先生やって何がわるい!

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(33) 経験の差




 とりあえず、ひとつだけ壁は取り払われた訳だ。

 梨子先生に彼氏はいなかった。これだよ、これ。あとの壁は……って、根本的に駄目じゃん。俺はこの園を継ぐんだし、園長の息子だってことは秘密だ。第一、職場恋愛禁止だし、親父にもあれだけ大丈夫だと言った手前、有り得ない。ていうか、まず梨子先生が俺のこと、どう思ってるかだよな。でも万が一俺のこと好きになってくれても、付き合うとか無理だし、でも好きだって言わないと何も始まらないし……。
 だーっ! 発表会も間近に迫ってるというのに、どうも気が散ってダメだ。保育に集中しろよ、保育に。

 その日の俺は、そういうつもりはなくても、ボーっとしていたのかもしれないし、それが子どもたちへ伝わっていたのかもしれない。そんなこと、後になってみたって明確にはわからないことなんだけどさ。

 それは、バス通園の子どもたちが帰りのバスを待つ間、ひよこ1組と2組で屋上の遊具で遊んでいた時間に起きた。空は青く、高く、秋の終わりは気持ちのいい天気が続く。反対に俺の心はずっと梅雨時みたいに、もやもやしてたけど。
 突然、子どもの泣き叫ぶ声が届いた。驚いて振り向くと、屋上に設置されている教室とは離れた場所にある滑り台の影から、二人の男児が泣きながら出てきた。二人とも立ち上がらずに這っている。なんだ? どうしたんだよ。
「どうした!?」
 一人はともくん、もう一人はけんじくん。最近仲がいいこの二人は、うちのクラス、ひよこ2組の子どもだ。
「あ……!」
 二人へ駆け寄った俺は、あまりのことに、うろたえた。けんじくんの左耳、耳朶の上くらいから血がぼたぼた落ち、水色のスモックの肩を真っ赤に染めている。
「あ、ああ、けんちゃん!」
「ゆ、い、いたい! いたいーー!!」
 彼の傍にしゃがみ、エプロンのポケットに入っているティッシュを掴んだ。くそ、手が震えて上手く取り出せない! 顔を上げると、隣でともくんが鼻血を出しながら大声で泣いている。
「ゆ、ゆうすえてんてー! てんてー!!」
「ちょっと待って! 今拭くから」
 ティッシュをけんちゃんの耳、ともくんの鼻へ当てる。すぐに白いティッシュは滲んでいき、真っ赤に染まっていった。梨子先生は屋上にある教室へ、ひよこ1組の子どもたちと探し物をしに行っていて、ここにはいない。美利香先生は帰ってしまった。見渡しても浅子先生がいない。どうしよう、どうすればいい……! その時、ようちゃんが俺の顔を心配そうに覗きこんできた。隣にはみーちゃんがいる。
「ようちゃん!」
「なあに?」
 俺は、梨子先生がいるはずの教室を指差して言った。
「梨子先生、あそこのお部屋にいるから、急いで呼んできてくれる? みーちゃんと一緒に」
「うん、わかった!」
 頼む! 手を取り合って二人が駆け出すと同時に、周りにいた子どもたちが泣き出した。
「ゆーすけせんせー、こわい、こわい……!」
「う、うわあああん!!」
 けんちゃんと、ともくんの血を押さえている俺の背中、腕、腰に、皆がしがみついてくる。
「あ、ああ。皆は泣かなくていいから」
 情けないことに、手だけじゃなくて、声まで震えていた。二人とも血は止まらない。もう、ティッシュがない。
 俺の頭の中は目の前のことでいっぱいで、大学で習った応急処置だの、いつも準備していた計画だの、そんなもんは全部すっ飛んで、ただただ、周りの子と一緒に怯えて、どうすることもできなくて、とてもじゃないけど教師なんて言えない……全くの役立たずだった。

「どうしたの!?」
 遠くから走ってくる梨子先生の姿に、俺は思わず大声で叫んでいた。
「り、梨子先生!! 梨子先生!!」
 しがみつく子どもたちも、俺の声に顔を上げ、一斉に梨子先生を見た。
「見せて! 何があったの!?」
 息を切らせて俺の傍にしゃがんだ梨子先生は、二人の子どもへ手を伸ばした。
「けんちゃんの耳から血が……、ともくんは、鼻血が止まらなくて」
「耳は噛み付きかな。裕介先生、ともくんの鼻、優しく押さえてあげて」
 けんちゃんと、ともくんは、救急箱からガーゼを取り出した梨子先生の方を向いて、また大きな声で泣き出した。
「りこせんせー!!」
「いこ、てんてー!!」
「うん、うん。大丈夫だよ。鼻血はすぐ止まるし、お耳も良くなるからね。大丈夫」
 穏やかな梨子先生の声と笑顔に、俺まで子どもたちと一緒に泣きそうだった。彼女は素早くガーゼをけんちゃんの耳へ当て、片方の手でともくんの鼻を押さえる。
「けんちゃん、ちょっと自分でこうして持っててくれる?」
 彼女はけんちゃんの手を取り、自分でガーゼを押さえさせ、俺を振り向いた。
「あ……」
 どう説明すればいいんだ。とにかく、何か、何か言わないと……。
「す、すみません! 俺、全然見てなくて、俺、俺……いっって!!」
 突然、俺の横っ腹を梨子先生が思い切りつねった。驚いて声も出せない俺に、彼女は小さな声で言った。
「落ち着いて。子どもに動揺が伝わるよ。先生が笑ってれば他の子どもたちも落ち着くから」
 今まで見たことのない彼女の厳しい表情と低い声に、頭を殴られたみたいに衝撃が走り、目が覚めた。
「救急車呼ぶほどじゃないから平気だよ。ね?」
「はい」
 そこでようやく、周りにいた子どもたちの顔を見ることができた。皆泣きべそかいたり、不安げな表情をしている。こんな顔にさせたのは、俺か。
「今、裕介先生に気持ちいいタオル持って来てもらおうね」
「……きもちいーの?」
 泣き止んだ二人へ彼女は笑顔で頷き、俺を見上げて冷静な声で言った。
「裕介先生、綺麗なタオルをお水で濡らしてきて。あと、3階のトイレに浅子先生がいるから呼んできて。早くね」
「は、はい!」
 子どもたちは彼女に任せ、駆け足でそこへ向かう。

 多分、今まで生きてきた中で一番急いだはずなのに、一番ゆっくりと、もどかしく感じた、どうしようもない時間だった。





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