ぴちょん、と天井から滴が落ちた。
「お兄様が、監禁……?」
 されていたというのだろうか。鉄柵の向こう側で横たわる男爵のように。
「知りたいのか、糸子」
「……」
「僕がここで、どのように過ごしていたのか」
「知りたい、わ。お兄様のことなら何でも」
「後悔はしないね?」
「……ええ」
 兄の左手の小指や爪が損失していたこと、今は消えかかっている腕についていた注射の痕、以前よりも痩せた体は何故なのか。聞きたいことは山ほどある。だが、聞いてしまえば二度と後戻り出来なくなりそうで、糸子の心に戸惑いが生まれているのも確かだ。

 糸子の両肩に乗せられた薫の両手が離れた。
「堂島家の夕食で薬を盛られた僕は、体が痺れて倒れた。お前は睡眠薬だったのだろう。その後、意識を取り戻したとき、僕はそこにある牢の中にいた。片足に枷が嵌められていたが、両手は自由であり、動き回ることもできた」
 背後から兄の言葉が紡がれてゆく。まるで物語を読んでいるかのように、淡々と。
「最初のひと月半は、ここで食事をして、本を読むなどして過ごしていた。そこの甕に汲んである水で体を洗い、牢の壁に付いた扉の向こうで用を足した。臭いがたまらなく酷いが」
 牢の奥にある壁に小さな扉が付いていた。そこがご不浄になっているのだろう。
「僕をここへ閉じ込めたのは、ひとつの実験だった」
「実験?」
 糸子の後ろにいた薫が足を踏み出し、彼女の横を通って牢の前まで進んだ。
「糸子、お前は人魚さまの鱗の粉薬を飲まされていたと言ったね?」
「え、ええ」
「僕もここで同じ薬を飲まされていたんだ。一日三回、食後に」
「お兄様が!?」
 鉄柵の前で足を止めた薫が、驚く糸子を振り返る。
「人魚の肉は不老長寿の妙薬。堂島一家は、糸子が連れていかれたあの漁村から、事前に手に入れた人魚さまの鱗の粉薬を使って実験したんだ。人魚さまの鱗ならば、肉と同じような効果があるという仮説を立ててね。もし効果があれば、見つからない肉を探す苦労は無くなるだろう?」

 またひとつ、天井から滴が落ちた。ここは湿気が多く、生臭さの中にかびの臭いも混ざっているようだった。
「とにかく毎日飲めと言われた。三月後に花嫁修業へ行った糸子が一旦堂島家へ戻る。それまでに僕が抵抗したり、逃げようなどしようものなら、糸子の縁談は破談になる。それどころか戻ってきた糸子を僕と同じように、ここへ閉じ込めると」
「そんな……!」
「お前が良い条件のところへ嫁入りできるのであれば、それでいいと思った。何より、お前が傷つけられることが僕にとって一番の酷だ。僕は堂島男爵に従い、毎日薬を飲んだ。……飲み続けた」
 兄の体は糸子のように変化が起こらなかったのだろうか。糸子は疑問に思いながら、薫の話を聞き漏らさないように集中する。
「ひと月半経った頃、僕はお前のことが心配になり、連絡を取らせてくれないかと男爵に頼んだ。音沙汰が無いことに、どうにも不安があったからだ。それなら手紙を書けと言われ、男爵の前で僕の状況は隠した内容を書かされた」
「そのお手紙、いただいたわ。私もお返事を書いたの。……マサの監視の下で」
「ああ、読んだよ。お前が囚われていたなどとは露知らず、僕はあの手紙に心底安心した。糸子が無事でいる、花嫁修業先でよくしてもらっているのだと疑いもせずに」
 薫は言葉を続けながら鉄柵を開け、牢の中へ入った。
「しかしその直後、医師の戸田がこの牢へ現れて、僕は左腕に注射を打たれた」
 いつの間にか薫の右手には、鞘から抜かれた脇差がある。
「男爵と勝太郎に取り押さえらえながら、ね」
「ううっ!!」
 うずくまる男爵の背中を薫が蹴飛ばす。悶える男爵の床に溜まる水は、濁った血の色が混ざっているように見えた。
「お兄様……!」
「なんだい? 知りたいと言ったのは糸子だろう」
 冷たい声が地下室に響く。
「僕の体を押さえる男爵と勝太郎は興奮していた。何故なら、薬を飲み続けている僕の体は何の変化もなく、健康に異常をきたさなかったからだ」
「どういう、こと?」
「お母様は、人魚さまの粉薬を少しずつ飲まされて亡くなったんだ」
「え……」
「僕らが堂島家で人魚さまの肉だというものを食べて意識を失う前、八重子夫人と勝太郎の会話を聞いた。お母様は意外ともたなかった、と」
「私もそれを聞いたわ」
「お母様は、堂島家が粉薬の効果を確かめる為に、ここへ呼ばれたんだ。いや、お母様だけではなく僕らもだね。夏負けを始めたお母様に、ちょうどよいと言わんばかりに飲ませたのさ。結果お母様は薬を飲んで二週間ほどで亡くなってしまったが、僕は一か月飲み続けても死ななかった。そのことによって堂島一家は、その粉薬に不老長寿の効果を見出したと歓喜した」
「元から、ここにあったお薬なの?」
「お前も、あの漁村で飲まされたのだろう? 人魚伝説のある村に存在した人魚さまの鱗の粉薬を、堂島男爵が村を見付けた際に持ち帰ったんだ。堂島家の目的は人魚の肉だったが、それはどうにも見つからない。だから粉薬だけでも、と譲ってもらったんだろう。どれだけ金を積んだか知れないが」
 脇差で男爵の頬を撫でながら、薫は苦笑した。
「糸子の儀式を執り行うことが三月三晩後だと、堂島家の者は知っていた。だが、糸子があの薬を飲むことになるとまでは知らなかったんじゃないかな。糸子が薬を飲んでも生きているとわかったなら、すぐにでもここへ連れ戻して、僕と一緒に実験させただろうしね。堂島家は人魚さまの情報を得る為に漁村へ糸子を差し出し、その後の処分は村に任せた。糸子が凌辱されようが、その後死のうが、知ったことではなかったということさ」
 儀式が終われば薫と会える。三月の間マサの言葉を信じていたが、実際は愚かな夢を見せられていただけだったのだ。

「そういえばあの薬、どうやらお母様の直前にも、堂島家の女中で確かめていたらしいよ。その女中も死んでいる。死ななかった僕は……僕の体が再生するかどうかを試された。まず、勝太郎に爪を剥がされたんだ、こんなふうに」
 後ろ手に縛られている男爵の手首を掴み、持ち上げて薫が示す。糸子は恐る恐る一歩前に出て鉄柵に近寄り目を凝らしたが、爪が剥がれているかどうかまではよくわからなかった。
「だが、すぐには再生しなかった。爪はいずれ自然に再生する可能性がある。苛々した勝太郎は僕の両手だけではなく、両足の爪も剥がしていった。そして戸田に言った。僕に打つ注射の本数を、もっと増やせと」
「それは……何のお注射、なの」
「戸田が独自に開発した、再生を促進するものだと聞いたよ」
 糸子の背筋がぞわりとした。人魚さまの力を得れば、本当にそのようなことが可能なのだろうか。
 薫は男爵の手首を乱暴に放し、鼻で笑った。
「勝太郎という男は異常だね。僕を痛めつけることが楽しくてたまらないようだった。僕を折檻する時は、ほら、そこに椅子があるだろう? その椅子に僕を座らせて両手両足を括り付けるんだよ。そうして……全ての爪を剥がし終えた時、勝太郎は怒り始めた」
「何故……?」
「いくら剥がしても、すぐには再生しない爪を見て、鱗の粉薬による不老長寿の効果が不透明になったからさ。勿論爪だけじゃない。奴は僕に殴る蹴るをしたが、その傷もなかなか治らなかった。かといって鱗の粉薬で死なない僕は、中途半端な存在だと認識された」
「ひどいわ。そのようなこと、本当に……!」
 身勝手な勝太郎の……堂島家の無茶な言い分に怒りがこみ上げる。大切な兄が傷つけられた話は、まるで自分の身を斬られるかのごとく、つらく苦しいものであった。
「勝太郎に暴行を受け初めてから一週間後、久しぶりに堂島男爵がやってきた。その頃には僕は食事もろくに与えられず、衛生的にも酷い有様だった。男爵は床に倒れ込んでいる僕の傍に来て、もう少し役に立って見せたらどうだ、と僕を思い切り蹴飛ばした」
 糸子は自分の震える体を両手で抱き締め、咄嗟に耳を塞いでしまいたい衝動に耐えた。
「男爵は勝太郎と何やら会話し、出て行った。その直後、僕の左手の小指は勝太郎によって斬り落とされた」
「!!」
「次の日は左足の中指、その翌日は右足の薬指。時間が経つに連れて酷い痛みが全身を覆い、発熱した僕は眠れない日が三日ほど続いた。途中何度か気を失っていたようだ。そうして、いよいよ腕ごと斬り落とすか、と勝太郎に宣言された日。ここへ一度も訪れたことのなかった八重子夫人が勝太郎とともに現れた。うつらうつらしていた僕は瞼を閉じ、気を失った振りをしていた。痛みと空腹と寝不足で何もかも面倒だった。早く殺してくれとさえ、思っていた」
 諦めの混じった薫の声が、どうしようもなく糸子を苦しめる。自分が捉えられていた状況など兄に比べれば、お遊びのようなものだったのだ。
 屈辱に耐える薫を想像して、糸子の瞳から涙が溢れた。
「八重子夫人は僕の状態を自分の目で確かめに来たらしい。不老長寿への期待が裏切られる可能性が高いと踏んだ八重子夫人は、その場で僕の始末を勝太郎に任せた。どうでもいい、と思った時だった。部屋を出て行こうとした八重子夫人を勝太郎が止めたんだ。彼は夫人に何と言ったと思う?」
 薫の声が一変し、場の雰囲気が澱んで重くなる。
「――糸子を連れ戻して欲しい」
「……え?」
「勝太郎は八重子夫人に、糸子が村の男衆の慰み者になる儀式の後で、糸子をここに戻し、自分の好きなようにしたいと、そう言った。僕はそこでようやく自分の愚かさに気付いた。糸子は花嫁修業になど行っていない。僕と同じように別の場所で苦しんでいる。僕に宛てた手紙も無理やり書かされたものだったと……!」
 ぎりりと歯を食いしばったように見えた薫は、再度男爵を踏みつけた。
「八重子夫人は勝太郎に、考えておくと答えて出て行った。考えておく……? 冗談じゃない。僕はそのまま寝たふりをして機会を待った。そして……僕が気絶していると油断し、すぐ傍まで近づいた勝太郎の喉を、食いちぎってやった。初めてにしては大成功だったんじゃないかな。随分と奥深くまで咬みついたようでね、あの男、声を出すことすら出来ずに、あっという間に死んだよ」
「……」
「誰が、誰が勝太郎のような男に糸子をやるものか……! 途方もない怒りの感情が僕のずたずたになっていた体と心に力を与え、自分でも驚くほど簡単にあの男を殺ることができた」
 ぶるりと頭を振った薫は、大きく息を吐いて落ち着きを取り戻そうとしていた。
「日に一度、重湯のような食事を運びに来ていた大野が、倒れている勝太郎を見付けた。勝太郎を殺してもどうにもならないのはわかっていたが、僕はその場で立ち尽くす大野に懇願した。僕は処分されても構わないが、どうにか糸子を助けてやってくれないかと。……ね、大野さん」
 男爵へ向けていた視線を上げ、糸子のほうへ振り返った薫が笑った。

 驚いた糸子が後ろを見ると、いつの間にか大野が佇んでいた。この状況の中で、相変わらずの暗い面持を変えずに、ただ黙って。
「彼もまた、堂島家の犠牲者だと前に話しただろう?」
「……ええ」
「彼の娘さんは、人魚さまの肉探しをしていた堂島家の犠牲となり、自害したんだ。人魚伝説に関わっているのではないかと疑われた娘は他にも何人かいたらしい。お母様のように、ここへ連れて来られることは何とか逃れたらしいけど。そうだね? 大野」
「……さように、ございます」
 ようやくひらいた口が低い声を発した。
「彼は堂島家へ復讐するために仕事を捨て、身を隠し、名前を変え……十年以上経ってからこの家に執事として入った。堂島家で忠実に、従順に働き年月を重ね、さあ男爵を亡き者にしようという段階で、僕らが堂島家に入ってしまい、彼の計画は中断された」
 糸子が向ける視線から、大野が顔を逸らす。
「勝太郎の遺体を見ていた大野はね、僕の顔と勝太郎を何度も見比べた後、嬉しそうに、本当に嬉しそうに僕へ条件を出した。さあ、あの時のように言ってごらんよ、大野」
 再び薫を振り向くと、彼は大きく目を見開き、貼りついた笑顔で大野を見ていた。
「……糸子様の、御身の安全と引き換えに、堂島男爵を亡き者にしていただきたい。そう申し上げました」
「少し違わないかい?」
「堂島一家全員を、亡き者に、と」
「ふふ、ははは……っ! 聞いたかい糸子? 僕もそのときは彼が何を言っているのかわからなかったが、その場で彼の身の上を聞いて納得した。とにかく糸子を助けられるなら何でもすると、僕は大野と約束を交わした。大野はね、実にたくさんの情報を持っていたんだ。堂島家と漁村の関係や、糸子の所在、主治医の戸田と八重子夫人が不義の関係であること等々をね。僕はまず、戸田と夫人の不義から揺さぶることにした」
 自分たちを捕らえる手伝いをした大野が、自分たちを助けようとしている。矛盾する彼の行動は、全て堂島男爵への復讐の為であった。
 続く話は、知ろうとした糸子に後悔する隙など与える間もなく、目まぐるしく差し出されてゆく。
「ほら、僕って人の筆跡を真似るのが上手いだろう? 勝太郎が戸田と八重子夫人の不義を知り絶望しただとか、人魚の肉などこの世にはないのだとか、夫人を呪いながら死ぬ等と書き綴った遺書を作り、勝太郎を自殺に装わせた。勝太郎を可愛がっていた八重子夫人の嘆きは相当なものだったよ。僕が笑いを堪えるのが大変なくらいにね」
 楽しげな様子の薫が、糸子の瞳に悲しく映った。
「上手い具合に堂島男爵が出かけていてね。夜のうちに勝太郎を部屋へ移動させ、手にはナイフを持たせて自分で喉を掻っ切って果てたことにしておいた」
「……他の使用人に、気付かれなかったの?」
「堂島家には大野の他に女中が二人、給仕が一人、庭師が一人だけだ。いずれも年寄りばかりで、皆寝るのが早い。勝太郎を殺したのは夜だった。使用人が寝静まっている内に勝太郎を奴の部屋へ移動させた。僕はその時、自分の足で歩くのがやっとで、大野が勝太郎を運んでくれたんだよ。彼は見た目にそぐわず随分と力があるんだ。糸子のことも楽々と運んだろう?」
 堂島家の食堂で倒れた糸子を、いとも簡単に抱き上げたのは大野だった。
「不審な物音で目の覚めた大野が遺体を発見した、ということにして眠っている夫人を起こし、勝太郎の部屋へ連れて行った。勝太郎の部屋のカーテンの陰に隠れていた僕は、遺書と遺体を見付けて発狂寸前の八重子夫人に後ろからそっと近付いたんだ。そうしてね、西洋の物語に出てくる悪魔のように囁いてやったんだよ」
「……どの、ように?」
 わかっているのに尋ねてしまったのは、尋ねなければすぐにでも薫が壊れてしまいそうに思えたからだ。
「堂島男爵と勝太郎殿に申し訳ないと思うのなら、これを使って楽になりなさいと。僕の声に動揺するどころか、錯乱していた夫人はほっとしたかのように静かに頷いた」
「これ、って……?」
 糸子の蚊の鳴くような声を聴き、薫がくすくすと笑い始めた。
「すごいんだよ、堂島家は。あちこちから買い集めたらしい太刀やら脇差、短刀、おまけに銃まで揃っていたんだ。せっかくだから男爵の趣味を彼の妻の最期に使わせてもらった。……あの女、なかなか引き金を引こうとしないもんだから、僕が仕方なく手伝ってやったよ」
 笑顔から一変した薫の舌打ちが響く。
「翌朝には使用人たちに暇を与え、それぞれの家へ戻らせた。男爵がいない間に起きた堂島家の醜聞を、外へ漏らさないようにとの大野の素晴らしい判断だ。それ故、使用人たちはこの事件を知らない」

 ああ、と黒い海へ落ちて行った老婆の声が、糸子の頭の中に甦る。
 躊躇いなくマサを海へ投げ捨てた薫の無常さは、あの時既に勝太郎と八重子夫人を自分の手で亡き者にしていたからなのだろう。
 彼は憎い者を殺めることに――慣れてしまっていたのだ。
「大野が戸田を呼び出し、堂島家の惨状を見せた。僕はまだ地下にいることにして、戸田の様子を物陰から見ていた。油断していた戸田を大野と一緒に捕らえて、全てを吐かせたんだ」
「彼らは……何故そこまでして、人魚さまの肉を欲しかったの? 死にたくはなかったから?」
「初めは僕もそう思っていた。だが、そうではなかったらしい。堂島家は汚いやり方で金だけは蓄えてきたようだが、所詮は下位華族だ。名声を得る為に人魚さまの肉を探し続けていたんだ。しかし人魚さま探しのせいで、親戚一同からも煙たがられ、今では誰も近寄って来ない。戸田は元々優秀な医師だったようだが、違法なことばかりして、あの若さで界隈から追放された人物だ。堂島男爵と手を組み、不老長寿について研究していた」
「ここのお隣のお部屋に……いろいろ置いてあったのは、もしかして」
「ああ、そうだね。それらも戸田が作っていたものだよ。あの男もまた、堂島家と同じように狂っている」
 糸子へ気さくに声を掛けてきた医師の笑顔もまた、嘘であった……
「人魚伝説のある漁村や、そこから得たお母様の情報。マサと僕らの祖父殿との関わり。糸子があの村で贄となる日が迫っていること。大野と戸田に聞いて大体の事情は掴めた。その後、僕らは戸田を八重子夫人と同じように処分して、二人一緒に海へ落として心中に見せかけた。勿論、勝太郎の遺書同様、心中の理由も僕が夫人の筆跡を真似て遺書にずらずらと書いてやったよ」
 薫に足蹴にされている男爵が、唸りながら起きようとしたが、それは叶わない。
「翌朝、堂島男爵が帰ってきた。彼を出迎えた大野は僕と一緒に、こことは別の牢へ男爵を閉じ込めた。堂島家の庭の隅に、もう一つ地下があるんだ。そこは昔、ここのご先祖様が作ったもので、かなり古く、今にも崩れ落ちそうな土壁で出来た狭い牢だった。音は一切外へ漏れ聞こえない。警察を呼ぶ為に男爵を一旦そこへ放り込んだんだ」
 男爵は芋虫のように体を伸縮させ、自分を踏みつける兄の靴から逃れようとしている。
「僕は急いで男爵の遺書を作成した。このような醜態を世間に晒すことは恥であり、心身衰退の為どこかで果てたいというような文書を、したためた。署名だけは無理やりさせたけどね」
 呼吸を整えた兄の吐く息は白い。夜の深まった証拠であろう。
「警察が堂島家に来る直前、僕は再びこの牢へ自ら入り、妾の子として謂れのない折檻を受ける為に監禁されていた者を演じた。閉じ込められていた僕は、堂島一家が死んだことなど何も知らない。僕を監禁することを堂島男爵に強要されていたとして、大野は罪に至らなかった。腐っても男爵家様だ。堂島家が今後華族としてどういう処分を受けることになるかは知らないが、僕自身が話し合いで済ませたい、公にしないでくれと一芝居打ったのも功を評したんだろう。二日後、夫人と戸田の遺体が海から上がり、勝太郎とともに葬儀を行うことにした。男爵の意思を尊重して、彼の行方はそれ以上追及されず、葬儀もひっそりと行われた」
「私は……」
「糸子はどこかの花街へ売られ、行方不明であるとしておいた。糸子は僕の手で……連れ帰りたかった。しかし大野は愚図で慎重だからね。堂島家の葬儀が済むまでは、糸子の居場所をどうしても教えなかった。それでお前を助けに行くのが、ぎりぎりになってしまったんだよ。許しておくれ、糸子」
 自分へ向けられる声だけが穏やかで、この上なく優しいことに糸子は気付く。
「葬儀が終わり、男爵をこの牢へ移した。そこでようやく大野が糸子の居場所を教えてくれたんだ。村までの道のり、裏山や、儀式の場所、糸子が閉じ込められていた勇夫の家をね。その時、儀式の日取りと時間が翌日と迫っていて怒りを覚えたよ。もしもあと一歩、糸子を助けるのが遅れていたら……僕は漁村の男衆を一人残らず殺していただろうな。もちろん、大野、お前もだ」
「どうして……」
「どうして? 僕には、お前しかいない。お前にも僕しかいない。そうだろう、糸子?」
 転がっている男爵を見下ろした薫は、両手で脇差を振り上げた。
「糸子さえ幸せなら、僕はそれで良かったんだ。それをこの男が……! 僕らの幸せを全て潰したんだ……! これは当然の報いだろう!」
 人が変わったように憎しみの声を上げた薫が脇差を振り下ろした。鈍く光る刃先が男爵の背中を掠める。
「お兄様!」
 糸子の叫び声に動きを止めた薫は、荒くなった呼吸を整えながら言った。
「……世の中にはね、話の通じない相手という者がいるんだよ。だから僕は……男爵を僕と同じ目に遭わせるために、すぐには殺さずここへ閉じ込めた。そう、まだ殺しはしないさ」
 男爵は痛みに悶えながら、溜まる水の中を這おうと動いている。水たまりに見えたのは血だまりか。爪を剥がされた男爵もまた、兄によって既に指を斬り落とされているのか……
「まさか糸子までもが、マサにその薬を飲まされていたとは知らなかった。お母様のように死なずにいてくれたことは有り難いが、石女などという体にされて……。だが、僕も見た目にはわからないだけで子を生せる種ではなくなったのかもしれない」
 ――どうして僕と糸子は、生きているのだろう。
 ふいに薫が風呂場で呟いた言葉が脳裏を横切る。
「糸子が僕に教えてくれた話によると、マサはあの薬が命を取るほど危険なものだとは思っていなかったのだろうな。三月三晩飲み続ければ子を孕めなくなるという伝説に従ったまでだ」
「ええ。私に飲ませる為に、マサは自分でほんの少し舐めていたわ」
「それくらいの量ならば影響はないのかもしれない。時間を掛けて少しずつ飲まされると体に何らかの変化が現れるのだろう。時には死んでしまうほどの」
「死んでしまうことを知っていて、堂島家はお兄様にお薬を飲ませたの?」
「お母さまに女中にと、女性ばかりを標的にしていたからね。男でも試したかったんじゃないかと思うよ、こいつらは」
「うぐ……っ!」
 傷の付いた男爵の背中を、薫の靴が再び踏みしめる。幾度もそうした後、彼は糸子の顔を見た。

「僕が、怖いだろう、糸子。糸子は怖がりだものな」
 切なく笑った薫の表情は、いつもの兄に戻っていた。
「これで話は終わりだよ。もう部屋へ行っておいで。そうして、お前は明日にでも富張の家へ帰るんだ」
「……お兄様は?」
「僕はここに残る」
「残って、どうされるの……?」
「堂島男爵に、しなければならないことがある」
 兄と離れて一人で富張の家へ帰る。苦しさに押し潰されそうだった糸子の心は、突然霞が晴れたかのように、はっきりとした。
「……嫌よ」
 このような地獄の館に兄を残して出て行くなど、誰が出来ようか。
 美しく聡明で輝かしい未来が待っていたであろう薫が、このような悪となりきり復讐の権化と化したのは、妹を……糸子を守る為に他ならない。そのような兄を誰も責めることなど出来ない。いや、責める者は――赦さない。
 糸子の中で何かが芽生えた。
「駄目よ、お兄様。ここは……堂島家は、お兄様によくない」
 震えはおさまり、自然と足を前へ踏み出していた。先ほどまでの果てのない恐怖と悲しみは、糸子の心の奥深くへ沈殿されたのか、自分でも驚くほど落ち着いている。
「良くない?」
「ここへ来る前にお兄様、おっしゃったでしょう?」
「何をだ」
「あまりいい予感がしない、って」
 空いた鉄柵の扉をくぐり、牢の中へ入る。室内履きが、びちゃりと湿った。息を深く吸い込んで兄の後ろへ回り込み、牢の中から大野へ顔を向ける。
「大野さん、あなたはずっと男爵様に復讐したかったのでしょう? 私たちがここに来る前より、ずっとずっと何年も前から」
「ええ」
「それならば、この後の男爵様のことは、あなたにお任せします。今後一切、私たちに関わらないで」
「糸子様……!」
 大野が初めて動揺した表情を見せた。
「私はお兄様と一緒よ。永遠に」
 目の前にある着物の背中にそっと頬を押し当てる。高貴な香りと血の匂いが混じった彼の体温が、糸子の瞳を湿らせた。
「糸子」
「ここを出て……本当に、死んでしまいましょうか」
 後ろから両手で兄を抱き締める。
 幼い頃から憧れていた初恋の君。兄妹以上の情を持って見つめていた背中。いつだって彼の温もりに守られていた。大切な、愛しい人。
「お兄様と一緒なら死んでもよい、と言ったわ」
「……」
「だから糸子を、お兄様のいいようにして。一緒に富張の家へ帰りましょう。死を迎えるそのときまで……お願い」

 薫の手元から離れた脇差が、冷たい石造りの床へ落ちた。