泥濘−ぬかるみ−

(13)羨望




「あの……三島くん」
「安心して。立石さんのことじゃないから」
 立石の言葉を遮り、ふいと顔を前へ向け、再び廊下を歩き出した。

「あ、あ、そう」
 驚いたような失望したような、そして一瞬で自分を否定する声が後ろからついて来る。久しぶりに笑いを堪えるのが大変だ。
「立石さん男にモテるから、俺みたいなのに好かれても困るでしょ」
「……そんなこと、」
「俺の好きな子ってさ、立石さんみたいに美人じゃないし、頭も良くないし、気も利かないんだ」
「そうなの?」
 美人と言われて気を良くしたのか、俺のからかいは流したようだった。
「三島くんて、もっと違う感じの子が好きなのかと思ってた」
「趣味悪いんだよ、俺」
「……春田さんのこと、じゃないよね?」
 彼女の名を言われ、えもいわれぬ感情に包まれる。一瞬だけ動揺した表情を、前を向いているせいで見られてはいない。
「自分より美人でもなくて、頭も悪くて、空気読めないって思ってるんだ。……春田のこと」
「そ、そういうわけじゃ」
 俺が振り向き笑いかけると、慌てて顔を赤くし否定する。こういう女の傍には一時もいたくない。早く離れて春田が来るのを待ちたい。
「もういいよ」
「え?」
「それ、ここに乗せて」
「でも重いよ?」
「大丈夫」
 ノートにプリントを重ねる為に俺に近付く女に、小さな声で言った。
「……さっきのこと、内緒にしてくれる?」
「さっきのこと?」
「好きな子の話」
「……うん、わかった」
「ありがとう」
 頭を傾け作り笑いをした後、戸惑う立石を置き去りにして、一人廊下を歩き出す。

 職員室へノートとプリントを運び入れると、そこへ春田がやって来た。
「三島くん、これ」
「ああ」
 日誌の中に名前を書いて提出した後、そこから教室へ二人で戻る。
「春田」
 黒板の前で見た彼女の表情を思い出し、わざと話を持ちかけた。
「立石さんて、彼氏いるの?」
「え、さあ、知らないけど」
「……ふうん」
「どうしてそんなこと聞くの?」
 ほんの少し離れていただけで聞きたくて堪らなくなったその声を、耳の奥にしまい込みながら会話を続ける。
「別に、ちょっと知りたかったから」
「……誰が?」
「俺に決まってんだろ」
 彼女は一瞬俺の顔を見た後、俯いた。
「……立石さんて、頭いいよね」
「ああ。よく気が付くし、美人だし」
 傷つく春田の顔を逃がさない。
 ――もっとその表情が見たい。まだ、足りない。

「三島くん、立石さんと一緒に帰るの?」
 次の言葉を口にしようとした時、突然彼女が脈絡の無いことを言った。
「なんで」
「さっき職員室に行く時、すれ違った立石さんに言われたの。三島くん、一人なら一緒に帰ろうかなって」
「ああ、そう。いいんじゃない。もしまだいるなら」
「三島くん」
 すぐ傍で聞こえた春田の声色が変わった。少し大きめの白いカーディガンの袖口を両手でそれぞれ掴み、もじもじとしている。
「……一緒に、帰ろ」
 消え入りそうな彼女の声に胸が震え、一瞬だけ自分の歩みが止まった。
「……」
「私と一緒じゃ、駄目?」
「……俺と帰りたいんだ?」
 上ずってしまいそうな声を極力抑え、廊下の壁ぎりぎりに春田の小さな身体を追い詰める。そこから俯いている幼い顔を覗きこむと、彼女は目を泳がせた。
「う、ん」
「立石さんと俺と三人で?」
「……」
「言えよ」
 自分でも驚くほど冷たく豹変した俺の声に、沈黙していた春田の肩がビクリと震え、同時に小さく開いた唇を動かした。

「……三島くんと、二人がいい」

 素直に応える春田に心の中で何度も頷く。その頭に手を置き、ゆっくり撫でながら褒美でも与えてやりたい様な気分になり、彼女の隣で歪んだ妄想に陥った。

 それでいいんだよ。自分から纏わり付いて来たせいで、知らない内に湿った地面に足を取られ、そこから動けず逃げられないことを思い知る。

 気付いた時にはもう、後悔することも赦されないくらいに。



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