ入れてくださって、ありがとうございました。貴重な体験をたくさんさせていただきました。大事なお友達も出来ました。本当に全て、あなたのお陰なのです。どれだけお礼の言葉を述べても言い尽くせぬほど感謝しております」
「いいんですよ。俺は女学校へ入るお手伝いをしたまでです。頑張ったのはあなたご自身なのだから」
 私の頬を撫でる温かい手。この手が私をここまで導いてくださった。
 直之様が事故に遭われた日から、数か月。
 入院して一か月後に退院なさった直之様は、その後一週間でお仕事に復帰された。東京から横浜の病院へ通院することとなる。骨がしっかりとつき、痛みがほぼ消えた年明けから骨を支える筋肉を強化する為の運動を家でも行い、最近ようやく何の支障もなく過ごされるようになった。
「これを」
 直之様は、私が預けていた異国の本を差し出された。
「ありがとうございます。書き入れてくださったのですね」
「あなたが訳したものを、ほぼそのまま書き写しました。最初に書き入れたあの頃とは文字の癖が違うので、少々お恥ずかしいが」
 本を受け取り中を捲ると、彼の文字で埋められた最後の数頁があった。文字を追いながら幸せな気持ちに満たされる。
「間違いはございませんでしたか? 私の拙い訳で良かったのか心配でしたのに」
「完璧でしたよ。キャサリン先生をお呼びした甲斐があります。あなたは何でもきちんと吸収していくから、その成長過程も俺には嬉しい」
 目を細めて私を見つめる彼に笑顔でお返事をした。
「大切にします。いつまでも、ずっと」
 頭の上に飾られたおリボンを揺らしながら、直之様と共にお部屋を出た。

 直之様もいらっしゃるので、今日は自動車で女学校へ向かうこととなった。式典はお昼過ぎから。
 車に乗り込んですぐ、直之様へ大切な報告をした。
「春休みを機に、弟たちが寄宿舎から家に戻るそうです」
「薗田家に住まわれるのか」
「ええ。あの方……梓乃さんが薗田を出られたので、気兼ねなく帰れるそうです。光一郎が手紙で知らせてくれました」
「それは良かった。具合のお悪いお父上も、弟君らが帰られれば、ひと安心でしょう。……まぁ、梓乃さんのことはお気の毒ではあったが」
「いえ、これで良いのです。薗田の家にいるよりは、松永様のところにおられる方が、彼女にとっても……」
 言いかけて口ごもる。苦い思いが喉の奥で詰まった。
 柏木が注意していたにも関わらず、お父様の許しを得た梓乃さんは、薗田家で散財を続けていた。それでも尚、使えるお金の額に不満を漏らしていたと柏木から聞く。
 その梓乃さんに、お父様はさらりと置いて行かれたのだ。
 先月行なわれた小さな夜会に、お仕事関係で出席された直之様が、梓乃さんを連れたお父様に偶然出会った。直之様はその場にいらした松永様に、お父様と梓乃さんを紹介したという。
 その後、松永様と梓乃さんは個人的に連絡を取り合う親密な関係になり、梓乃さんは薗田家をあっさり出てゆき、今では松永様の元で囲われている。
 そのことが余程堪えたらしく、抜け殻のような状態になられたお父様は、未だ寝込まれたままでいた。
「薗田家と弟君達の援助はこれまで通り、俺の方で責任を持っていたしますので、ご心配なく」
「ありがとうございます。でも、これ以上の援助など心苦しくて」
「何を気兼ねすることがありますか。言ったでしょう。あなたが受けた悲しみを二度と味わわせないようにすると」
 私の手を握った直之様は足を組み、窓の外へ目を向けてぽつりと呟いた。
「大戦は終結した」
 直之様が退院後、数年続いた戦争が終わった。
「松永様は海運業で巨額の利を得た方だ。俺の援助額に不満をお持ちだった梓乃さんも、これで満足に暮らせるでしょう。……あと数か月は」
 車が女学校の門の前に停まった。他にも車でいらっしゃる方や、徒歩でご両親といらっしゃるお友達の姿が見えた。
「……数か月?」
 首を傾げる私を振り向いた直之様は、優しく穏やかな表情で言った。
「さあ着きましたよ。あなたの晴れ舞台を楽しみにしています。行きましょう」
「はい」

 卒業生、在校生、先生方、来賓の方と保護者の方が講堂に集まった。
 粛々とした雰囲気の中、卒業生は一人一人順に名前を呼ばれて壇上へ上がる。そして次が、私の番。
「西島蓉子」
「はい」
 椅子から立ち上がり、壇上へ向かった。
 先月、直之様と籍を入れたばかりの私は西島の姓に変わった。くすぐったいような、気恥ずかしいような、そんな気持ちで歩みを進める。
 校長先生の前でお辞儀をし、証書を両手で受け取った。
「楽しく過ごせましたか」
 茶色の瞳をこちらに向けて優しく微笑んだブライアン校長先生に、喉の奥からいいようのない感傷が湧き上がり、涙を堪えてお返事をした。
「はい。こちらの女学校へ来て良かったと、心から思っております。ありがとうございました」
 にっこりと頷いたブライアン先生にもう一度お辞儀をした。壇上から下りる時、後方の保護者席に座る直之様を見つけた。姿勢正しく真っ直ぐ私を見ていらっしゃる。そのお姿に感動した私は、再び込み上げる涙を必死で堪えるのだった。

 暖かな光が降り注ぐ校庭で、卒業証書を持ち記念撮影をした。
 その後、仲良し組で集まり最後の御挨拶をする。
「蓉子さん、今度お宅にお邪魔するわね」
「ええ、お待ちしています。皆さんでいらしてね」
「春休みに一度お会いしましょうよ。今度は皆さんで横浜に行かないこと?」
「いいわね。それならもっと遠出して、東京にオペラでも観に行きましょうよ」
 この女学校を訪れた日を思い出しながら、おしゃべりを続ける彼女たちに言葉を差し出した。
「皆さん、ありがとう」
 美代子さんと佳の子さん、勝子さんが私をすぐ傍で振り向く。
「途中から入った私を受け入れて下さったことに感謝します。華族の出だと特別視されることも隔たりもなく、とても幸せでした。本当にありがとう」
 皆さんは黙って私を見つめていた。
「や、やぁね、蓉子さん。そんなこと当たり前じゃないの」
「嬉しかったの。元町へ誘って下さったでしょう? あんみつを食べて、可愛い便箋と封筒を買って、自転車も練習して、あんなに楽しいことはなかったの。とても、とても……楽しかった」
「私だって楽しかったわ。ね? そう、よね? 黙っていないで、何かおっしゃい、よ、皆さん……」
 私と同じように、美代子さんが涙を流した。
「……楽しかったわ。離れたくないわ、いつまでも」
「本当に。いつまでもお友達でいましょうね、結婚したって、住む場所が変わったって、ずっと」
 佳の子さんと勝子さんも泣いていらっしゃる。いつまでもお友達。そう誓って私たちは抱き合い……そうして最後には笑って女学校を後にした。


「蓉子さんのご卒業を祝って、乾杯」
 直之様がワイングラスを掲げると、皆さんも乾杯、と祝福してくださった。
「皆さん、ありがとう」
 食堂には直之様と私、使用人の皆さん全員がいる。たまには皆で食事をするのもいいだろう、と直之様が提案をしてくださった。端に椅子を並べ、好きな場所へ移動できる立食式の会。
 卒業式から帰った私は、袴からヘリンボーン生地のワンピイスへとお着替えをした。彼もまた式とは別の三つ揃えに着替えている。
 テーブルには豊富な品数のお料理が載っていた。海老や貝の魚介類とお野菜を使った前菜、とろとろに煮込まれた数種のお肉、ソテーされたお魚、とろりとしたクリイムのコロッケ、旬のお野菜の煮物に、お魚の煮付け、ちらし寿司やお稲荷さんまで。和洋折衷、色とりどりのご馳走に皆で舌鼓を打つ。どれも美味しく、お箸が止まらない。
 身分も何も関係なく楽しめる温かな晩餐は、お祝いに相応しい催しだった。
 サワの傍に行こうとして、ふと目に留まった。彼女の隣には磯五郎がいて、何やら楽しげに会話をしている。
「どうやら良い雰囲気のようですね」
 私の隣で直之様も二人を見つめておっしゃった。
「ええ、本当に。もしそうなれば、私も嬉しいです」
「俺もそう思いますよ」
 サワには幸せになって欲しい。私のことばかり気にかけている彼女に、自分の幸せを掴んでほしいと願うから。
「ではお姫様、そろそろ行きましょうか」
「どちらに? ……きゃ」
 突然直之様にふわりと抱き上げられ、耳元で囁かれた。
「俺の部屋ですよ。早く二人きりになりたい」
 目を見開いてその横顔を見上げると、彼は皆さんに向かって声を張り上げた。
「お前たち、今夜は好きなだけここで飲んでいて構わない。遅くまで騒いでいても咎めはしない。その代わり」
 静まり返った皆さんに、彼は口の端を上げて笑った。
「二階には上がって来るなよ?」
 意味に気付いて、かっとお顔が熱くなる。頬に手を当て俯くと、磯五郎の声が届いた。
「かっ、かしこまりました……!」
「ばーか、お前何て顔してんだ、磯五郎」
「いて! いや、だってその、って、思い切り叩かないで下さいよ、いてえな〜もう」
 友三と磯五郎のやり取りに周りの皆さんが笑った。直之様の腕の中で視線を上げると、サワが嬉しそうにこちらを見ている。ツネさんもミツコさんも同様に。
「ではお先に。蓉子さんから皆さんに御挨拶は?」
「あ、あの……お祝いありがとうございました、皆様」
 頭を下げると、一斉に皆さんが拍手をした。ツネさんがいつものように変わりないお声で直之様に問いかける。
「結婚式はいつ頃でいらっしゃいますでしょう」
「七月だ」
 わっと歓声が上がった。
「直之様、もう決まっていらっしゃるの?」
「決めました。いいでしょう?」
 私の瞳を覗き込んだ悪戯っぽい笑顔に、はい、と小さくお返事をすると、さっと向きを変えた直之様は私を連れて食堂を出られた。後ろからまだ歓声と拍手が聴こえる。

 私を抱き上げたまま階段を上り、回廊を進んだ直之様は、ご自分の書斎に入られた。その奥の寝室で、私を静かにベッドへ下ろす。暖炉は火が入っており、お部屋はちょうど良い暖かさだった。
「随分我慢しましたよ」
 上着とベストを脱ぎ、ネクタイを外した直之様が私を優しく押し倒す。
「全く……体に無理が利かなかったとはいえ、入院してから今日まで、よくぞあなたを抱かずに生きていられたものだ」
 私へ頬ずりしながら、静かに言った。
「今更ですが、俺を呼び戻してくれてありがとう、蓉子さん」
「呼び戻す?」
「俺の意識が戻る前、ベッドの上で何度も俺に呼びかけて下さったでしょう。あのお声に気付いたからこそ、あなたの元に戻ることが出来た」
「必死だったの。直之様がいてくださったら、何もいらないからと、それだけを願っていました」
「俺もですよ。俺もあなたがいてくだされば、それでいい」
 ご自分の白いシャツの釦に手を掛けながら、私の唇を奪った。
「んっ! ふ、んん……!」
 久しぶりの強引な接吻に戸惑ってしまう。我慢できないという御様子の直之様は深く長い接吻を終えると、もどかしそうに私のワンピイスの前釦を次々に外していった。彼のシャツの前は空いていて、おズボンのベルトも、前の釦も外れている。
 その切羽詰った表情に私まで気持ちが昂ってしまい、早く抱いて欲しいなどと、はしたない思いを駆け巡らせた。いっそ自分で脱いでしまおうか。早く肌と肌を合わせたい……と。
 ワンピイスの前釦がお臍の辺りまで外され、上半身の下着が露わになる。私の首筋に顔を埋めた直之様が荒い息と共に言葉を吐き出した。
「ああ蓉子さん、好きです。この気持ちをどうすれば全て、あなたにお伝えすることができるのか」
「私も、お慕いしております、あ……!」
 胸元から下着の中に手のひらを入れられ、その膨らみが包まれた。
「ふ……ん、ん……」
 先端を指で弄られ揉みしだかれ、甘い息が止め処なく漏れた。指で摘ままれたり、弾かれたりする度にびくびくと体が揺れ、彼の腕にしがみついて堪えた。

 このように触れられるのは、彼が事故に遭われてから初めてのこと。何も知らなかった頃とは違い、わかっている分だけ、期待を持った体が熱を帯びる。些細な事でも敏感に体が反応している。
 胸から離れた直之様の手が、スカァトへ伸びた。裾から手を入れ太腿を伝いながら、奥までまさぐろうとした直之様が、私の顔を見て溜息を吐かれた。
「あなたはまた……」
「?」
「ストッキングは着けていらっしゃるのに、どうしてそう下着を穿こうとしないのです。お寒くはないのか」
「着物の時も穿いていませんから、あまり寒さは変わりません。ストッキングは温かいですし……」
「俺を興奮させる為に、わざとそうしていらっしゃるとしか思えないのですが」
「え、あ!」
 一気にスカァトの裾を捲り上げた直之様は、そこへお顔を近づけた。
「何も知らない清純なお顔の下に、このような奔放さを隠していらっしゃるのだから困る」
 下腹にあるガァタァベルトを指先でゆっくりと撫でている。
「決して他の男に悟られてはいけませんよ。全部俺のものなのですから、いいですね?」
「そのようなこと……私は直之様以外に、何も感じません、のに」
 彼の息がかかった狭間が、小さく怯えてひくついたのがわかる。
「随分と濡れていますが」
「……見ないで、あ、あ……」
 ついと指でなぞられ、腰が震えた。両の太腿を押し広げて内をじっと見つめる直之様が尚もおっしゃる。
「次はどうして欲しいのか、教えてください」
「そんな、こと……言えません」
 羞恥で涙ぐみながら小声で答えると、では何もしません、と呟かれた。。
 ぱちぱちと薪の燃える音がする。直之様はそこを動かない。長い間見つめられ、恥ずかしいのに疼きが止まらない。どうすれば、よいの?
「直之様……」
「おかしいですね。何もしていないのに、どんどん溢れて垂れている。シーツに泉でも出来そうだ」
「意地悪ばかり、言わないで」
 泣きそうになりながら足を閉じようとしても、彼の手に押し留められて、そこは無防備に晒されたまま。
「どうして欲しいのかあなたが言ってくだされば、これ以上意地悪はしませんよ」
 見つめられている場所は火照りが治まらず、勝手にひくひくと彼を欲しがっている。
「……さ」
「ん?」
 もう駄目、我慢が出来ない。頬が上気し、息が速まる。
「触って下さい」
「触るだけで宜しいのか」
 頭の奥で何かがぱちんと弾け、口にしてしまった。
「……接吻して、くださ、い」
 言い終わらない内に泉へ唇を強く押し付けられた。零した言葉の恥ずかしさと、彼の舌の感触の良さに、腰が跳ねてしまう。
「あ、ああ、あっあ……! んんっ!」
 声を上げて、足の間にある彼の髪を触った。濡れている奥から、その周りから、まるで喉の乾いた美しい狼がようやく探し当てた水を飲んでいるかのように、激しく舐め回され呑み込まれた。とろとろと溢れたお汁を啜る音が部屋中に響き、私の耳から入ったその音が体中を蕩けさせる。
「直之様ぁ、ん、あ……あ、あーー……!」
 硬い小さな芽をちうちうと吸われ、あっという間に達してしまった。

 ぐったりとしたまま、ワンピイスと上半身の下着を脱がされた。絹のストッキングとガァタァベルトだけの姿になった私に直之様が優しく微笑む。その唇は私のせいで濡れていた。
「夜は長い。今までの分、今夜はたっぷり愛し合いましょう、蓉子さん」
「直之、様……」
 前の乱れたシャツもおズボンも全て脱がれた直之様は、ベッドの上で幸せの喜びに震える私の上に再び圧し掛かった。