彼に宣言された通り、ふわふわの泡で隅々まで洗ってもらった私は、湯船に浸かって人心地ついていた。
 ちょうどいい湯加減で気持ちいい。……気持ちいいんだけど、さっきまでのことを思い出すと、途端にのぼせてしまいそうだった。洗ってもらったのも恥ずかしかったけど、何よりその前、脱衣所であんなことになっちゃって……。彼の前だけとはいえ、ああいう姿を晒け出してもいいものなのかな。嫌われちゃったらどうしよう。溜息を吐いて俯くと、髪から落ちた水滴が、お湯の上に小さな波紋を作った。

 後ろから私を抱きかかえるようにして一緒にお湯に入っている永志さんが言った。
「くるみちゃん」
「は、はい」
「さっき訊いたこと、詳しく教えて?」
「……はい?」
 まだ頭がボーっとしてる。さっき訊いたことって何だっけ……?
「古田さんだよ。何で俺があんなこと言われなきゃいけないのか全然わからないんだけど。俺がくるみちゃんを悩ませてたってこと?」
 彼は私の手を握り、お湯の中で指を絡ませた。その指先を見つめながら、頭の中で言葉を整理して慎重に話を始める。
「古田さん、私と永志さんが付き合ってること知ってるんです。椅子カフェ堂に初めて来た日、すぐにわかったって言われて」
 永志さんがパーカを貸してくれたこと、迎えに行くと言ってくれたことから、古田さんにはすぐバレちゃったんだよね。
「それでこの前、和フェアの初日に来た古田さんが、有澤店長はお客さんに人気があるねって私に言ったんです。みもと屋さんで永志さんのことを噂してた人がいたみたいで」
「そうなの?」
「私がそこで表情を変えてしまって、心配なんだ? って古田さんに訊かれました。だから、そうですって答えたんです。私ばっかり焼きもち妬いてるんですって」
 あの時の、私を見上げた古田さんの表情が印象に残っていた。
「その言葉を聞いて、私のことを心配してくれたんだと思います」
「くるみちゃん、焼きもち妬いたの?」
「はい。……女の子たちが騒ぐから、心配で」
「もしかして、何か嫌な思いした?」
「……」
「言ってくれないとわからないよ。それとも俺に言えないこと?」
 仕方なく、この前来た女の子たちのグループに私と店長のことを勘繰られて、屈辱的な言葉を使われたことを話した。ちんちくりんなんて、自分で口にするのは嫌だったけど。
「酷いなそれ。……全然知らなかった。良晴が助けてくれたのか」
 指先でお湯をぴしゃっと弾いた彼は深く溜息を吐いた。
「くるみちゃん、そういうこと全部俺に言ってよ。俺だけ知らなかったとか悲しすぎる」
「余計な心配させたくなかったの。それに、焼きもち妬いてるなんて鬱陶しいかなって」
「大切な人の言うことを鬱陶しいなんて思う訳ないじゃん」
「永志さん」
「焼きもちも妬く必要ないよ。俺、誰にも言い寄られてないし、近寄らせても無いよ。写真撮る時も営業用の顔だし。だけど今後はお客さんとの接し方に気を付ける。くるみちゃんが嫌な思いするようなことがあったら、俺がその場でどうにかするから」
 お湯から出ている私の肩に、彼が静かにお湯をかけてくれた。
「その時、泣いた?」
「少しだけ」
「ごめんな、嫌な思いさせて」
「永志さんのせいじゃないです」
「いや……駄目だな、俺。くるみちゃんがそういう思いしてたの全然気づかなかった癖に、古田さんに突然あんなこと言われて、ものすごい頭に来たんだ。不意打ちで、くるみちゃんを抱き締めたことも許せなかった。俺の知らないところで二人が仲良くなってるんじゃないかって、和スイーツの打ち合わせしてる頃から心配してた」
「え」
「……俺、本当はもう限界なんだよ。死にそう」
 し、死にそう!? 焦った私は絡ませていた彼の指を強く握った。
「お風呂熱いの? 出ますか?」
「違うって。そういうこと言ってるんじゃないの」
 彼は手を離し、後ろから私の体をぎゅーっと抱き締め、私の肩の上に顔を載せて耳元で続けた。
「くるみちゃんがあぶなっかしくて見てらんない。自分じゃわかってないんだろうけど、隙が有り過ぎるよ」
「どういうことですか……?」
「心配でしょうがないんだ。くるみちゃんが俺から離れて行くんじゃないかって」
 初めて聞く彼の切なげな声に困惑した。永志さんも私と同じことを思ってたの?
「くるみちゃんがああいう、どんどん事業広げていく親父みたいな男に魅力感じるのかもしれないって思ったら、いてもたってもいられないんだ。古田さん俺より年上って言ってたし……正直、自信ないよ」
「そ、そんなこと有り得ないです……!」
 彼の腕の中で、勢いよく顔だけ振り向いた。
「私、古田さんと言い合いしたのだって、それが原因なんです。私は永志さんみたいに椅子カフェ堂を地道にこつこつ守っていくような人が大好きなんです。ていうか、私は永志さんしか好きになりません! 自信ないなんて言わないで……」
「……くるみちゃん」
「自信が無いのは私の方なんです。誤解させるようなことになっちゃって……ごめんなさい」
「いや、俺が悪いんだよ。ごめんな」
 謝りっこをして視線を合わせ、お互い小さく笑った。
「くるみちゃん」
「はい」
「自信、無いの?」
 彼の言葉に頷く。
「ずっと、無いです。私、美人でもないしスタイルがいいわけでもないし背も低いから、永志さんの隣にいていいのかなって、悩む時もあります」
「俺にとってくるみちゃんは世界一可愛くてたまらないんだから、二度とそんなふうに考えちゃ駄目だよ」
「ほんとに……?」
「ほんとだよ。もっと自惚れてよ。俺はくるみちゃんしか見えてないんだからさ」
 私の顎を持ち上げ、永志さんはキスしてくれた。今日何回目のキスだろう。
「もう一回上の部屋で、今度はゆっくり抱いてもいい?」
「……はい」


 明かりを落とした永志さんの部屋は窓から月の光が入って、お互いの顔が見えるくらいには明るかった。彼のベッドの上で毛布にくるまり、裸で抱き合った。
「さっきは乱暴にしてごめん。怖かった?」
「ううん、全然です。永志さんの手が……」
「手?」
「私に触れる手がすごく優しかったから何も怖くなかったです。さり気なく支えてくれたり、撫でてくれたし、たくさんキスもしてくれたから乱暴だなんて感じなかったです」
 私も夢中になってたから、おあいこだよね。
「た、たまにはああいうのも……いいかもです。恥ずかしいけど」
「優しいな、くるみちゃんは。あんま、そんなふうに言わないでよ」
 私の上に乗った彼が、まだ濡れている髪を何度も撫でた。
「どうして?」
「もっともっと好きになり過ぎて困るから、さ」
 照れくさそうに笑った彼が、私の唇にキスを落とした。頬にも、耳にも、額にも。さっきのお湯よりもずっと熱い温度で彼の熱が伝わる。
「大好きだよ、くるみ」
「永志さん」
「永志でいいよ」
「え!」
 よ、呼び捨て!? そんなの言えない言えない。言ってみたいけど……でもやっぱり言えない……!
「ま、まだそれは恥ずかしいって言うか、えっと」
「呼ばずにはいられなくしてあげるね」
 笑った彼が深く唇を重ねてきた。
 お風呂の前とは違い、永志さんは私を優しく優しく、ゆっくり焦らすように抱いてくれた。数えきれないくらいに与えてくれる甘い言葉と蕩けるようなキスと彼の指と体に翻弄されて……結局彼に促されるまま、何度も永志、って呼んでしまった。


 彼の部屋のキッチンに立ち、朝ご飯の用意をする。冷凍してあった住谷パンを取り出し、オーブントースターに入れた。永志さんが昨夜貸してくれた長袖Tシャツは、私が着ると短めのワンピースになってしまう。
「おはよ」
 振り向くと、部屋着を着た永志さんが目を擦りながらこちらに歩いて来た。
「勝手にごめんなさい。たまには私が作ろうかなって」
 温まったフライパンに油をひく。割り入れた卵が、じゅわーっといい音を立てた。
「ありがと。嬉しいよ」
 後ろから彼がぎゅっと私を抱き締めた。
「来年とか言ってたけど、すぐにでも挨拶行っていい?」
「挨拶?」
「くるみちゃんのご両親に。もちろん店に食べに来てもらってもいいんだけどさ」
 フライパンから手を離し、彼の腕の中で振り向いた。私を見下ろした永志さんが目を細めて呟いた。
「……結婚しよ」
「え!!」
 心臓がどきーんとして、顔がかっと熱くなる。
「あーこんなとこでごめん! くるみちゃんの横顔見てたらつい……我慢できなくなった」
「……」
「いや、ついって言うか、軽い気持ちで言ってるわけじゃないんだ。前から真剣に考えてて……。改めて、ちゃんとした場所でプロポーズする。……ごめん」
 返事が出来ない。彼の顔がぼんやりと滲んできた。胸の奥が痛い。
 香ばしい匂いが漂った。呆然としている私の横で永志さんが慌ててガスの火を止め、オーブントースターからパンを取り出した。
 振り向いた彼が私の顔を覗き込む。
「くるみちゃん? ……怒った?」
「う……」
「ど、どうした!?」
「う、嬉しいです。すごく嬉しい……!」
「くるみちゃん……」
「本気、ですか?」
「本気だよ。こんなこと冗談で言えない」
 自分の方に私を向き直させた彼が、その胸にしっかりと私を抱いてくれた。
 だって信じられない。そこまで彼が考えていてくれただなんて思わなかった。私の両親に会うのも、付き合ってることの報告だと思ってた。
「帰したくないって気持ちは前よりもっと強くなってる。毎日一緒にいたいけど、ただここに住むだけじゃなくて、きちんとしたいんだ。この先、仕事以外の時間も俺に分けてくれる?」
「はい……」
 彼は私の頬に流れた涙をそっと指先で拭ってくれた。
「どんな指輪が欲しい? 婚約指輪っていうのかな。今度買いに行こう」
「何もいらないです」
「え、どうして?」
「永志さんがいてくれれば、何もいらない」
 その言葉に一瞬驚いた彼は、壊れそうなほど強くきつく、私を抱き締めてくれた。

 東の窓から入る眩しい朝日が、私たち二人を仄かに温かく包んだ。