昼過ぎから雨が降り出していた。
 午後の休憩に事務所へ入る。冷蔵庫の横に掛かったカレンダーをめくった。今日から六月だな。永志たちが帰ってくるのは明後日。くるみのプリンを食えないのも、永志のまかないに在りつけないのも、そろそろ限界だ。
「……今日も来ねーのかよ」
 舌打ちをして、めくったカレンダーの紙を丸め、冷蔵庫のペットボトルを取り出した。
「教えてくれだの好きだの言ってたクセに、何だってんだよ、なーあ?」
 棚の上にある達磨に話しかける。
 椅子カフェ堂の存続が決まった時点で目を入れた達磨は奉納し、今年の正月にまた新しいのを買ってきた。永志の奴、意外と達磨を気に入ってんのか?

 昨日、日本を発ったと貴恵からメールがあった。
「いちいち知らせて来るなってんだよ、なあ?」
 当然のごとく達磨は何も答えない。
 ミネラルウォーターをひと口飲んでから椅子カフェ堂のホールに行った。ドアを開けて外に出る。雨は小振りになっていた。少し早い梅雨入りかね。鬱陶しいことこの上ないな、全く。
 店の前の通りに出て右を向いて探し、左を向いて遠くを見つめた。駅から来るとすれば左からだろうけど、雨のせいかほとんど人なんていなかった。
「ふーん。やる気なし、ってわけね」
 椅子カフェ堂の中に戻る。
「プチ弟子は取り止めだな! うん、やめやめ!」
 ここの連絡先だって知ってるだろうに。そうだよ、俺に椅子のオーダーメールしてきてるんだから、わかってるはずじゃん。
「って、メールか?」
 急いで事務所に戻り、ノートパソコンをひらく。
「あ、そうか」
 午前中にオーダーメール確認したばっかりだった。もう一度確認しても、小川さんからの連絡は入っていない。椅子カフェ堂のSNSを見ても、特に変わりはない。
「ふん……無駄な労力使わせやがって」
 椅子の背に凭れ掛かった時、ピンポンとチャイムが鳴った。
「お、来た! うわ!」
 慌てて立ち上がったせいで椅子が倒れた。とりあえず、そのままにして椅子カフェ堂のホールへ走る。ピンポンピンポン、何回チャイム鳴らしてんだよ。お前は貴恵か! 急いでドアを開けた。
「有澤さ〜ん」
「……はい?」
 何だよ、このおっさん。
「次はうちの新聞取ってくれるって言ってた気がしたんだけど、そろそろですよね〜?」
 知るか!
「有澤店長は旅行に出てて、今いないんですよ」
「あれ、そうなの?」
「そう。俺が留守してるんですけど」
「いつお帰り?」
「あと三日くらい、いないかな」
「じゃあ、お兄さんでいいから取ってよ新聞。ネット社会になってからノルマがキツくてねぇ」
「俺貧乏なんで。それじゃ」
 ドアを閉めて鍵を掛ける。永志、早く帰って来てくれよ〜!

 事務所に戻った途端、再びピンポンとチャイムが鳴った。
「また勧誘か何かだろ、きっと」
 次のチャイムの音を待った。……が、それっきり鳴らない。胸騒ぎがして椅子カフェ堂のドアへ急いだ。扉を開けても誰もいない。
 通りへ出て左を見ると、少し先を歩くショートヘアの後姿があった。
「……おい!」
 俺の声に振り向いた小川さんは、合わせた視線をすぐに外した。
「あ、稲本さん。いらしたんですね」
「いるっつったろ」
「そうですよね、すみません」
 近付いて来た割に、それ以上何も言わずに俯いたままだ。何なんだ? いつもの元気はどこ行った?
「来ないなら来ないって連絡しろよ」
「すみません」
「いや、別に来るとは言ってなかったよな、お前」
「日曜日に……来たんです、けど」
「え」
「貴恵さんがいたから、邪魔かなと思って」
 雨はもう止んでいた。彼女が着ている白地にロイヤルブルーのボーダーTシャツが目に眩しい。
 黙る俺に、顔を上げた彼女が早口で言い訳の様なものを始めた。
「いえ、違うんです! 稲本さんのそういうこと、私には関係ないってわかってますから! えーとバイトが忙しくて、それで」
「とりあえず中入れ」

 椅子カフェ堂から事務所を通り、裏手の倉庫へ連れて行った。ここに入れてやるのは初めてだ。小川さんは、きょろきょろと中を見回している。
「あの、いいんでしょうか。お邪魔しちゃって」
「やすりのかけ方、教えてやる」
 作業台の上の軍手と床に転がっていた木材を拾い、彼女に渡した。俺も別の木材を持って、使い方を教える。
「箇所によって使うやすりは違う。とりあえず今は、これ使ってやってみろ」
「はい」
 腕まくりをした彼女は体勢を整え、やすりをかけ始めた。こいつ、いつもジーンズとかパンツ穿いてんのな。作業するには、その方が都合いいけど。
 作業台で手を動かす小川さんの傍に椅子を置いた俺は、そこに腰かけ、話を始めた。
「永志とくるみのパーティーで、あんたと一緒に受付を手伝ってもらった貴恵は」
「……」
「俺の元カノ。日曜日は結婚するって報告に来ただけ。昨日、日本を出発して勤務先に戻った。結婚相手は金髪碧眼のイケメンだってさ」
「……そうなんですか」
「どこから見てたんだよ」
「外の、窓とロールスクリーンの間から覗いていました」
 俺と貴恵がキスした場面を見られたのかもな。別に構わないけど。
「あのさぁ、俺とはどうにもならないってこと、わかってるよな?」
「え?」
「最初に言った通り、俺は」
「わかってます。私のこと、彼女どころか人としても付き合いたくない相手、なんですよね。そして弟子は取らない」
 小川さんは手を止めずに、ひたすら木材にやすりをかけながら言った。
「人としてってのは、もう解除だけど。……俺、今のところ一生結婚するつもりないから」
「はい」
「そういうの期待されても困るし」
「ええ」
「だから付き合うとかもないし」
「そこは本当にわかってます。というか稲本さんて」
 彼女の手元から木屑が落ちていく。
「好きになる前に、結婚のことが先にあるタイプなんですか?」
「は?」
「好きになるって、結婚がどうとか、そういうのとは全然関係のないところで起きる感情だと思うんですけど」
「……」
「すみません、生意気言って。でも何だか、そこに拘ってるのは稲本さんのような気がして」
 チラリと俺を見た小川さんは、木材の面を変えて再び手を動かし始めた。
「……関係ないところで、起きるよな。そうか、そうだよな」
 俺が今まで何かとはぐらかしてきたのは、そういうことなんだよ。
 家具職人としての将来の構想だの、年収だの生活だの、声を掛けて来たのは俺の向こう側だけを見ていた女ばかりだ。
 いや、貴恵はそうじゃなかったかもしれない。でも結局最後は結婚相手として俺を見ていたわけだ。早く結婚したい、子どもを産みたいっていう貴恵の気持ちもわかる。ただ、そこまで言われても俺の気持ちは変わらなかった。それだけだ。
 何だろな。目の前にいる彼女の言葉に、妙に納得してしまった自分がいる。
 始めから結婚だ何だって考えられない俺が、特別変わっているわけじゃない。将来を真剣に考えられる女が出来れば、そこで俺の考えも変わるかもしれないんだし。そんなもん相手によるだろ、多分。
「……あんたがその相手だとは、到底思えないけど」
「何がですか」
「思えないけどまぁ、試してみる価値はあるのかね」
「?」
「俺と試す?」
 眉をしかめた小川さんは、軍手の両手についた木屑を払いながら返事をした。
「試すって、新しい木材ですか? それとも」
「俺と恋愛関係を試すか、っつってんの」
「……え」
 顔を上げた彼女の表情は、ひとことで言えば間抜け面だった。わかってんのかね、俺が言った意味。
「え、え、え……!」
「嫌ならやめるけど」
「い、いやじゃない、いやじゃありません!」
「あそ。ほれ、続けろよ」
「は、はい……」
 やすりを掛ける音が倉庫内に響く。どんな家具を作ろうかと、アイディアをまとめているノートを棚から取り出し、再び椅子に座った。パラパラと捲りながら声を掛ける。
「時に小川さん」
「はい」
「あんた何歳なの」
「え、私ですか?」
「他に誰がいるってんだよ」
「二十三です。もうすぐ、四になります」
「に、二十三!? くるみより三つも年下かよ!」
 いや、あいつが幼いだけか。目の前の小川さんは二十三で妥当だとは思う。っておい俺、待て待て待て……!
「稲本さんは?」
「俺は今年三十」
「大人ですね」
 六コも年下とか有り得ないわ。
「やっぱやめるか。絶対合わねーだろ、これ」
「た、試してみなければ、わからないと思います!」
 顔を真っ赤にして口をへの字に曲げた小川さんの顔は、またもや間抜け面そのものだった。思わず口が緩みそうになる。お前も誰かさんに似て根性ありそうだよな。
「で、明日はヒマ?」
「え」
「ヒマかヒマじゃないか聞いてんの」
「ヒマです。ものすごいヒマ!」
「あそう、良かったね」
 ノートをめくると、再び彼女もやすりをかけ始めた。残念そうな顔してる。何か面白いなこれ。
「お前がヒマなら、どっか付き合ってやってもいい」
「本当ですか!?」
「どこがいいんだよ」
「プラネタリウムに行きましょう!」
 小川さんは満面の笑みを見せた。そーか、そーか、そんなに嬉しいか。
「プラネタリウムって、小学生かよ」
「今のプラネタリウムってすごいんですよ〜! 大人向けのプラネタリウムとかあるんですけど、七夕フェアが始まったんです。天の川特集とか。七夕は一か月後ですけど……」
「ふーん」
「……駄目でしょうか?」
「別に行ってやってもいいけど、つまらなかったらすぐ帰る」
「つまらなくないです、絶対」
 必死にやすりをかけていた彼女のこめかみから、汗が一筋流れ落ちた。

 窓から入った日差しで倉庫内が明るくなる。
 梅雨入りはまだだったか。いつの間にか鬱陶しさはなくなって、心の中まで晴れやかな気持ちになっていた。





次話は、くるみと永志の新婚旅行です。