同じ朝が来る

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(6)二人の距離




 彼女と視線を合わせるのは好きだ。
 たとえそれが一瞬でも、時間が止まったかのように周りの音が無くなり、彼女しか見えなくなる。

 週に何回かの移動教室の時、必ず彼女の教室の前を通る。廊下を歩きながら教室の窓に顔を向けると、必ず彼女は廊下側のどこかにいて、チラリとこっちを見た。目が合って、たった一、二秒だ。お互い、にこりとするわけでもないけど、いつもただそれだけに満足して通り過ぎた。


「あ……」
 本棚の前で出会った俺達は、すぐにお互い視線を逸らす。木下さんは俺に向かって歩いて来た。後ろを通り過ぎながら、一言置いていく。
「宿題?」
「うん。レポートの調べ物」
「私も」
 それきりで、会話は続かない。けど、俺の斜め後ろに立つ彼女はその場を離れはしなかった。一定の距離を保ちつつ、ただ気配だけを感じ取る。
 その場所に探している本が無い事は、もうとっくに気付いていたのに、いつまでも本棚の前で読みたくもない本を手にしていた。古い印刷の匂い。パラパラとめくるけど、内容なんてまるで頭に入って来ない。彼女の微かな溜息や、俺と同じように本をめくる音が聞こえる。……もう、何分経ったんだろう。

「倉田、俺さあ」
 竹下が突然本棚の間に現れた。思わず緊張が走り目が泳ぐ。竹下は俺と俺の後ろにいた、木下さんを交互に見た。彼女は振り向かずに本を読んでいる。
「……あー、俺先帰るわ。じゃーな」
「ああ」
「倉田、さっき言ったこと。な?」
「……」
 竹下の言葉に、何度か頷いて答えた。
 三十分ほどして、いくつか本を手に取り彼女に声をかける。
「じゃあ、お先に」
「……うん」

 駅に着くと、電車は行ってしまったばかりだった。ホームに立っていると、しばらくして木下さんが一人、階段からホームに下りてきたのが見えた。ヘッドホンをして音楽を聴きながら、彼女にも早くなる鼓動にも気付かない振りをする。今目が合ったら、ここから一緒に帰りたくなってしまう。

 電車に乗り、乗り換え駅で降りて歩いていると、階段の前で木下さんが後ろから俺のワイシャツの袖を引っ張った。渡されたのは、飴がひとつ。
「咳、してたから」
「……あ、うん。ありがとう」
「じゃね」
「バイバイ」
「じゃなくて、いけるよ!」
 通り過ぎようとした彼女が振り返って言った。
「え?」
「電車、走れば間に合う! お先に!」
「……俺も、行くって!」
 もらった飴をポケットに突っ込み、走り出した彼女について走っていく。階段を駆け下り、通路を走る。上りのエスカレーターは混んでいた。
「こっち……!」
 いつの間にか追いついた彼女に言って、階段を駆け上がる。彼女の足音が聞こえない。立ち止まり振り向くと、彼女は苦しそうに息をして、よろよろと階段を上っている。
「ま、って」
「……!」
 その声を聞いて、抑えていたものが溢れ出した。誰かに見られたら、そう思っているいつもの自分が頭の隅にあったけど、気がつけば彼女の隣まで走っていき腕を掴んでいた。……我慢できなかった。
「!」
 驚いて顔を上げた彼女の顔を見つめる。
「貸して」
 彼女の重たそうな鞄を持ち上げ、小さな手を掴んで引っ張り一緒に駆け上がった。彼女も俺の手を強く握っていた。

 電車のドアが閉まるアナウンスが流れる。最後の力を振り絞って、ホームへ上がったと同時にドアは閉まってしまった。
「あ」
「……あーあ」
 肩を落とし、走り出す電車を目で追う。通り過ぎる最後尾の窓から顔を出した車掌が、チラリとこっちを見た。
「間に合うって言ったの誰だよー」
「だって絶対いけると思ったんだもん」
 お互いの顔を見て、吹き出して笑いながら額の汗を拭った。繋がれていた手は、いつの間にかそれぞれの場所へ戻り、まだ残る感触を握り締める。
 夏の夕暮れの匂いが鼻を掠め、遠くからひぐらしの鳴き声が静かになったホームへ届いた。まだ暑さが肌に纏わりつくけれど、ほんの少しだけ吹いてくる風が気持ちいい。

「ありがとう、鞄」
「うん」
 お礼を言う彼女の手に、重たい鞄を返す。
「……じゃあね」
 反対側のホームにも電車が入って来た。もう、誰もいない。ホームのベンチに向かう彼女の背中に声をかける。
「一緒に帰る?」
「……うん!」
 嬉しそうに振り返って言った彼女の笑顔が、胸にチクリと刺さり、どうしようもない思いに飲み込まれた。彼女に対する思いがどんどん積もっていく。俺が好きだって伝えたら、彼女はどんな顔をするだろう。

 気持ちを閉じ込めると決めたのに、目の前にいる彼女と視線を合わせるたび、心が揺らいでいく。さっき咄嗟に彼女に駆け寄ったように、腕を掴んで手を繋ぎ引っ張り上げたように、いざとなったらこの思いを隠し切れないんじゃないだろうか。
 竹下に言われた言葉が頭を過ぎる。


 次の電車を待ちながら、近すぎず、遠すぎない距離にいる彼女の横で、鈍っていく決心を見つめ続けながら、もらった飴をポケットから取り出し口に入れた。




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