椅子カフェ堂の裏手にある俺専用の倉庫。壁に掛かった時計は、もうすぐ二時になろうとしていた。
「さすがに疲れたなー」
 首を鳴らしながらリュックを横に置き、作業着に着替える。
 昨日は一日、永志とくるみの結婚披露パーティーに付き合ったせいか、久しぶりに寝坊してしまった。ま、これで一安心ってとこだよな、あいつらも。

 オーダーを受けたスツールの仕上げに取り掛かり、キリの良いところで手を止めた。
「あれ、納品いつって知らせてたっけ」
 確か六月下旬までにはあがる、と伝えておいたとは思うんだけど。
「昼飯ついでに事務所で調べるか」
 コンビニの袋を持って倉庫を出る。
 空は青く、陽射しが眩しい。いい天気だ。あいつら喜んでるだろうな〜、って旅行先の場所は晴れてないかもしれないのか。どれ、調べてやろう。
「ハワイの天気」
 事務所の扉を鍵で開けながら、スマホに向かって声を出す。表示されたものを見て、口の端が緩んだ。おー晴れだ、晴れ。良かったな。
 冷蔵庫から昨日入れておいたミネラルウォーター取り出し、椅子に座って飲んだ。そういやパーティーで飲んだワイン美味かったな。永志が帰って来たら、どの銘柄だったのか訊いてみよう。
 くるみパンを齧りながら、もう一度スマホを見た。もし来るとしたら、そろそろか……?
 弟子にしてくれと言ったショートヘアのあいつ、小川さんは、その後意外なことに、俺のところに来ても家具のことしか訊いてこなかった。
 週に一度、家具工房だか何だかのカルチャースクールっぽいものに通いながら、インテリアコーディネーターの資格を学んで、バイトもしてるとか何とか。
 彼女になりたいだの、友達になりたいだの言ってた割に、そんな話はどこへやらという感じだったから、俺も自然と彼女に自分の仕事の話をするようになっていた。
 正式な弟子じゃないけど、プチ弟子くらいには認めてやってもいい。……何だよ、プチ弟子って。

 古田夫妻の夫婦漫才のツッコミを思い出していると、椅子カフェ堂のチャイムが鳴った。
「お、来たな」
 小川さんにはパーティーの時、永志たちがいなくても俺は椅子カフェ堂で作業してる、とだけ伝えてあった。勉強に来たけりゃ、来いってやつね。まさか本当に来るとは……まぁプチ弟子として、いい心掛けなんじゃないの。
「はいはい、開けるから待ってろって」
 ピンポンピンポン、鳴らし過ぎだろ。急いで事務所からホールへ出て、椅子カフェ堂のドアを開けた。
「あ」
「ごめんね〜、お休み中に」
 そこにいたのは小川さんではなく……元カノだった。相変わらず、どこ行くんだよ、って格好してるな。
「貴恵かよ」
「何よ、あたしじゃ駄目?」
「別に。永志たちはいないぞ」
「知ってる、新婚旅行でしょ。もう飛行機乗った?」
「いや、夜の搭乗だから、まだ。早めに出て、買い物してから空港行くんだってさ。それより何だよ、俺がいるの知ってたわけ?」
「永志くんたちがいなくたって良晴の作業はあるでしょ。知らなくてもわかるわよ、それくらい」
「ま、そりゃそうだな」
 コンビニの袋を持ち上げた貴恵が笑顔を向けた。
「ねぇ缶コーヒー買って来たから、ちょっと飲もうよ」
「俺仕事中なんだけど。つーか昼飯食ってたし」
「いいじゃない、ちょっとくらい。お邪魔しまーす」
 相変わらず遠慮が無い。付き合ってた頃は、そういうところが気に入ってたんだよな。今は……勘弁してくれって感じだけど、言ったら怒られそうだ。

 奥のテーブルに座った貴恵がテーブルに缶コーヒーを二本置いた。彼女の前に座り、差し出されたコーヒーのプルタブを引いた。
「そういや、昨日はお疲れさん。受付ありがとな」
「いいえ。飛び入り参加みたいになって申し訳なかったから、お役に立てて良かったわ」
「で?」
「え?」
「何か話があるんだろ、わざわざ来たってことは」
 鋭いのね、と呟いた貴恵は俺の顔を真っ直ぐ見つめた。
「あたし結婚しようかと思って」
「……へー」
 彼女の言葉を受けても、特に何の衝撃も受けない自分に何だか笑えてくる。
「そうなんだ。誰と?」
「気になる?」
「いや、別に」
 もう、そういう関係なんだよな、俺たちって。
「ハガキ送ったでしょ。覚えてない?」
「あーあれね、あの金髪の王子様みたいなのね」
「まぁ……王子様だわね」
 苦笑した貴恵は、缶を開けてコーヒーを飲んだ。
「結婚して向こうに住むのか」
「そうなるわね」
「お前、まだあっちに行って一年しか経ってないじゃん。大丈夫なのかよ」
「良晴に言われたくない」
「……だな。悪い」
 俺を追いかけてイギリスまで来てくれても、その気持ちに応えられなかったわけだから、そんな男に今更何も言われたくはないわな。
「だって良晴のこといつまでも待ってたって、どうせあたしと結婚する気なんかないんでしょ?」
「まぁな」
「早く子ども産みたいし、さっさと決めちゃおうかなって。彼、すごく良い人だし」
「自分の都合の為に結婚すんのかよ」
「そりゃそうよ。自分が幸せになる為に結婚するのよ」
 きっぱりと言い切った貴恵は、いつものように長い髪をかき上げ、立ち上がった。
「じゃーね」
「おう、ごちそうさん。元気でな」
「たまに帰って来るわよ。その時は永志くんたちとも会いたいから、よろしく言っておいて」
「ああ」
 彼女の後に続いて立ち上がり、見送ろうと歩き出した時だった。
「良晴……!」
「!」
 振り向いた貴恵が俺に抱きついた。背伸びをした彼女が、一瞬よろけた俺に唇を押し付ける。
 近寄った時の、この匂い。付き合っていた頃と同じ香水、か。込み上げた懐かしさが胸を過ぎった。……何で人って、いつまでも同じじゃいられないんだろうな。思いも考え方も、進む道も。
 唇を離した貴恵が上目づかいで俺のことを見た。
「……何だよ、急に」
「ムラムラした?」
「するか、バーカ」
「ふん、最後まで可愛くないんだから」
 むくれた貴恵はバッグからハンカチを取り出し、俺の唇に付いてしまった口紅を拭き取った。
「じゃあね、お元気で」
「お前もな。お幸せに」
 つかつかと歩いて、今度は振り向かなかった貴恵は……椅子カフェ堂のドアから出て行った。ベルを外してあるから当然、からりんという音は、しない。
 あの香水を付けてたってことは、俺に引き留めて欲しかったんだろうけど。中途半端な優しさは余計に傷付けるだけだ。

 ゆっくり歩いてドアの前に行き、鍵を閉めて背中を寄り掛からせた。ホールは静まり、永志が作る料理の美味しそうな匂いはどこにもない。色とりどりのケーキや黄色いプリンが並ぶショーケースは空っぽだ。
「あーあ、永志とくるみ、早く帰ってこねーかなー」
 あいつらの顔を早く見たい。仕事に打ち込んで、目標を持って、必死なあいつらを見てると安心するんだよ。
 テーブルに戻って、彼女の飲み掛けのコーヒーの缶を手にする。
「貴恵のやつ、全然飲んでねーじゃん」
 俺の缶も持って事務所へ入り、シンクにコーヒーを流した。茶色の液体の上から、水道の水を落とす。
「……」
 感傷的になってる場合じゃないな。パン食って、午後の作業に取り掛かろう。

 結局その日、椅子カフェ堂に小川さんは来なかった。




後編へ続きます。