静かな雨が降り続き、雨どいを伝う雫の音が聴こえる。

 私の体に巻いていたバスタオルに触れた彼が、前を肌蹴させた。恥ずかしくて咄嗟に両方の手で胸を隠す。
 彼は着ていた長袖Tシャツを脱いでそれをベッドの下に落とし、私の両手首を掴んだ。いつもと違う店長の……永志さんの強い表情に肩を縮ませる。
「駄目だよ隠しちゃ。くるみちゃんが望んだんだから」
「あ」
「見せて」
 腕を解かれ、隠していた場所をさらけ出された。顔が熱くなり、のぼせたように火照っていくのがわかる。広げた腕を上から押さえ、私の両手に彼は自分の両手を重ねて、全部の指を絡ませた。強くしたり弱くしながら私の手を握る。彼が動く度にベッドが軋んで揺れた。
「肩が冷えてる」
 私の首筋から肩に唇を這わせた彼が囁いた。これ以上のことは初めてだから、緊張で自然と体が硬くなってしまう。でも彼に身を任せて、ついていくしかない。
 永志さん、って呼ぼうとすると、必ず途中で唇を塞がれた。その度に不安になってしまう。まるで呼んではいけないみたいに。もしかして……駄目なの?
 私の胸を優しく包むように触った彼が、耳元で大きく苦しそうに息を吐いた。触られているところが熱い。唇を押し付けられる度に自分のものじゃないみたいに息が荒くなって、うわごとのように声を出し続けた。

 彼が両手で私の背中に手を回し、時間を掛けてゆっくりと抱き締めた。触れている肌がぴったり合わさって、その体温になぜか涙が出そうになった。二人の心臓の音が肌を通して直接伝わり混ざっていく。
 好きすぎて、つらいよ。愛しいってこういう気持ちなの? こんなに切なくて苦しいものなの? 互いに何度も吐き出す溜息で、心も体も壊れてしまいそう。
 彼が私の腰に手を伸ばした時だった。
「……くるみちゃん? 寒いの?」
「え」
「暖房、温度上げる?」
 どうして寒いなんて訊くんだろう。触れられているところも、そうじゃない場所も、体中全部熱くなっているのに。
「寒く、ないです。永志さんが……あったかい、です」
 もっとその温度を確かめたくて彼の背中に手を回した。
 顔を近づけた彼がすぐ傍で私を見つめる。その瞳は、どうしてだろう、なぜか困惑しているように見えた。
 ふいに強い力で抱き締められた。私の肩に顔を埋めた彼は黙っている。
 強すぎて、痛い。
 どうしたんだろう。じっとしたまま動こうとはしない彼に不安を覚えた。こんな時に声をかけるのはおかしいかな。でも。
「……あの」
「うん」
「どうしたんですか……?」
「……うん」
「私、何か変ですか?」
 急に変わった空気に不安でたまらなくなる。
「ううん。変じゃないよ」
 顔を上げた店長は私の額に優しくキスした。そして体を起こし、私にそっと布団を掛けた。
「俺、事務所で寝るから。くるみちゃんはここに寝てていいよ」
「……え?」
 ベッドの下に落とした長袖のTシャツを拾った彼は、素早くそれを頭から被り、袖を通した。
「永志、さん?」
 ……どういうこと?
「あの」
「俺だって、ほんとは」
 俯いてそう呟いた彼は立ち上がった。目の前にある大きなクローゼットから毛布を引っ張り出し、洋服と一緒に手に持った。
「おやすみ」

 頭ががんがんする。彼が階段を下りていく音が遠くなる。下の階でドアを開け閉めしたのがわかった。
 起き上がって、彼が掛けてくれた布団を胸まで引き上げ、どうしたらいいのかわからないまま、ベッドの上で呆然としていた。
 どうして? なんで? 何がいけなかったの……?
 そんな言葉だけが頭の中をぐるぐるめぐり、気付けば涙が零れていた。白いカバーを掛けた布団に落ちた涙が染みを作っていく。
 体を丸めて横になり、布団を引っ張って頭まで被った。
 初めてだってバレちゃったの? それが重かったの? それとも軽い子だって思われたの? 急にどうしたの? あったかいって言ったことの、何がおかしかったの? 私、嫌われたの?
 何が何だかわからなくて、彼の気持ちが全然読めなくて……声を殺して布団の中で泣いた。さっきまでここにいた彼の温もりと匂いが、余計に涙を誘ってどうしようもない。

 なかなか眠れなくて、うとうとしかけた朝方、何かの音で目を覚ました。
 薄明るい部屋の中に私ひとり。ここは大好きな人の部屋のはずなのに寂しくてたまらない。
 虚しくなってまた涙が零れそうになった。置いておいた洋服をのろのろと身に着ける。ベッドを整え、バスタオルを拾って畳んだ。
 その時、階下でドアの閉まる音がした。荷物を持って恐る恐る階段を下りていく。どんな顔して、会おう。階段下にいる気配はなく、勇気を出してドアを開け、ホールに向かった。
 予想に反して、そこにも彼の姿はなかった。椅子カフェ堂のホールは、白いロールスクリーンから柔らかな朝の光が入り込み、私を暖かく包んでくれた。雨は止んで晴れている。鳥の鳴き声がうるさいくらいに元気よく響いてた。
 荷物をカウンターに置いて辺りを見回す。厨房を覗いたけれどいない。振り向くと、窓際のテーブルに食事が用意されていた。お皿の上に形の良いオムレツとベーコンとサラダ、小さなロールパン。
 近づいてよく見ると、その横には一枚のメモがあった。

 くるみちゃん、おはよう。
 朝食作ったから食べな。
 俺は市場に行ってくる。
 開店ぎりぎりまでは戻らないから
 好きなように厨房使って準備進めてていいよ。
 一旦家に帰るなら鍵かけて置いて。
 厨房にコーヒー淹れて保温してあるから、
 飲んであったまるんだよ。
 永志

 メモを掴んで声を上げて泣いてしまった。
 昨夜のことに何も触れてない。こんなのって……ないよ。
 何もしなかった訳じゃない。でも最後までじゃない。中途半端に置き去りにされた私は、どうすればいいの?
 きっともう二度と、あんなふうに、さわってはくれない。全部、知りたかったのに。

 彼が淹れてくれた今朝のコーヒーは、特別苦い味がした。