泥濘−ぬかるみ−

(15)踊り場




 春田に確かめたいことがある。
 わざわざそれだけの為に、今日は朝から付けたくもないゴツゴツとした腕時計を左手首にはめていた。

 三時限目の授業は、旧校舎の教室で行なわれた。別のクラスの実技が重なった為、普段あまり使われていない場所での授業だ。そこは旧校舎の中でも外れにあり、人もそれほど来ない。確認するには一番いい場所のように思えた。

 授業が終わり、週番の春田と俺は黒板を消していたせいで、最後に教室を出ることになる。春田を待っていた三橋も、急ぎ足で一緒に本校舎へ向かった。
 旧校舎の階段を下り、踊り場へ降り立つ春田の後ろから見えないように大きく左手を振り上げた。彼女を、仕留める為に。
「いたっ……!」
「……」
「い、たた」
 慌てて頭を押さえようとする春田の手首を掴む。
「触るなよ。俺の時計に絡まってる」
 彼女はその言葉に驚き、それ以上痛みを感じないよう注意深く顔を上げた。左手首に付けた腕時計。そこに春田の髪が絡まり取れない。
「え、どうしよう」
「あたし取ってあげるよ?」
 傍にいた三橋が手を伸ばす。すぐにそれを制する様に声を掛けた。
「大丈夫。俺取れるから」
「そう?」
「ごめん。先行ってて」
「え……」
 春田の動揺した声が俺の胸元へ届いた。
「これ取ってから、春田と一緒に教室行くから。もう次の授業始まるし。何か言われたら先生に言っといてよ」
 三橋は俺の笑顔に安心したのか頷いた。
「わかった。三島くん教科書持ってくよ。春田のも」
 傍に来た三橋は、二人分の教科書とノートを持ち歩き出す。
「じゃね、お先に」
「え、待っ……!」
 手を振り、背を向ける三橋に向かって、縋るように発した彼女の声を途中で遮った。右手で踊り場の壁に春田を押し付け、そのまま制服の肘を彼女の口へ強く当てる。
「!」
「取れるまで静かにしてろよ」
 俺の声に観念したのか、急に大人しくなった彼女から右腕を解放し、その身体を包み込むように壁へ手をついた。

 春田の喉元へ近付いた次の日から、彼女は俺を警戒しているようだった。その行為になのか、顔を見たくないと言ったことに対して傷ついたのか、理由ははっきりしない。ただ、話しかけてくる時も、隣を歩く時も少しのよそよそしさが加わり、以前よりも距離が出来ていたのは明らかだった。

 それを埋めたいからなのか、少しだけ強引な手段に出ていたのかもしれない。春田に気付かせたいという思いを正当化したい自分は、いつもより抑えが効かなくなっていた。

 休み時間の終わりを告げる本鈴が鳴った。古ぼけた染みが目立つ階段の踊り場には、もう誰も来る気配は無い。足下から床の冷たさが伝わってくる筈なのに、春田を前にした自分にそれは何の力も持たなかった。

 腕時計は彼女の髪に引っかかったままだ。わざとやったとは言え、予想外に取れにくい。
 このまま、永遠に外れそうにないと言ってやろうか。宣告された春田の表情を頭の中であれこれ想像し、目の前の彼女と比べ頬が緩んだ。

 柔らかく細い癖のある茶色い髪に一本ずつ触れる。なるべく優しく、逃げ出さないように慎重に時計から外していく。
 俺が触って痛いからなのか、嫌がっているのか、怖がっているのか、単に寒いだけなのかはわからない。小さく震える彼女の息は何も語ろうとしなかった。

「痛い?」
 ずっと黙り込んでいた俺の声を自分の頭上に聞き、春田の肩は大きく揺れた。
「だ、大丈夫」
「……そう」
 少しだけ沈黙の時間をやる。ここには二人しかいないという事実を、しっかりと彼女の中へ確認させる為に。何の物音もしないその場所で、お互いの呼吸だけが耳に伝わっていくのを感じさせる為に。
「じゃあ、これは?」
 絡まってはいない髪を一本、引っ張ってやった。
「い、たくない。……平気」
 何故か春田は俺に屈したくないとでもいうように、目を伏せ下唇を噛み締めている。その表情が、急激に自分の中にある醜悪な征服欲を刺激し、用意していたものよりも過剰な懲らしめを与えたくなった。
「じゃあ、」
 低く変わった俺の声に、春田がゆっくりと顔を上げる。
「これは……?」
 髪を弄んでいた右手を下ろし、彼女の冷たくなっている手を取り強く握り締め耳元で囁いた。

「葉山もする? こうやって……春田に」



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