先生やって何がわるい!

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37) お願い




「また、ピアノの特訓をお願いしたいの」
 発表会まで二週間と迫った、十二月初旬。子どもたちはとっくに帰り、終礼も済んだ夕方。
 ひよこ2組の教室で、練習をしようかとピアノの前で椅子に座っていた俺へ、梨子先生が言った。
「え、特訓ですか?」
「うん……」
 エプロンを外し、ピンクのジャージ上下に着替えたらしい梨子先生は、難しい顔をして頷いた。年少、年中、年長と発表会へ向けての練習は順調で、ほぼ仕上げに入っているところだ。先月の年長のごたごたも、子どもの意見を尊重してカスタネットにする、ということで落ち着いたらしい。

「正直に言うね」
「はい」
「他の人には言えないから、裕介先生にだけ」
 ここのところ意識しないようにはしてたのに、久しぶりに胸がずきっと痛んで、何とも言えない切なさみたいなものが広がった。
「私、来年はどうしても年中に上がりたいの。今の子どもたちと一緒に。でも発表会で私のピアノが上手くいかなかったら、多分また年中には上がれないと思う」
 どこかでカラスが鳴いた。ヒーターを点けたばかりだから、教室の中はまだ寒さが残っている。
「だから、たくさん練習はしたんだけど……。でも自信がないの。仕上げの部分、裕介先生に見てもらいたいなと思って。夏休みの時みたいに」
 外はすっかり暗くなっていた。
「……いいですよ」
「あ、ごめん。これは私の我儘だから、迷惑なら迷惑だって言って。先輩後輩、関係なしに」
 俺の気のない返事に梨子先生が慌てた。
 彼女は悪くない。俺が梨子先生の役に立てるなら、利用してくれて構わない。夏休みの時みたいに一緒に過ごす時間も増える。だけど今の俺には、それが妙に虚しく、寂しく感じられた。
 教室の壁に掛かった時計とは別に、ピアノの上にある小さい時計のカチコチという音だけが、大きく聴こえる。
「あの、断ってくれて大丈夫だから無理しないでね?」
「何で、俺なんですか」
「え?」
 ピアノの鍵盤を睨む俺の横に立つ、彼女の戸惑う声が届いた。
「いや、別に俺、園でも一番ピアノが上手いってわけじゃないし、他にもっと上手い先生はいるのに、何で俺がいいんですか?」
「それは、前にも裕介先生に教えてもらって弾けるようになったし……」
「じゃあ何で他の人には言えなくて、俺には言えるんですか」
 やばい。何訊こうとしてるんだよ、俺。
「それは、」
 意地の悪いこと言ってるのかもしれない。でも、でもさ。少しくらい俺のことで困ってくれてもいいじゃんか。
「俺じゃないと、ダメってことですか」
 ピアノから顔を上げて、梨子先生の顔を真剣に見つめた。梨子先生は黙って楽譜を抱き締めながら俺を見下ろしている。その腕を掴んで引き寄せようかと思った時、彼女の目に涙が浮かんだ。

「嘘です」
 困って欲しくても泣かせるのは駄目だ。俺は笑ってその場を誤魔化した。作り笑いってバレないように、慎重に。
「すんません、変なこと訊いて」
「裕介先生」
「俺も勉強になるし、やります。俺も子どもたちと一緒に年中上がりたいから練習しなきゃだし。もちろん梨子先生とも上がりたいし」
 手を出して彼女の楽譜を受け取った。黄色の付箋が貼られたページをめくる。楽譜を見たって何一つ自分の中に入っちゃ来ない。それでも、明るい声を出し続けなきゃいけなんだ。
「とりあえずピアノだけで決める訳じゃないんですよね、年中になれるかどうかって」
「……」
「梨子先生?」
「あ、うん。そうだと思うよ。思うけど」
「まあ、わかってもらうにはピアノが一番効果がありそうですもんね。不安な部分を徹底的に練習しましょうか。どの辺りが苦手ですか?」
 俺、何やってんだろ。
 職場恋愛なんて親父に知れたら、ただごとではない。俺自身だって、そんなこと認めたくなかったのに。
 夏の花火の時から、梨子先生と二人になると抑えられない自分がいて、どうしようもなく苦しいんだ。


 翌日の朝。いつも通り出勤し、新人三人で外の掃除をする。桜の樹は枝だけになっていて、園庭には落ち葉もない。冷たい風に身を縮ませている時、同期の太田から、来年度一也先生が辞めるという衝撃の噂を聞いた。





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