河合さんが横浜駅まで送ってくれ、同乗していたサワとミツコさんの付き添いで鉄道に乗り込んだ。向かうのは東京にある大學病院。

 立派な建物の病院内に入ると、独特の消毒液の匂いが鼻を突いた。
 受付で案内された病棟の廊下で、煙草を吸われている直之様のお兄様の姿を見つけた。
「長一郎様……!」
 遠くからお名前を呼び、彼の元へ小走りで進んだ。
「蓉子さん」
「直之様は、直之様の御容態は」
「まだ、わかりません。額に切り傷、左腕と鎖骨の骨折、両足の打撲を負っているが内臓は今のところ無事らしい。骨の施術は終わりました。しかし」
 置いてある灰皿に煙草を擦りつけ、苦い表情をされた。
「……意識が無い。運ばれるまでは呼びかけに応じていたらしいんだが、ここへ到着する頃にはもう」
 意識が、ない?
 目が覚めないということ……?
 全身に震えが起き、目の前が暗くなる。
「今、父が入院手続きをして医師の話を聞いています。病室に入りましょう」
 サワとミツコさんには廊下のベンチで待っていてもらい、深呼吸をして長一郎様と一緒に直之様のいらっしゃる個室へ入った。
 白いベッドに横たわる直之様の姿を見て血の気が引く。
 胸と肩の部分が何か厚みのあるもので固定され、その上から白い包帯を巻かれている。額と左腕、両足にも。
「直之様!」
 彼の元に駆け寄り、ベッドの脇で膝を着いた。
「何故、何故このようなことに……!」
 お顔や腕に出来たのだろう傷に、脱脂綿があてがわれている。近寄ると彼のいつもの香りがした。
 ただ眠っているだけに見えるのに。耳元でお名前を呼べば、すぐにでも笑ってお返事しそうなのに。
「今朝、直之は西島家で父と商談について話をした後、そこから横山の運転する車で東京駅へ向かったそうです」
 直之様のお顔を見つめたままで、長一郎様のお話に耳を傾けた。
「横山も負傷して別室にいます。幸い軽症でしたので、警察から事情を訊かれていますが」
「横山さんが?」
「どうやら、駅前広場に集まっていた政治団体を避けようとした車が、こちらの車に勢いのままに突っ込んできたらしい。路面鉄道も走っていた為、現場は混乱していたそうです。ぶつかった衝撃で直之が外に投げ出され、横転した車の中に横山が残されました」
 直之様の負傷されていない方の右手をそっと握った。温かさと柔らかさに涙が溢れる。どれだけ痛かっただろうかと想像するだけで胸が潰れそうだった。

「失礼します」
 声に振り向くと、看護婦の方が入って来られた。長一郎様の前に立ち、お辞儀をする。
「西島様のご家族の方ですね?」
「ええ」
「こちら、西島様のお荷物のようなのですが、ご確認をお願いできますか?」
 鞄とトランクを差し出された。
「お洋服とお帽子、靴はそちらの箪笥に入っております。お鞄は大切なものが入ってるようでしたので、こちらで預かっておりました」
「そうでしたか、ありがとう」
「中身を全て取り出してください。確認できましたら、こちらの用紙にあなた様のお名前を。何かご容体の変化等がありましたら、すぐにお知らせ下さい」
「わかりました」
 看護婦さんの去る靴音を聞いていると、長一郎様が私を振り向いた。
「蓉子さんもご一緒に」
「……はい」
 涙を拭き、病室の隅にある長椅子に二人で座った。
 トランクにはお着替えや手拭い、身嗜み用の小物が入っている。そしてもうひとつ、お仕事用の鞄の中身を、お兄様がひとつひとつ取り出して椅子の上に置いた。
 大事な書類、お財布、文庫本、ハンケチ。そして……手帖を手にしたお兄様が不審な顔をされた。
「何だ? 不自然に何か挟まっている」
 長一郎様は手帖をひらき、挟んであった白い布を摘まんで広げた。
「ハンケチかと思ったが、これは」
「おリボン、でしょうか」
 白い、おリボン。
 女性もの? にしては、今私が着けているものより少し短く小さい。大人ではない、少女がつけるもののような。
「あなたのリボンでは?」
「いえ、大きさが違います。それに少し古いもののような気がいたします」
 ……何かを、思い出しそうな気がする。
 私と同じようにおリボンを見つめていた長一郎様が、お顔を上げた。
「蓉子さん。夏の夜会で訊こうと思っていたのだが、もしやあなたは過去に俺と会ったことがありますか? あの葉山の別荘で」
 胸がずきん、と痛んだ。このような時だけれど、今度はいつお会いできるかわからないのだから、今の内にお礼を言ってしまおう。
「ええ。お会いしております。直之様に教えていただいたのですが……そこで、私にご本をくださったのがあなただと」
「本?」
「ええ。英吉利の児童書です。少女が表紙の」
 顎に親指を当て、眉をしかめていた長一郎様がふいに、そうか、と言った。
「思い出しました。あなたが、あの時のお嬢さんだったのか……!」
「その節はありがとうございました。長一郎様が丁寧に書かれた日本語訳のお陰で、幼い私にも繰り返し読むことが出来ました。本をくだすった方が直之様のお兄様だと知って、いつかお礼をと思っていたのですが……」
 ようやく最後の頁の訳が終わった、ずっと大切にしてきた異国の本。
「いや、ちょっと待ってください」
 慌てたように長一郎様が、お顔の前で手を上げた。
「確かに、あの本をあなたにお渡したのは俺です。しかし、あの日本語訳は直之が書いたものですから、俺がお礼を言われる筋ではない」
「え……?」
「あの本は直之のものです。それをご存知なかったのか」
 直之様の、もの?
 あまりにも驚いたせいか、なかなか声が出せなかった。
 丁寧な日本語訳も、彼が書き込んだもの……?
「長一郎様のご本では、ないのですか?」
 呆然とする私から、ベッドへと視線を移した長一郎様が、お話を始めた。
「確か、父の知り合いが欧州から戻ってきて、土産に直之へ渡したものです。直之は英語が苦手だからと言って、よく原書に訳を書き込んでいたのを覚えています。その内の一冊ですよ、あれは」
「そんな」
「あの頃、父は毎晩のように夜会だの会合だのに呼ばれておりましてね。繋がりを作りたがったものですから、自分が行けない時は俺と直之に行かせたのですよ。葉山へは、あの時一度伺っただけかな。鎌倉にも呼ばれていて、鎌倉の後、あなたの別荘へ伺ったのだと思いますよ。いや、今まですっかり忘れてはいたが」
 私の手にリボンを渡した長一郎様は、先ほどの用紙にご自分の名前を書き入れた。
「葉山に呼ばれた時、どうせ退屈だからと、直之はいつものように本を数冊持ってお宅の別荘へ伺いました。挨拶もそこそこに、どこかで本を読んでいたんでしょう。その内、飽きてきた俺も煙草を吸いに直之の元へ行ったんですが」
「……」
「直之のいる場所から少し離れたところに、まだ少女のあなたが女中か誰かと一緒にいました。あなたのご機嫌が悪そうだから、手元にある児童書を渡したら喜ぶかもしれないと、珍しく直之が悩んでいてね。しかしなかなか渡そうとしないもんですから、もどかしくなった俺が直之から本を奪って、あなたへ渡したんですよ。あの時、何故あんなにもあいつが躊躇っていたのか俺にはよくわかりませんが」
 話しながら、直之様のお鞄へ書類などをしまっている。
「まさか、その時の少女があなただったとは。そのリボンを見て、もしやと思いましたが」
 手のひらに渡されたおリボンを見つめて、静かにお答えする。
「私も思い出しました。これは、ご本のお礼にと、私が髪からほどいて長一郎様へお渡ししたリボンですね」
「そうです。本のお礼に少女から貰ったと、直之へリボンを渡しました。直之は俺とあなたの様子を近くで見ていたんでしょうが、一応説明をね。しかしあいつがまだ、そのリボンを持っていたとは」
「なぜ……」
 広げたおリボンを丁寧に畳む。
 ご本をいただいて、とても嬉しかった。だから私も、自分の大切にしていたおリボンをお礼にと渡したのだった。
「何故、直之様はそのことを教えて下さらなかったんでしょう。本の持ち主がご自分だと、何故」
「さあ……。目が覚めたら直之に直接聞いて御覧なさい」
「長一郎様」
「大丈夫。あなたがいらしたのだから、すぐに良くなりますよ」
 不安な顔でいる私に、長一郎様が優しく微笑んだ。

 その後、長一郎様は警察の方とお話を済ませてから、お仕事へ行かれた。直之様のお父様も夕方には病院を出て会合へ出掛けられた。ミツコさんは山手のお家に帰ってもらい、サワと二人で直之様の病室に残る。交代で眠ることにし、広い個室にある付添い用のベッドでサワを先に眠らせた。
 直之様のベッドの横に置いた椅子に座り、彼の手を握る。昼間よりも冷えたようで、少し冷たい。そこに手のひらをあて、何度もさすって温めた。
「直之様」
 どうして、教えて下さらなかったの?
 あの夜会の夜からずっと私は、本の持ち主が長一郎様だと思い込んでいた。
 そういえば直之様は、それ以前におっしゃっていた。私が異国の本のお礼に、何かを渡してはいないかと。
 お着物を買いに横浜の港へ行った時、白いリボンが似合うと私に微笑んでいた。それはこの、白いおリボンのことだったのだ。
 忘れていたのは私の方。直之様を責めることなんてできない。


「何故まだ目覚めんのだ……! 先生、どういうことですか、これは!」
 朝が来て、お義父様が再び病室を訪れた。診察をしていた担当の医師に詰め寄っている。
「手術後とは違い、事故などで意識を無くされた方のご様子を知ることは、大層難しいのです」
 看護婦の方と連携して、彼の腕に太いお注射をしている。痛そうな針に思わず身が竦んでしまう。
「このまま数日過ぎて回復されない場合は、たとえ意識が戻っても予後があまりよろしくはないでしょう。それなりの覚悟をしておいてください」
「金ならいくらでも出す。助けてやってください……!」
 お義父様の必死なお声に、私まで涙が浮かんでしまう。
「正直に申し上げて、このような状態で三日以上経った場合のご存命を支える技術が、我が国にはまだありません」
「……」
「最善は尽しますが」
 冷静なお声で告げた医師は、診察を終え、部屋を出て行った。

 病室の壁に額を付け、うな垂れているお背中に声を掛けた。
「お義父さま」
「蓉子さん、何と申し上げたらよいのか……」
 頭を横に振った彼は、ゆっくりと顔を上げて私に言った。
「あなたは若い身空だ。まだ正式に結婚していないのだから間に合うだろう。直之を見限って他に嫁がれても私には止める権利はない。あなたの自由になさい」
「悲しいことをおっしゃらないでください! 私は……私は直之様の妻になるのだと、とうに心は決まっております。直之様以外の方へ嫁ぐなど考えられません」
「蓉子さん」
「お義父さま。直之様は、きっと目を覚まされます。まだ二日目ですもの。私は諦めません」
「……ありがとう、蓉子さん」

 直之様がいない間のお仕事の件は、お義父様が彼の部下に指示を与え、支障は抑えられているという。
 お義父様は昨日と同様、夕方こちらを立ち去った。明日はどうしても抜けられないお仕事がある為、容体が変わらなければ明後日の朝に、こちらへいらっしゃるという。
 薗田のお家にも電話をしたけれど、お父様はまた腰の具合が悪くなっており、寝たり起きたりだというから病院へは来なくてもよいと、ばあやに伝えてもらった。
 夕方の陽が差し込む病室で、直之様の包帯の巻かれていない体の部分を手のひらで、ずっとさすり続けていた。
「姫様、少しお休みになりませんと」
 サワが心配そうに私の顔を覗き込む。
「いいの。もう少しだけこうしていたいの、お願い」
「では、せめて何か召し上がってください。今買ってまいりますので」
「そうね……ありがとう」
 私のお返事に笑顔で頷いたサワは、近くでお買い物をすると言って病室を出て行った。

 窓の外を小鳥が飛んでいく。空が薄紅色の夕焼けを纏い始めていた。
 直之様の肌をさすった後、手を握り、耳元で彼の名前を何度も呼んだ。

 目を覚まして。
 ほんの僅かでもいいから応えて。
 お願い。お願いだから。