眠る前の僅かなひととき。
 お部屋の文机の上に異国の本を置いて、訳されていない頁を捲る。紙と付けペンを用意し、最後の頁の日本語訳を始めた。
 窓から入る九月最終日の夜風はひんやりとしていた。綺麗な虫の音がどこからともなく入り込み、秋の夜に感傷的な調べを連れてくる。
「出来たわ。これで、完成」
 本の中に書き込むのは躊躇われ、別の紙に訳を書き綴った。文字を乾かし丁寧に折り、異国の本の間に挟んだ。今度キャサリン先生に読んでいただいて、間違いを正してもらおう。
 明かりを消してすっきりとした気持ちでベッドに入る。瞼を閉じながら、ご自分のお部屋にいらっしゃる直之様を思った。

 軽井沢を訪れてから一か月。
 なるべく結婚までは今まで通りにしていようと決め、私たちはそれぞれのお部屋で眠っていた。その間我慢できずに体を重ねることは数回あったけれど。
 私を見る眩しそうな表情、囁かれる愛の言葉、昼間の優雅さとは対照的な私を求める彼の激しい欲を思い出し、甘いキャラメルのように溶かして体の隅々にまで行き渡らせる。
 このまま直之様のおややを授かってもいい。大胆にも私はそんなことを思っていた。


「おはよう、友三。すっかり涼しくなったわね」
 朝のお庭で着物の袂が風に吹かれ、ぱたぱたと揺れた。
「おはよう、姫さん。秋桜が満開だ。好きなだけ切るから持ってきな」
「まぁ、ありがとう」
 お庭にたくさん咲いた秋桜も揺れている。これがいいかしら、と友三と相談しながら切ってもらった。
「何だか姫さん、雰囲気が変わったなぁ」
 花を抱える私を、額に皺を寄せた友三がじっと見る。
「そうかしら?」
「元々別嬪さんだったが、ここに来た時よりも、大分大人っぽくおなりだ」
「人は成長するものなのよ」
 澄まして答える私に、友三が吹き出した。
「口まで達者になるんだな」
「あら、ご存じなかったの?」
「……気のせいだったかな、こりゃ」
 笑い合ってから、私はお邸に向かって歩き出した。高い空に鰯雲が並び、鳥が気持ちよさそうに飛んでいる。
 咲き乱れる萩の花の横を通り過ぎると、名前を呼ばれた。
「蓉子さん、おはよう」
「直之様……!」
 お庭に現れた直之様は、当たり前のように私から秋桜の花束を奪った。
「おはようございます。今朝はお早いのですね」
「今日から地方へ出張なのでね。あなたの顔を少しでも長く見ていたくて、起きました」
 花をお持ちでない手で私を引き寄せ、頬に口付けをする。くすぐったくて肩を縮めると、直之様が顔を覗き込むようにして訊ねた。
「寂しいですか?」
「……ええ、とても」
 彼のお顔を見つめて素直な言葉を差し出した。
「なるべく早く帰りますよ。出来れば、あなたと一時も離れたくない」
「私も」
 顔を見合わせて微笑みながら、お邸の中へ二人で入った。

 お天気が良いからと、テラスで朝食をとることになった。今日はずいぶんと遠くまで見渡せる。
 ツネさんが運んだ温かいお紅茶を口にする。途端に良い香りが鼻を抜けていった。飾り切りをされたゆで卵が可愛らしい。元町のお店で購入されたパンをお皿の上で千切っていると、直之様がおっしゃった。
「蓉子さん、突然なんだが」
「はい」
 緊張気味のお声にはっとし、手を止めて彼のお顔を見る。
「俺と正式に籍を入れてはもらえないか」
「正式に……?」
「ええ」
 頷いた直之様はお紅茶をひと口飲み、再び私を見つめた。
「あなたのお母様が亡くなられて、まだ間もない。喪中だということは勿論理解しています。ですが、必ずしも一年以内に入籍をしてはいけないという決まりはない。俺は一刻も早くあなたのことを責任を持って迎えたいのです」
「直之様」
「蓉子さんのお気持ちを一番に優先させたいので無理は言わないが、俺はいつでもそういう心づもりでいるということだけは覚えておいてください。籍を入れても挙式はあなたが卒業してから。派手な事は喪が明けてからで構いませんので」
 直之様が発するお言葉全部が……心から嬉しかった。
「お受けいたします。その方がきっと、お母様もお喜びになると思いますから」
「そう思っていただけるか」
「あなたのお陰で、そう思えるようになったのです、直之様」
 私の喜びはお母様の喜びでもある。私の幸せな様子をお母様に見せて差し上げたい。どこからか私を見守っていて下さるはずの、お母様に。
「ありがとう、蓉子さん。出張から帰ってきたら、あなたのお父様の許可を得ましょう。難しいかもしれないが」
「お父様に異存はないと思われます。あなたと早く一緒になることをお望みでしたから」
 父の思惑は別の方向にあったのだろう。でももう、そのようなことは関係ない。私の気持ちは決まっているのだから。
 高い空で、とんびが鳴いた。
「では、約束です」
 いつものように小指を差し出され、私も当たり前のようにそこへ小指をあてがった。
「まずは籍を入れること。卒業したら結婚式。数年後に豪華客船で欧州に旅行。ツネとじゃありませんよ、俺と行くんですよ」
 指をぶんぶんと振られながら彼の言葉に思わず笑ってしまう。笑顔を交わした後、直之様が真剣なお声をお出しになった。
「そして、一生掛けてあなたを幸せにします。何があっても」
「……ありがとうございます」
「約束しますよ、蓉子姫」
 小指を硬く握り、見つめ合って心を誓った。

 支度を終えた直之様を、玄関でツネさんたちと見送る。
「一度父のところへ寄って、そこから東京駅に向かって鉄道に乗る。しばらく蓉子さんを頼んだよ」
「かしこまりましてございます」
 ツネさんがいつものように、背筋を伸ばしてお返事をされた。
「では行ってくる」
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
 私から帽子を受け取った直之様は、優しい表情でおっしゃった。
「土産をたくさん買ってきますよ。北は美味い物がたくさんあるというから、今度一緒に行きましょう」
「ええ、ぜひ」


 午前の授業が終わり、いつものように美代子さんたちがお弁当を持って、私の周りに集まった。お机を寄せていただきますをする。
「皆さん、ご卒業まで学校にいらっしゃるの?」
 少し不安になった私は彼女たちに質問をした。
 夏休みの間に縁談が決まり、女学校を辞められた方が数人いる。美代子さんもお相手が決まり、勝子さんと佳の子さんにも縁談のお話が出ている。
「ええ、もちろんそのつもりよ」
 美代子さんが答えると、勝子さんと佳の子さんも同じように頷いた。
「そうなの」
 ほっと胸を抑えて安心した。
「だってね、蓉子さん。もしも、よ。結婚のお相手が軍に召集されたり、いえそれだけではないわ、家が傾いたりなぞした時のことを考えて御覧なさい」
 のり巻ごぼうをお箸に挟んだ美代子さんが、私だけではなくお二人にも視線を向ける。
「お嫁に行くだけではどうにもならないことだってあるわ。未亡人になって、お仕事をしなければいけない時が来るかもしれない。その時にきっと、女学校を卒業した、という肩書が役に立つのよ」
 彼女の演説に耳を傾けてひたすら感心する。そのようなこと、今まで考えたことも無かった。
 結婚相手なしに一人で生きてゆく。いつか私がお仕事をして生活に役立てる。その為の卒業だなんて。
「そうねぇ。最近は女性だって素敵なお仕事についているものね。タイピストや電話交換手なんて憧れだわ」
 佳の子さんが溜息を吐くと、美代子さんがお箸を持つ手を握りしめて力強く言った。
「男性によって輝かされるのではなくて、女性自ら光り輝ける時代がもうすぐ来るのよ……!」
「美代子さんは最近、らいてう先生の御本に傾倒していらっしゃるのよ」
 目をしばたたかせている私に、横から勝子さんが教えてくださった。なるほど、と頷くと美代子さんが勝子さんを見て口を尖らせた。
「あらよろしいじゃないの。先々のことまで考えておいても何も悪いことなどないのだし」
「ええ、ええ、美代子さんの言う通りよ。ですからね、私たち仲良し組は皆、ちゃんと卒業しましてよ。蓉子さんもそうでしょう?」
 笑った勝子さんと佳の子さんが私を振り向いた。
「はい。卒業してからも、仲良しでいてくださいね」
「もちろんよ。卒業してからも、お会いいたしましょうよ、ね」
 四人で固いお約束をし、お弁当を続けた。

「あらそれ、木村屋のあんぱん? 美味しそう」
「昨日お父様が買ってきて下さったの。ひとくち召し上がる?」
 気前の良い勝子さんは四等分して私たちに分けてくださった。ありがとう、と言った美代子さんがあんぱんを食べながらお話する。
「私のお父様は昨日、東京駅に行かれたらしいのだけれど」
「お仕事で?」
「ええ」
「直之様も今日、お仕事で行かれたわ」
 私もお話に横から入った。
「あら、そうでしたの。どちらへ?」
「北の方へお出かけになるとおっしゃっていました」
 直之様、というお言葉を口にするだけでふわふわとした気持ちになる。浮足立つ、とはこのようなことを言うのかしら。毎日がそのような、幸せな日々。
「大変ねぇ。私のお父様はね、お仕事のついでに東京駅へ行かれたんですって。でも随分とざわめいていたらしいの。人がいつもの何倍もいたと驚いていたわ」
「平民の方が総理大臣になられたからじゃない? うちのお父様は期待する、とおっしゃっていたけれど」
「ふうん。政治のお話はよくわからないわ」
 佳の子さんのお言葉に、美代子さんが溜息を吐いた。
「あら、らいてう先生を尊敬されている方とのお言葉とは思えないご発言ね。これからは女性も政治に強くならねば、ではないの?」
「ま、まぁいやあね、佳の子さん。だって……いくら素晴らしいお方でも、髪の白いお爺様のような殿方に個人的に興味あって?」
「そうねぇ……ないわ」
 そのお返事に美代子さんが吹き出し、私たちも後に続いてころころと笑った。
 楽しいおしゃべりの時間はあっという間に終わってしまう。続きは帰りに、みるくほうるでシベリアを食べながらお話しましょう、となってそれぞれのお席に戻った。学校帰りにどこかへ寄るなんて、迎えに来たサワは驚いてしまうかしら。彼女の驚く顔を想像すると顔が綻んでしまう。

 お昼休みが終わり、午後一番の授業である国語の教科書をお机の中から取り出そうとして、足に違和感を覚えた。
「?」
 俯くと、お教室用の短靴の紐が中途半端なところから切れている。いつの間に……
 直之様に買っていただいたばかりだというのに。履き方が悪かったのだろうか。かがんで紐を抜こうとした時だった。
 がらりとお教室の引き戸が開き、黒松先生が入って来られた。
「薗田さん、こちらへ……! 早くいらっしゃい」
 厳しい表情を向けられて緊張が走る。立ち上がって心配そうに私を見守る友人の間を通り、速足で廊下に出た。
「黒松先生、あの」
「西島様のお宅よりお電話が入りました。直之様が東京で事故に遭われたとのこと」
「え……」
「すぐに自動車のお迎えが来るそうです。お支度をなさい。門まで一緒に参ります」
 廊下の窓から入った秋の風が着物の袂をひらひらと揺らす。ここでもまた、ぴーひょろと、とんびの鳴き声が聴こえた。

 ――なるべく早く帰りますよ。
 彼のお声が幾度も、頭の中でこだましていた。