プチカップケーキを焼き、ティラミスを作って冷蔵庫に入れる。隣の厨房から店長が作っている料理の匂いが届いた。
 早朝の厨房で仕込みを終えた私は、彼の元へ行き声を掛けた。
「店長、私昨日のお休みに新作のケーキ作ってみたんです」
「おう、そっか。偉いな」
「食べてもらえますか?」
「うん。でも俺は夜にするよ。良晴来てるから、今食わせてやって」
「わかりました」
 一度もこっちを振り向いてくれない。目が合わない。手が空かないのはわかってるけど、それだけが理由じゃない。そういえば前にもこんなことがあった。

 彼の部屋に泊まったあの朝、私はホールで彼が作った朝食を食べ、そのあと一旦家に帰り着替えて、再び椅子カフェ堂に出勤した。
 仕事中はお互い普通に受け答えして、だけどその時もあまり視線が合わなかったように思う。夕方、お客さんが少ないからもう帰っていいと言われ、お店を出た。翌日はお休みで何も考えたくなかったから、新しいスイーツを考えて作り続けた。
 フラれたんだよ、ね。
 はっきりとは言われなかったけど、あれが答えなんだよね?
 それでもいいと言ったのは私。ここを絶対辞めないと言ったのも……私。つらいけど、自分でこの状況を望んだんだから仕方がないよ。

 事務所の扉を開けると、職人さんは椅子に座って漫画を読んでいた。
「おはようございます」
「んー」
「何食べてるんですか?」
 口をもぐもぐ動かしている職人さんに尋ねた。
「クルミパン。俺の最近の朝ご飯。コンビニのだけど」
「クルミパン、ですか」
「食いながら、うら! うら! どうだ、くるみ、おいこら! って噛み砕くのが最近のストレス解消法」
「完全に変態です。クルミパンが可哀想なので、やめてください」
「お前妹がいるんだって?」
「え、はい」
 店長が話したのかな。職人さんは漫画をテーブルの上に置いて、ビニールの袋からはみ出しているクルミパンに齧りついた。
「名前、なんてーの?」
「……あんず、です」
「ぶははははっ!! くるみとあんずかよ!!」
「そ、そんなに笑うことないでしょ!」
「明日から、クルミパンはやめてあんずパンにしよーっと」
「本気でやめて下さい。せっかく新作のケーキ作って来たのに、もうあげない」
「マジ!? あんずパンはやめるから食わせてくれ」
 彼はパンを置いて身を乗り出した。

 事務所の冷蔵庫に入れておいた箱を取り出して、職人さんの前に置いた。
「春なので苺フェアです! フェアってほど種類ないけど……」
 箱を開けると職人さんが興味深げに箱を覗いた。
「美味そうだなー。永志はもう食ったの? これ」
「……あとで、って言ってました」
 名前が出ただけで心臓が痛くなった。
「あそ。これ何?」
「苺のタルトで下半分はチーズケーキになってます。あと、こっちのは苺ショートなんですけど」
「三角に切らないんだ?」
「はい。四角くして高さを出しました」
「へー面白いな。食っていい?」
「どうぞ。あとは苺フローズン的なものも考えたんですけど、まだ少し寒いかなって迷ってます」
「それは永志に訊いてみれば?」
「そうですね」
 いちいち名前に反応している私の胸が、ずきずきしてつらい。
「で? ホームページにメニュー載せるのはどうすんの? やめんの?」
 私が用意したフォークでケーキを掬い、美味しそうに頬張りながら職人さんが言った。
「やめません」
「何で?」
「メリットが無いからです。それに、こちらが真似だと思われたら困りますし。日付を書いて、きちんと声を出していけば椅子カフェ堂が先に提案しているってことは伝わります。それに、ここを知っているお客さんに新しい情報はどんどんお伝えしたいですから」
「俺もそう思ってたとこ。珍しく意見が合ったな」
「ほんとですか?」
「貴恵は、ああ言ってたけど、俺たちが止めることはないだろ。情報を発信していけば、わかる人にはわかるからな」
 職人さんが賛同してくれるとは思わなかった。そうだよね、自信を持ってできることは、このまま継続した方がいい。
「職人さんの方は、最近何か新作あるんですか?」
 二個目のケーキを頬張った彼が、私の質問に顔を上げた。
「見る?」
「え! あるんですか?」
「俺だっていろいろ考えてんの。新作食わせてもらったから見せてやってもいい。但し絶対触るなよ?」
「もちろんです! やったー」

 事務所を出て裏の倉庫へ行く。中に入ると、むせ返る様な木の匂いが心地いい。
「これだ」
 職人さんが指差した。一人用のデスクと椅子のセット。今までの家具より、少しだけ落ち着いた色味に仕上がっている。
「素敵。これ、欲しいな」
「やらねーよ。買え」
「もう少しお金が溜まったら本気で欲しいです」
「その時になったら予約注文受けてやる」
「はい。お願いします」
 ここに来るのって久しぶりだな。作業中の家具をひとつひとつ見ながら、お店でのディスプレイを想像した。
「お前ってさ、プロデュース的なことは言ってくるけど、こういうの作れとか絶対言わないのな」
「それはそうですよ。プロの作品に口出しはできません。私は自分で作れないんですから」
「ふーん」
「職人さんが自由に作った方が絶対いいものができるって、私は思ってます」
 作業机の脇に置いてあった椅子に職人さんは座り、私の顔を見上げて言った。
「お前、永志と何かあった?」
「……どうしてですか?」
「いや何となく。鬱陶しさに拍車がかかってる気がするから」
 私も同じように、少し離れたところにある椅子に座らせてもらった。今日は冬に戻ったような陽気で、ここは少し寒い。
「私、職人さんみたいな人、好きになれば良かった」
「はあああ?」
「職人さんは何考えてるかすぐわかるけど、店長は全然……わかんないです」
「お前、永志のこと好きなの?」
 はいとも言えずに黙っていた。黙ることが答えだとわかっていても。
「前に言ったろ。あいつは絶対顔に出さないし、気難しいんだって。何考えてるのかわかるまで、俺くらい長く付き合ってなきゃ無理なんだよ」
 机に置いた木材の一部を彼は手に取った。
「でも俺は嫌だけどね。何考えてるか何でもわかる相手なんて、つまんないじゃん。そういう相手は最初から好きになったりしない」
 道具を使って表面を綺麗にしている。
「わかんないから好きになるんじゃねーの? お前はどうか知らないけど、俺はそうだな」
 そっか……。だから惹かれるんだ。わからないから気になって、もっともっとって、それを繰り返していつの間にか好きになってた。知りたいと思った時から、恋が始まるのかな……。

 職人さんの顔を見つめて考えていると、気付いた彼が私の方を向いた。
「俺はお前を好きにはなんねーぞ? 前にも言ったけど」
「わかってます。そんな職人さん嫌です。失礼なこと言ってすみません」
 私の言葉に職人さんは大きく溜息を吐いた。
「好きにはなんないけど、女としては見れるから落ち込むなよ。やれって言われりゃやれるし。って、誤解すんなよ? 男なんて皆そんなもんなんだから」
「……そうなんですか?」
「普段からそういう目で見てる訳じゃないけど、お前が素っ裸で俺の布団に入ってきたら、そりゃやるだろって話。好きだの嫌いだの関係なく」
 そのシチュエーションに、この前の自分を思い出した。職人さんの言う通りだとしたら、店長のあれは何だったんだろう。
「例えばそういう場合……男の人って途中で止めたりできるものですか?」
 職人さんですら女として見れると言ってくれたのに。店長にとって私はそんなにも魅力が無かったの?
「そりゃ、事情によるんじゃないの。途中で萎えたんだったら、よっぽど相性悪かったか、女に傷つくようなこと言われたか。男のがそういうの繊細だしな」
 私が何か傷つけるようなことを言ったんだろうか。
「あとは……相手に本気になってるか、だな」
「本気?」
「そう。好きすぎてできません、って奴。たまにいるよ」
 それは、ないよ。
 肩を落として俯いた。あの時の私、店長の気持ちを考えずに決定的な何かをしてしまったんだ。
「まあ、お前のこと好きか嫌いかって言われれば、嫌いじゃないけどな。俺は根性ある女は好きだから」
 にやっと笑った職人さんに、私も表情を緩める。
「ありがとうございます。私も職人さん嫌いじゃないです。尊敬してますし好きです」
「そりゃどうも。あ、俺食いかけだった。事務所に戻ろうぜ」
「はい」
 職人さんになら、好きなんて言葉、簡単に言えてしまう。それは恋じゃなくて人として好きだから。そしてそれを職人さんも知ってるから、その言葉を流してくれる。
 店長が私に言った「好きだよ」も、きっと同じ。だから私のことを本気で好きで途中で止めたなんて、どう考えても有り得ない。


 一日の仕事を終え、厨房にいる彼の後ろを通って挨拶した。
「お先に失礼します」
「ああ、お疲れさん」
 軽く肩を叩かれた。その瞬間、あの夜のことが思い出されて肩がびくつき、一気に顔が赤くなった。
「あ、ごめん」
 彼は申し訳なさそうに私から顔を逸らした。
「て、店長もお疲れ様でした! お先に失礼します! 明日も晴れるといいですね!」
 ……不自然過ぎだろ、って自分にツッコみたい。でもこうするしかなかった。
「うん。そうだね」
 どうしてそんなにテンション低いの? 少しは合わせてくれたっていいのに。ぎくしゃくしたら嫌だって言ったのは、店長の方なのに。
「事務所の冷蔵庫に新作のケーキ入ってますから食べて下さい。明日感想をお願いします」
「ああうん、食べるよ。ありがとな、くるみちゃん」
 名前を呼んでくれただけで、こっちを見てくれただけで、泣き出しそうになった。
 耳元で囁いた声、抱き締めてくれた手、温かい彼の体温。何度も合わせた唇。全部が、もう遠い。
「どうした?」
「いえ。おやすみなさい」
 震える心を押し隠して、その場を去った。

 こんなんじゃ、どんどん気まずくなっていくだけ。仕事にも悪影響が出る。
 椅子カフェ堂のためにも、このままじゃいけない。