泥濘−ぬかるみ−

(14)喉元




 教室へ戻ると、春田が言っていた様に立石が自分の席に座りこちらを見ていた。

「三島くん」
「ああ、さっきはありがとね。まだいたんだ」
 期待が見え隠れしているその声にわざと目を合わせず、自分の鞄に手をやる。
「待ってたの。一緒に帰らない?」

 春田が鞄を肩に掛け、マフラーを首に巻いた。立石との会話を聞いて諦めたのか、彼女は俺の後ろをそのまま通り過ぎようとする。
「春田と帰るから」
 俺の言葉に春田の歩みが止まった。
「じゃあ一緒でもいいでしょ? 三人で」
「いや、二人がいいんだ。悪いけど」
 顔を上げると、立石は口を結びプライドを傷つけられた目で俺を見ていた。
「……あ、そう。じゃあ三島くん、またね」
 女は機嫌が悪そうにそれだけ言って、後ろにいる春田を一瞥し、その場を去った。振り返ると彼女は何も言えずに固まっている。もう他に誰もいなくなった教室は途端に静まり返った。
「これでいいんだろ?」
「……」
 春田は返事もせず、目を伏せ鞄の持ち手を握り締めた。

 もう人も少ない住宅街の狭い歩道を歩く。春田は鞄をごそごそと探り、小さな袋を俺に差し出した。
「三島くん、これあげる」
「……チョコ?」
「うん。作ったの。いつも三島くんに勉強教えてもらってるし、そのお礼に」
「そう。ありがとう」
 彼女の手からそれを受け取り、自分の鞄へ入れた。それを見届けた春田が言葉を続ける。
「私……ごめんなさい」
「何が」
「それ渡したかったの。だから三島くんと一緒に帰りたかったんだけど、別に立石さんがいてもいいのに、あんなこと言ってごめんね」
「……」
「よくわかんないんだけど、立石さんが三島くんと帰りたいって言った途端、ここが変になったの」
「変?」
 振り返ると春田はマフラーを巻いた喉元を右手で押さえていた。
「ここに大きな石が乗っかったみたいで……ずっと重苦しくて、変」
 彼女は眉を寄せ苦しそうに溜息を吐いた。吐き出された息は、白い。

「……お前、わざと言ってんのかよ」
「え? 何が?」
 俺を見上げる春田の、余りにも無知で無自覚な胸の内と態度に、また怒りにも似た複雑な感情が起こり支配され始める。
「……」
「どうしたの? 三島くん」
「……マフラー外せよ」
「何で?」
「見てやるから。変なんだろ?」
「うん。でも外側じゃなくて、」
「いいから外せよ」
 春田の肩を強く掴み無理やり俺の方へと向かせ、マフラーを掴んだ。
「痛っ! 三島くん……何?」
「……」
 無言でマフラーを外し、少し怯えた彼女の喉元を見つめる。夕暮れの視界が悪くなってきた小路には、今誰もいない。
「どこ」
「……こ、ここ」
 胸元にある制服のリボンを緩め、ブラウスの襟元を人差し指で広げ白い喉元に顔を寄せ、そこに一瞬だけ舌先を乗せた。

「え……何? 何したの?」
「何も」
 彼女の襟元を締め、元通りにしマフラーを巻いた。
「じゃあな」
 彼女の左肩を少し押して離れる。バランスを崩しよろめいた春田は壁に背中を軽くついた。何の疑いも無く俺を見つめる彼女から、逃げ出すように背を向け歩き出す。
「三島くん、一緒に帰らないの?」
「一人で帰る」
「何で? 急にどうしたの?」
「……」
「ね、待って三島くん」
「来るなよ」
「……どうして?」
「今、お前の顔見たくないから」
 胸が痛み、どうしたって苦しい表情を隠せない今の自分を、絶対に見せたくはない。教えると言いながら、何も理解しようとはしない彼女を目の当たりにして、こんなにも傷つく自分が許せなかった。

 家に着き、自分の部屋にコーヒーを持ち込み、彼女にもらったチョコレートを口へ運ぶ。コーヒーと一緒にゆっくり溶かし、無理やり喉の奥へと流し込んだ。

 春田を思い出すと感じるやり場の無い寂しさも一緒に。



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