彼は黙ったまま私を見上げている。
「ごめんなさい。店長を困らせるようなこと言って。今までずっと、言っちゃいけないと思って黙っていたんです。でも我慢できなくて」
「何で?」
「え?」
「くるみちゃんが我慢できないような何かが、あったってこと?」
 急に向けられた真剣な眼差しに戸惑ってしまう。
 今ここに来たのは貴恵さんに彼を取られたくなかったからだけど、その前からずっと店長が好きで、でも気持ちを伝えられずに我慢してて……
「店長が悩んでる姿が、すごく寂しそうに見えたんです。どうしても傍にいたくなって、それで」
 彼のおばあさんが亡くなって、お店が大変なことになって、私が椅子カフェ堂に必要なのかどうかまで考え始めて、彼の後姿を見て胸が張り裂けそうになって……どれが理由なのかと問われると明確に答えられないほど、今の私にはたくさんのものが圧し掛かっていて、上手く伝えられなかった。

「くるみちゃん」
「今夜は傍にいさせて下さい。永志さんの気持ちが私になくても構わないんです。私のこと、嫌いですか?」
「……嫌いなわけないじゃん。好きだよ」
 その好き、が私の好きと同じものとは到底思えない。でも今はそんなの、もういい。
「だったら」
「くるみちゃん、自分で言ってることの意味本当にわかってる? 俺の気持ちがどうだろうが、ここに泊まって俺に抱かれたいって、くるみちゃんはそう言ってるんだよ?」
 彼は私の両方の二の腕を掴んで、言い聞かせるように言葉を吐きだした。
「わかってます。こんなこと冗談で言えません。私は永志さんが好きなんです。だから」
「……ありがとう。でも俺は、くるみちゃんの気持ちに応えられない」
 私を掴んでいる彼の手の力が弱まり、声が静かなものに変わった。
「店が今こんな状態で、店だけじゃない、俺だってこの先どうなるかわからない。くるみちゃんの大切な気持ちに責任持てないんだよ、今は」
「それでもいいんです」
「正直に言うよ? 俺も男だからそう言われるのは嬉しいし、拒否したくない気持ちもある。でも、くるみちゃんが俺とそういう関係になって、明日からぎくしゃくして、店に来てくれなくなったら、それこそ困るんだよ。くるみちゃんがいないと、この店は機能しないところまで来てるんだ」
「私は絶対に、お店をやめたりしません」
「今はそう思ってても保証できないだろ? 好きになってくれて嬉しい、本当に。でも体の関係を持っても今は店のことでいっぱいで、くるみちゃんの気持ちまで思いやってあげられない。……俺ってそういう奴なんだよ」
 手を離した彼が顔を伏せる。
「ごめんな」
「……」
「帰りな。俺はくるみちゃん好きだよ。嫌いになんかならないから、絶対。ずっと」
「嫌です! 嫌……!」
 立ち上がった彼に抱きついた。
「くるみちゃん」
「店長の好きは私の好きとは違います。それでもいいんです。今は私の気が済むようにさせて」
 駄々っ子のように彼を困らせているのはわかってる。でもここまで来たら、もう引き返せないよ。
「お願い……! 今夜だけでいいんです。お願い……」
 彼の背中に両手を回してしがみつき、その胸に顔を埋めた。

 長い沈黙が苦しい。外は静かな雨が降り出している。お互い、その場から一歩も動けずにいた。
 こんなことしてる自分が信じられない。でも、拒絶されたくない。一緒にいたい。
「十五分後」
 彼の呟きに顔を上げた。彼は私の頭に手を置き、遠くを見ている。
「事務所の隣にある俺の部屋に行くドア、わかるよね。くるみちゃんが看病に来てくれた」
「はい」
「階段と逆側の奥に風呂場があるから、そこ使って。俺は今からシャワー浴びて先に上にいる。その間に気が変わったらすぐに帰るんだよ? いいね?」
 ようやくこちらを見下ろした彼に小さく頷く。
「上の階にくるみちゃんが来たら、どうなってもいいって了解得たことにする。やめるなら今だよ」
「……わかりました」
 返事をしたと同時に、彼は私から離れてレジの後ろを通り、奥に行ってしまった。

 十五分という短い時間が、とてつもなく長く感じた。
 私は荷物を持って奥に行き、彼の部屋に続くドアのノブに手を置いた。
 店長が言ったように、引き返すなら、今。このまま家に帰って、明日からまた何事もなかったかのようにお店に通うことができる。だけど店長とはきっと、今まで以上に見えない距離が出来てしまうはず。そんなふうになってしまうのなら、体を重ねることで少しでも近付きたかった。私のことを、あの人よりも前に知ってほしい。
 ノブを回して中に入る。電気が点いていた。人の気配はなく、店長はとっくに二階に上がっているようだった。小さな三和土で靴を脱ぎ、奥の大きな引き戸まで歩いて行く。
 音がしないように静かに開けると、脱衣所に新しいバスタオルが置いてあった。石鹸の香りに胸が締め付けられる。今、彼がこの香りを使ったんだと思うだけで、どうにかなりそうだった。
 シャワーを浴びて彼と同じ香りを身に着けて、お風呂場を出る。
 着ていたものは下着まで全て畳んで手に持った。バスタオル一枚を体に巻いて二階に上がる。今日は暖かかったけど、さすがにこの時間は足の裏が冷たい。弱い雨が降り続けている音が聴こえた。
 本当は迷ってる。求められていないのに自分から飛び込んで、こんなのとても惨めなことなのかもしれない。初めてで怖いはずなのに、自分を止められない。

 階段を上がり部屋の前まで行き、木製の引き戸を軽く叩いた。返事が無い。
 小さく息を吸い込んで引き戸を開ける。薄暗がりの中、彼は長袖Tシャツに柔らかそうな生地のパンツを穿き、床に座って膝を立て、ベッドにもたれ掛っていた。ベッドサイドにある小さな明かりの下で、読んでいたらしい雑誌を閉じながら顔を上げた。
「くるみちゃんって意外と強情だよね」
 私の姿を見た彼は苦笑して、困ったように俯いた。
 きっと彼は時間が経過すれば、私が諦めると思ったんだろう。逆に私は余計に気持ちが昂ってしまったのに。
 バッグと洋服を手にしたまま彼のベッドへ近付く。俯いている彼の前で立ち止まり、荷物を横に置いて膝を着いた。
 彼の左手を取って顔を近づける。大きな手の甲には、いつものように火傷の痕が残っていた。古いものから新しいものまで。瞼を閉じ、その傷にそっと唇を押し付けた。
 これが今の私の精一杯の気持ち。店長が、永志さんが……大好き。
「くるみちゃん。そんなことされたらもう、無理だよ。我慢できない」
「いいんです。お願い」
 言い終わらない内に、その胸に引き寄せられた。抱き締められて、私の耳に彼の心臓の音が伝わる。呼吸が早くなった時、頬に触れた彼の指が私の顎をそっと持ち上げた。ぼんやりとした明かりの中、すぐ傍の彼と目が合った。
 眉根を寄せた彼に瞳で訴える。
 今は私のことだけ考えて欲しい。悲しみと苦しさを、ほんの少しでいいから分けて欲しい。膨れ上がるこの気持ちを、その手で楽にして欲しい。もっと触れて、足りないものを埋めて欲しい。
「永志さ、」
 名前を呟いた唇が彼の唇に塞がれた。瞼を閉じて受け入れる。柔らかい舌が入り込み、口の中をあちこち舐められ、注がれる彼の甘い密を喉を鳴らして何度か飲み込んだ。何度も気が遠くなる自分を感じながら、彼に合せて必死に舌を動かし続けた。
 長いキスのあと、顔を離した彼は私を抱き上げ、すぐ後ろのベッドへ横たえた。その上から彼が私に覆い被さり、弾みでベッドが大きく軋んだ。
 部屋の中を温めるエアコンの小さな音が静かに響いている。外は春の雨。

 どうなるかわからないけれど。
 怖くてたまらないけど、永志さんなら……いい。