着物にたすき掛けをした紐を、締め直す。
「お天道様が上まで来ると、少しは暖かいわ」
 絞った雑巾で縁側を拭きながら、糸子は独りごちた。すっかり葉の落ちた庭の桜の樹に、柔らかな日が降り注いでいる。空はどこまでも青い冬晴れで、高い所を鳥が気持ちよさそうに飛んでいた。
「疲れないかい、糸子」
 声に振り向くと、同じくたすき掛けをした薫が汚れた雑巾を手に、こちらへやってきた。
「お兄様、お疲れ様です。私、女学校で雑巾掛けも習ったのよ。だから平気だわ」
「そうか。頼もしいね」
 明るく話しかけてみても、薫は浮かない表情でいる。

 富張宗一郎……糸子の父親が遺したこの家に、兄と二人で戻ったのが、昨日の午後であった。
 地下牢で薫の告白を聞いた翌朝、糸子は早々に荷造りを始め、薫と堂島家を出る決心をした。昼過ぎには支度を終えた二人を、何か言いたげな大野が見送ってくれた。
 富張の家は、糸子たちの衣類や書籍は処分されていたが、家具や布団はそのままになっていた。堂島家の誰かが富張の家に入って人魚さまについて調べたようだが、それほど荒らされた形跡はない。昨夜は荷物を片付けて、湿気の残る布団に寝るだけで終わった。
 そうして今日は朝から掃除と洗濯と布団干し、置いてあった食器などを洗って家を整えることに終始した。

 体を動かしていると、時の経つのは早い。
 気付けば夕暮れが迫っていた。近所で買った豆腐と青菜を煮付け、米を炊き、大根とお揚げの味噌汁を作った。ささやかな夕飯を食べ、風呂を沸かして入り、昼間働いた分の汚れを落とした。
 七輪で暖めた兄の部屋に布団を敷いて、以前のように二人で横になる。床に置いた小さなランプの灯りに照らされる天井を、兄と妹で見上げた。
「こうしてお兄様と、このお部屋で眠るのは懐かしいわ。おかしいわね、つい半年ほど前のことなのに」
「そうだな」
「もっと、家の中の物が色々無くなっていると思ったの」
「堂島家は、この家を隅々まで調べてから売る予定だったんだろう」
 糸子はかつて兄と一緒に見た、人魚さまの本を思い浮かべた。
「ねえ、お兄様。人魚さまの肉の在処が書いてあった紙は、男爵様には見つからなかったの?」
「ああ。堂島家で僕の部屋のベッドの……敷布団の底に隠したんだ。継ぎ目を丁寧に剥いで内側に紙を入れて、元通りにしておいた。人魚さまの本は没収されたようだが、あの紙は一度も取り上げられることはなく、無事だったよ」
 薫の腕の中で身を起こした糸子は、うつ伏せの姿勢で上半身だけを起こした。
「お布団、だいぶかび臭さが取れたみたい」
「昨夜は酷い有り様だったものな」
 下ろしている糸子の洗い髪を、仰向けになった薫が優しく撫でた。心地よさに目を細める糸子へ、穏やかな声で薫が言った。
「いずれ、あの漁村のことも明らかにされる。ここではないどこかへ逃げても、僕はどのみち捕まるだろうな。そうすれば糸子は……」
 身寄りのない糸子を気遣う薫の心が、彼の指先から伝わってきた。
「私は、この体ですもの。丁度よいわ」
「丁度いい?」
「元々誰にも嫁ぎたくなどありませんでした。もし嫁ぐことになったとしても、石女と知れればすぐに追い出されてしまうでしょう?」
「それはわからないよ。お前は器量良しで、尚且つ気立ても良いのだから」
「いいえ。何の後ろ盾もない女が嫁ぐことだけでも難しいのに、子が産めない私など必要とされないのはわかっています。だったらいっそのこと、お兄様と一緒に」
 富張の家でも、町から外れた川でも、毒を飲もうが、斬りつけ合おうが……二人一緒に最期を迎えられるのならば、構わないと糸子は思っていた。
「ねえ、お兄様。年明け前にいたしましょうよ」
「ふっ」
 糸子の話しかけに、薫が噴き出した。驚いた糸子は身を乗り出して、兄に問う。
「な、なあに? どうなさったの?」
「はははっ、敵わないな糸子には」
 ようやく薫が笑ったことに、糸子の心は明るくなる。不謹慎かもしれないが嬉しいのだ。
「糸子が物見遊山にでも行きそうな口調だからさ、可笑しくて。心中しようとしているのじゃないのかい、僕らは」
「……ごめんなさい。おふざけしたわけではないの」
「わかってるよ。優しいね、糸子は」
 薫は糸子を引き寄せ、自分の腕の中へ納めた。
「その点僕は、優しくはない」
「そんなことはないわ……!」
「お前はまだ、僕のことをよくわかっていないな」
「どういうこと?」
 冬の夜はしんとして、部屋にも冷たい空気が入り込んでいる。湯たんぽを入れた布団の中で、互いの温もりを抱き締め合い暖を取るしかないのだが、糸子にはこれが、この上ない幸福のように感じられた。
「お前を……どこぞの誰かにやるくらいなら、無理矢理にでも自分のものにして、お前を殺して、自分も死んでしまおうと思いつめていたこともある」
 静かな声が、糸子の胸をきつく締め付ける。
「それは、いつのお話?」
 兄の胸に顔を押し付け、甘えるように尋ねた。
「さあ……大學に入る前だろうか。いや、もう少し前だな。堂島家の裏にある、海に通じた道を覚えているかい?」
「ええ」
「そこで僕と一緒に心中してもよいなどと、お前が言った時は肝が冷える思いだったよ。僕の胸の内をお前に見透かされたのかと思ってね」
 先ほどから糸子の胸は高鳴り続けていた。
 次々に渡される思いもよらぬ言葉を丁寧に噛み砕き、幸福感に酔い痴れる。彼の声の響きを、体の隅々まで浸透させて。
「未だ、糸子の口から心中しようなどと言葉を聞く度に胸が震えるんだ。この僕の喜びを、どう伝えれば、お前にわかってもらえるんだろうか」
「あ」
 薫は、指の腹で糸子の顎を上に向かせた。
「ん……」
 軽い接吻は、すぐさま深いものへと変わっていった。
 再会して何度となく交わされた接吻は、糸子を飽きさせるどころか、官能を求めてやまぬ欲を次から次へと溢れさせてゆく。
 唇を離した兄へ、幾度となく糸子の胸にちくりと刺さる、小さな疑問を差し出してみる。
「お兄様、は、糸子の他にもこういうことを、されていた女性がいたの……?」
「急にどうしたんだい、糸子」
「ずっと……気になっていたの」
「生意気に嫉妬しているのか。可愛いね」
 くすっと笑って体勢を変えた兄は、糸子の体の上へ、のしかかった。
「高等学校の寮生活で、悪い先輩たちがいたと言ったろう?」
「ええ」
「そこでお遊びの場へ誘われて、行ったことがある」
「女性のいるところへ?」
「そうだ」
 糸子の心が酷く痛み、鉛を飲んだかのように重たく沈んだ。薫の年頃であれば当然のことであろうが、知らない女性と薫が関係していたことを本人から聞けば、どうしたって落ち込んでしまう。たとえ自分から訊ねたとしても。
「しかしね糸子。僕はそこで、とんでもない過ちを犯したんだ」
「……」
「拗ねないで、最後まで聞いておくれ」
 薫は糸子の浴衣の合わせをずらし、風呂上がりの白い肌を唇で堪能した。接吻を落としながら、薫が話を続ける。
「互いに着物を着たままで布団の上に転がったんだが、僕は女に向かって、お前の名を呼び続けてしまったんだ」
「私の名を?」
 そうだよ、と囁いた薫は糸子の首筋へ吸い付いた。
「あ、あ」
「つい興奮して、その女と糸子を重ねてしまった。しかし、そういう客はたまにいるようで、女に聞かれたんだ。その人は、あなたの思い人なのね、と」
「何て、お答え、したの……?」
 ぬるりと首筋を這う薫の舌に翻弄されつつも、問いかける。
「そうだと答えた。思いの叶わぬ相手だと付け加えると、幼なじみか人妻か、と質問された。僕は、妹だと答えた」
 薫の思い人。その思いの叶わぬ相手が私――
 糸子が知らなかった兄の思いと、糸子自身が抱いていた切ない恋心を重ねると、湧き上がる喜びに涙が浮かんだ。
「すると、女は一瞬黙った後、思い直したように連れ子同士なのね、そういうこともあるわね、と同情したように言ったもんだから、何故だか僕は腹が立って、いや、本当の兄と妹だよ。父親は違うが、母は同じだと答えた」
 糸子は薫の背中に両手を回し、強く抱き締めた。応えるように、薫も火照り始めた糸子の体を抱く。
「みるみる女の顔が、おぞましいという表情に変わったんで、僕はもういいと言った」
 すぐ傍にある薫の瞳に翳りが生まれる。
 世間では血の繋がった兄と妹が思い合うなど、おぞましいものに他ならないのだ。わかっていたつもりでも、他人から突きつけられることによって、糸子は苦しみの業火が増すような心持になった。
「何もしないのなら金を貰えないと女が言うので、では、僕の自慰を見てくれと頼んだ」
「……」
 自分を慰めるというのは、糸子が漁村の蔵の中で過ごしたように、指で股座を探ることだろうか。薫の場合は、あの猛々しい幹を自分で宥めること、なのだろう。
「糸子糸子と、お前の名を呼んで、お前を思い浮かべながら手を動かす僕を、その女は心底哀れんでいたよ」
 自嘲気味に笑った薫が、大きなため息を落とした。
「僕が糸子と繋がった時、余裕も無く、自分勝手で下手くそだったろう? それは僕もお前と同様の立場で、まぐわうのは初めてだったからさ。……幻滅させてすまないが」
「幻滅なんてしないわ。お兄様が私と同じだったなんて、糸子は嬉しい」
「情けないけれどね。隠したって仕方がない」
「私は……私は本当に嬉しいわ。お兄様が知らない女性と、もしかしたらと思うだけで胸が張り裂けそうだったもの。だから、私が初めてのお相手だなんて、とても幸せだわ」
「男としてそれは、喜んでいいものかどうか迷うね」
「迷っちゃいや。お兄様は私だけを見ていてくださらないと、いや」
「本音を言ったな?」
「きゃ」
 ぐいと抱き起された糸子は、向き合った薫の膝の上に乗せられた。両頬を彼の手に包まれ、額をこつんと押し付けられる。
「可愛い可愛い糸子。僕は、お前だけのものだよ」
「私も、お兄様だけのものだわ」
「偽りないね?」
「偽りありませ、ん……っ!」
 言い終わらぬ内に口を吸われ、乱れた浴衣を押さえていた帯を解かれた。

 浴衣を脱がされた熱い肌は、夜の寒さに晒され粟立った。薫も浴衣の前を寛がせ、糸子の柔肌に自分の肌を押し付ける。くっきりと浮かんだ兄の鎖骨へ、糸子は傷を拭うかように優しく口付けた。
「私、漁村で人魚さまと呼ばれていたの。人魚さまの肉を食べたものは、人魚さまと呼ばれて、贄になるのですって」
「……」
「海の下にいた人魚さまは、埋められた人魚さまを、迎えに来ていたのかしら……」
 マサを海へ投げ捨てたあと、暗い海の中から現れた末広のような尾ひれを思い出す。
「その昔、贄となった女人は、その後どうなったのか誰も知らないのですって。その人も私と同じように、誰かが助けに来て村を出ていればと、考えることがあるの。そうなっていて欲しいという、私の願望なのだけれど」
「伝説に過ぎないかもしれないよ」
「ええ、そうね。そのように犠牲になった女性など、どこにもいないと思いたい」
 座ったままの姿勢で体をまさぐり合い、我慢しきれなくなった二人は視線を合わせて、合図した。
 薫は糸子の腰を持ち上げ、彼女のやるせなく滴る陰門へ屹立した自身をあてがう。少々の恥じらいを持ってそろそろを腰を下ろしてゆく糸子へ、薫は容赦なく下から突き入れた。
「あ、ああっ!」
「糸、子……!」
「あ、あ、あ、お兄、さ、まぁ……!」
 互いの傷を庇い合うかのごとく、忘れる為に夢中で腰を振り続ける。水音と、荒い息と、滲む汗にまみれ、淫らな互いの姿に興奮した二人へ、快感の頂点が訪れたのは、いささか性急であった。
 糸子の内へ薫が精を放つと、彼女の眼前で海の泡が弾け、体は真白い波間にたゆたう。敷き布団へ仰向けに倒れた薫に腕を引かれた糸子は、彼の体にうつ伏せとなった。
 気怠さとともに繋がりを解いた場所から、どろりと体液が流れた。愛し合った証を内腿に感じた糸子は、薫の胸に頬を押し付けながら呼吸を整える。
 しばらくそうしてから、糸子は呟いた。
「本物の、人魚さまは……人間のように、恋をしたことがあるのかしら」
 抱かれながら、疑問に思ったことだった。
「……さあ。人魚さまに雄がいると、聞いたことは無いし、自分を食する人間を好きになるとも、思えないが……しかし」
 何度か大きく息を吐いた兄は手を伸ばして、掛け布団を掛けてくれた。兄の上から降りた糸子は、彼の横に寝て、腕枕に頭を乗せた。
「人魚さまを捕らえても、利用されないようにと人魚さまを海に放した優しい人間になら、もしかすると好意を寄せたかもしれないね。だが男は、人魚さまの思いには応えられないだろうなあ」
「どうして? 人魚さまが恐ろしげな様相だから?」
「いや、そうじゃない。仮に人間もその人魚さまを好いたとして、周りから異端の目で見られるだろう? そのうち人魚さまの肉を寄越せだとか、難癖つけられて村を追放されることになるかもしれない。人魚さまを大切に思えばこそ、男は人魚さまを捨てて、一人で出て行くだろうしね」
「私が人魚さまだったら、恋しい人を追いかけて、どこまでもついてゆくわ。その人を背に乗せて、海を渡ったってよいもの」
「随分と健気で頼もしい人魚さまだな」
 薫が楽しげに笑う。
「本当よ。お兄様の為になら私、何だってするもの」
「ありがとう糸子。僕も、同じ思いだよ」
 薫の手に優しく背中を撫でられる。糸子は瞼を閉じて心に誓った。
 兄の為ならば、と。


+


 師走も中旬を過ぎた頃。昼飯の後に番茶を啜る薫が、糸子を誘った。
「祭りにでも行こうか」
「お祭りに?」
 庭の木々はすっかり葉を落とし、真冬の様相に変わっていた。ここのところ晴れの日が続いており、洗濯物がよく乾く。
「ああ。歳の市なんかどうだい。糸子は羽子板を見るのが好きだったろう」
「行きたいわ。賑やかでしょうね」
 早速支度をして鉄道へ乗り、それほど遠くはない市へ向かった。

 年の瀬に向けて行われる歳の市は、正月飾りや海産物、正月料理の材料が売られる店が、大きな寺の境内に立ち並んだ。その中でもひと際目立つのが、羽子板を売る店が集まる一角だ。彩り鮮やかな羽子板を店いっぱいに飾り、たくさんの客を寄せ集めている。
「綺麗……」
 羽子板には翌年の干支や、歌舞伎役者、優美な女の姿などが描かれている。振り向いた薫が、糸子に問うた。
「そういえば、富張のお父様がお前に羽子板を買ったんじゃないか? ずいぶんと幼い頃だった気がするが」
「壊してしまったの」
 俯いた糸子の顔を、薫が覗き込んだ。
「何故?」
「お父様とお母様に内緒で、女中相手に振り回していたら、お庭の木にぶつけてしまって……」
「ははっ! お前はお転婆だったものなあ。でも、お父様はお叱りには、ならなかったろう?」
「ええ。元気の良いのはいいことだと言って。でも、お嫁に行きたいのなら、もう少々大人しくなさいと」
「……そうか」
 無邪気に遊んでいた幼い頃の思い出が、胸に甘酸っぱく甦る。
「甘酒でも飲もうか」
 苦笑した薫は、首元の襟巻を直した。あの頃とは何もかも違ってしまった兄と妹。抗えない罪を背負ったのは薫だけではない。糸子も切なく笑い、薫の後について、人混みの中を甘酒屋へ向かった。

 白い湯呑に注いでもらった甘酒を口に入れる。独特の香りが鼻を抜け、ちょうどよい温かさが喉を通り過ぎた。
「美味しい」
「……」
「お兄様?」
 黙り込む兄を見上げる。難しい顔をした薫は、小さく唇をひらいた。
「どうして僕は、思い出してしまったんだろう」
「え?」
「上品な菓子のように甘くて……僕と糸子はそれを飲み干した。何度も」
 それは何、と聞こうとした時、後ろから声を掛けられた。
「これは富張さんとこの。こんにちは」
「あ、こんにちは。偶然ですね」
「せっかくなのでここまで来たんですよ。女房と子供は、あっちで駄菓子を買ってましてね」
「そうなんですか」
 挨拶を交わす程度の、近所に住む男だ。男は薫の後ろで俯いた糸子へ視線をやった。
「そちらは妹さん? でしたよね」
「こんにちは」
 静かにお辞儀をするが、男は顎に手をやったままで、糸子をじろじろと不躾に眺めている。
「何か?」
 気付いた薫が男に訊ねた。
「いやあ、その……」
「?」
「まるで夫婦のような過ごし方でもしてるんじゃないかという声が夜な夜な聞こえる、なんて女房が噂で聞いたと言うもんでね」
 にやにやと笑った男が、薫と糸子を交互に見た。言葉を受けた糸子の顔が、かっと熱くなる。
「何かの聞き間違いでしょう。誰がそんなことを?」
「いや噂ですよ、噂」
「失礼します」
 糸子を連れて、薫はその場を足早に去った。


 翌朝、何かの気配がして糸子は目が覚めた。
 昨日は久しぶりに歩き回ったせいで、二人とも早目に床について眠ってしまった。まだ早朝なのであろう、辺りは薄暗く、鳥の鳴き声も聞こえない。
 雪でも降っているのかと思い、障子を明けて広縁に出、雨戸を開けた瞬間、驚くべき光景に糸子の足が震えた。
「お兄様、見て……!」
 明け放したままで部屋を振り向き、兄の傍へ駆け寄る。目を擦った薫が上半身を起こして、庭を見やった。
「これは」
 師走の真冬に、庭の桜が咲いているのだ。それも三分咲き、いや五分咲きどころか、満開なのである。薄い桃色の花びらが枝という枝を埋め尽くし、飾り立てていた。
「摩訶不思議だわ。生まれて初めてよ、真冬に、このようなこと」
「……ああ」
 床に膝を着いた糸子は雨戸の端に手を掛けた。朝日が昇り始める直前の冷たい空気の中、今が盛りとばかりに咲き誇る桜を、ぼんやりと見つめる。
「美しいわ。夢のよう」
 堂島家へ訪れたばかりの頃、兄の胸に飛び込んで、そこから見た桜を思い出した。
「私、堂島家のお庭で桜を見た時、とても切なかったの。どうしてお兄様と私は兄妹として生まれたのかしら、って」
 ひらひらと舞い落ちる桜の花びらと、叶わない恋情が共鳴したかのように、糸子の胸を痛ませていたことを。
「だから今、とても幸せだわ。これ以上ないくらいに」
 振り返ると、薫が起き上がり、糸子へ近づいた。
「僕もだよ。僕も幸せだ、糸子」
 後ろから糸子をそっと抱き締め、肩先へ顔を埋める。彼の体温に反応した糸子の熱い息が、白く吐き出された。
「もっと幸せになろうよ」
 糸子の下ろしていた髪を掻き分け、首筋を見付けた薫は、そこへ接吻を落とした。
「あ……駄目」
「何が駄目なの」
「昨日のこと、ごめんなさい」
 近所の男に指摘された、兄妹としてあるまじき行為の艶声。まさか外へ漏れ聞こえるほどのものとは思わず、羞恥と恐怖でいたたまれなかった。
「どうして糸子が謝るの」
「だって、きっと私の声が聞こえたんだわ。恥ずかし、い……んっ」
 自分のほうへ糸子の顔を向かせた薫は、その唇を貪った。吸い付き、舐め回し、一通りを終えてから、優しく糸子へ語り掛ける。
「僕だって声を出している。お前だけが悪いなんてことは無いから、気にするんじゃないよ」
「……」
「祭りで甘酒を飲んでいて思い出したことがある。おいで、糸子」
 硝子戸を閉めた薫は糸子の手を取り、温もりの残る布団へと引っ張り込んだ。

「思い出したことって?」
「お母様は、僕らが幼い頃に熱を出すと、甘い薬を飲ませたことがあったんだ。砂糖を白湯に溶かしたような、温かく、上品な甘さのものだ。もしかすると、あれは人魚さまの鱗の粉薬だったのかもしれない。僕が尋常小学校へ入る前のことで、記憶が定かではないが。戸田に飲まされた時は、粉と水だったから、思い出さなかった」
 薫の唐突な話に、糸子の思考は混乱した。
 マサに飲まされていた粉薬を、自分たちが口にしていたなど、そのようなことが有り得るだろうか。
「あのお薬だとしたら、どうしてお母様が持っていらしたの?」
「僕らの祖父殿が人魚様の肉を見付けた時、鱗も手に入れていたとしたら、お母様が鱗を持っていても不思議ではない」
 糸子を抱き締める薫の手の力が弱まった。
「幼いお母様が持ち出したとすれば、せいぜい一枚か、二枚程度だろう。人魚さまの本で見た限りでは、鱗は子どもの手のひらくらいの大きさがあった。漁村にいたお母様が人魚伝説を聞いて、鱗を貴重な薬だとでも思い込んでいたなら……」
「私たちに飲ませていたかもしれない、そういうことね」
「ああ。毒性があるとは微塵も思っていなかったのだろう。貴重なものだから自分は飲まず、僕らだけに与えた。鱗の数が少なければ、いっぺんには飲ませず、ほんの少しずつ与えていたのかもしれない。マサが少々舐めたくらいでは死ななかったように、微量ならば問題なかったのだろう」
「ではもしかして、私たちが死ななかったのは……」
「ほんの少しずつ、幼い頃に粉薬を体に入れていた糸子と僕には、耐性が出来ていたんだ。お前がマサに、僕が戸田に、それぞれ毎日飲まされていても、死ななかったのは、その為じゃないか」
「でも、私は石女になったわ」
「死なずに済んでも、何かしらの変化が起きるのかもしれない。まぁ……全て仮説に過ぎないんだが。しかし納得はいく」
 糸子は薫の浴衣の胸に頬を押し付けた。規則正しい音に耳を傾け、脳裏に浮かんだ疑問を吐き出す。
「マサは、あのお薬を飲んで子を宿せなくなった者もいると言っていました。その人は今、どうしているのかしら」
「マサの狂言かもしれないし、そうではないかもしれない。確かめる術は、もうないな……」
 仰向けの糸子に薫の体が乗る。
 薫の美しい顔は、軍人の父の面影が強いと母に聞いたことがある。母は、誰を愛していたのだろう。いつも誰かに流されて生きているように見えた母は、意外にも、自分たち兄妹を大切に思ってくれていたのだろうか。
「私たちは、お母様に救われたの……?」
「結果的にはそうなるかな」
 糸子の頬を撫でた薫が、口を吸った。長い接吻の間に息が漏れ、唇と唇の隙間から声が溢れ出た。はっとした糸子は、唇を離して顔を逸らす。
「どうしたの、糸子」
「声が……」
「いいんだよ」
「でも」
「どうせ僕らは、もうすぐ泡沫となって消えるんだ。好きなようにさせてもらうさ」
 口を押えようとした糸子の手を掴んだ薫は、柔らかな手のひらに唇を押し付けた。
「人魚塚の」
「……ん?」
 返事をしつつ、薫が糸子の浴衣の帯を解く。剥き出しになった白い肩を、薫が美味しそうに舐めた。
「人魚塚に、彼岸花が咲いていたのを、覚えて……いらっしゃる?」
「マサが、のたうち回った場所だね」
「……ええ。あ、あ」
 噛まれた耳朶から下腹まで、痺れるような快感が走った。
「それがどうかした?」
「彼岸花は、十一月には、花の盛りは終わっているはず、なの、お兄様」
 兄は無言で糸子の乳房へ、手をやった。
「お庭の、桜も、似ていると思ったの」
 薄桃色の先端を指でこね回し、口に含む。
「季節ではないのに、あんなにも、美しく……咲いて、あ、ああ」
 ちゅうと吸われて糸子の背中が跳ね上がる。浴衣の前はすっかり肌蹴てしまい、襦袢も取られて糸子の体が露わになった。その肌を慈しむように、あちらこちらへ薫が唇を押し付ける。彼も帯は外して、浴衣の前を大きくひらいた。
「人魚塚には、人魚さまが眠っていると言われている」
「マサに、そう、聞いたわ」
「人魚さまの亡骸が、埋まっているのだとしたら?」
 体を起こして、糸子の腰を持ち上げた薫は、濡れ始めた茂みへ顔を埋めた。
「や、ああ、お兄、様……っ!」
 ずうずうと甘い汁を啜る音がいやらしく部屋中に響く。薫の舌使いの気持ちよさに、羞恥も忘れて糸子は喘いだ。
「僕が桜の下に……人魚さまの肉を埋めていたら、どうする?」
「……人魚、さまの……? は、ぁあ」
 快楽に支配されて思考が追いつかない。刹那、糸子のひくつくひだへ、兄の硬い欲望があてがわれた。
「う、ぁあっ!」
 両手首を布団に押し付けられながら、奥まで一気に杭を打ち込まれた。欲しがっていたそこは、薫のものを嬉しそうに最奥まで呑み込み、離さない。
「あ、あ、あ」
「糸子、いいか」
「ああ、よいの、よい、の」
 兄の形に慣れ親しんだ肉が、悦びの唾液をだらしなく垂れ流している。朝日が昇り始めたのだろうか。部屋が段々と薄明るくなり、布団の中で戯れる二人の体を仄かに照らし始めた。
 烈しく腰を動かし続ける薫が、いささかの命令口調で言った。
「もっと言うんだ、糸子」
「よいの、お兄様、うう、う」
 内で感じる薫によってもたらされる悦楽が、糸子を忘我の沼へ引きずり込んだ。
「糸子、僕の名前を呼んで」
「お兄様の、お名前……?」
「呼んでおくれよ、糸子。後生だから」
 頭の奥で、何かが弾けてしまいそうだった。
「薫、さん」
「あ、ああ……くっ」
 眉根を寄せて瞼を閉じた薫が、悦楽に歯を食いしばる。
「糸子、糸子……! もっと呼んでおくれ……!」
「あっ、薫さん……! ああ、ああ」
 滅茶苦茶に腰を強く叩きつけられ、糸子は眩暈を起こした。初めて感じる強く深い陶酔が、糸子の全てを溶かすのだ。
「糸子は、誰にもやらない」
 額に汗を浮かべて瞼を上げた薫が、経文のごとく呟き始める。
「僕の目に焼き付けておくんだ。糸子の笑顔も、泣き顔も、恥じらう顔も、困った顔も、苦しそうな顔も……」
 ふいに体を起こし、糸子から自身を引き抜くと、薫は穏やかに笑った。しかし瞳の奥は暗く、堂島家で見た時のような狂気と翳りを宿している。
「お兄、さ、ま?」
 急に変わった兄の様子に、糸子の体が強張った。
「快楽に喘ぐ顔も、そのいやらしい声も、僕しか知らないんだ。今後も誰にも知られないように……僕の傍にいるんだよ?」
「お兄様、何を……!?」
 薫は布団の下から、何かを引っ張り出している。
「またおかしな連中に、糸子が攫われでもしたら困るだろう。近所の男たちも信用できたもんじゃない。最期の日が来るまで、お前はここで、僕だけのものだよ」
 糸子をうつ伏せにさせた薫は、彼女を後ろ手にし、手首を押さえつけた。
「あ、あ……うう」
 合わさる両手首に掛けられたのは縄のようであった。肌に食い込む感触が、漁村の蔵を思い出させる。
 何故、と問いかけようとした糸子の耳へ、兄の優しい優しい声が届いた。

「僕だけが愛でる花でいるんだ。いいね?」