窓際に雑貨と一緒に置いたお花は、明るい黄色のミモザやラナンキュラスに夢ほたる。それぞれの黄緑や緑の葉の色と共に春らしさを演出した。
 ランチの時間になっても、今ホールにいるのは二組のお客さんだけ。他の人が入る前に外へ行き、窓際のディスプレイをもう一度確認した。
 色は華やかだけど清楚で可愛らしいお花。どうかたくさんの人に見てもらって、ここで足を止めてもらえますように。

「可愛いわね」
 後ろから声を掛けられ振り向くと、何度か来店してくれたことのある彼女がいた。カプチーノとチーズケーキを褒めてくれた四十代くらいの女性。
「あ! いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「どうぞ、お久しぶりです」
 ドアを押し開け、先にお店に入ってもらった。
 まだ忘れられていないことに嬉しくなり、お水とメニューを持って笑顔で彼女の元へ行った。
「いらっしゃいませ。今日の日替わりはアスパラとブロッコリーとイタリアンパセリのバジルパスタ、ベーコンとジャガイモのクリームスープが付きます」
「どう?」
「はい?」
「似たようなお店が出来たじゃない? 駅の傍に」
 カフェ・マーガレテのことだ。
「ええ」
「お客さん取られちゃった?」
 私を見上げた彼女は微笑んだ。どうしてそんな表情をするんだろう。私たちにとっては切実な問題で、楽しい話題ではないのに。嬉しかった心に影が落ちた。
「……そうかもしれません」
 まさか、この人。
「でも、店長の作るカプチーノもお食事も味はどこにも引けを取りません。以前褒めていただいたチーズケーキも。だからこの味を思い出して、またこちらに来店していただける自信はあります」
 まさか、カフェ・マーガレテの為に椅子カフェ堂に偵察に来たのでは……という人じゃないよね?
「まだ具体的な方法はわかりませんけど、そうなれるように頑張ります」
「そうね。うん、そうよね」
 彼女は満足げに何度も頷いた。この人の真意が、わからない。
 ランチと苺ショートケーキを頼んだ彼女は、テーブルに運ばれた料理とケーキを見ながら熱心にメモを取り始めた。そしていつも通り美味しそうに味わい食べ終わると、レジにいる私のところへ会計に来た。
「ありがとうございます」
「美味しかったわ。近いうちにまた来ます。今度は仕事関係の人とお邪魔しますね。その時は予約入れますから」
「はい。お待ちしております。ありがとうございました」
 やめよう、変なこと勘繰るの。お客さんを疑うなんて良くないよ。


 閉店後の仕込みを終えたところで店長が言った。
「くるみちゃん、このあと用事ある?」
「いえ、特には」
「着替え終わったらホールに残ってくれるかな。ちょっと話があるんだ」
「あ、はい。わかりました」
 何だろう。真面目な顔をしてる店長に嫌な予感しかしない。ここを辞めて欲しいとか? それはないと思いたいけど、最近の二人の関係からして、面倒だと思われている可能性は少なくないよね。
 重たい気持ちを抱えながら事務所で着替え、思い切ってホールに向かった。あれ? ホールの雰囲気が違う。いつもより薄暗い。慌ててレジの後ろからホールに入った瞬間驚いた。
 全てのテーブルに蝋燭が灯されている。
「綺麗……」
「誕生日、おめでとう!」
 大きな店長の声と共に拍手が起きた。店長と職人さんが椅子に座ってこっちを向き、手を叩いている。
 胸が詰まって返す言葉を探していると、店長が不安そうな声で言った。
「あれ、違ったっけ? 履歴書に書いてあった日付、今日だったと思うんだけど」
「今日です。でもだって、こんなの……」
 覚えててくれたことが信じられない。それをこうしてお祝いしてくれることも。
「今、料理運んで来るから良晴の隣に座って。たいしたものは作ってないけど食べて帰んなよ」
 立ち上がった店長が微笑んだ。
「ありがとうございます。嬉しいです」

 職人さんが買ってきてくれたというワインで乾杯をした。
「おめでとう、くるみちゃん」
「おめでとうさん」
「ありがとうございます!」
 フルーティーな甘口で飲みやすくて美味しい。
 大きなお皿に店長が作った数種類の前菜が形良く載せられている。テーブル中央にはガラスのボウルに盛られた、窓際のお花のように仕上げたみず菜とカブのミモザサラダ。その横でビーフシチューが良い香りの湯気を立てている。住谷パンのバゲットも並んだ。
「永志、何で俺の誕生日はスルーなわけ? 俺にこそ豪華なごちそう作ってくれてもいいんじゃないの?」
「男の誕生日祝ってもつまんないだろ。それにお前の誕生日、半年も前に終わってんじゃん」
「つまんないってさー、俺は楽しめるのにさー」
 私の隣でぶつぶつ言ってる職人さんをスルーした店長が私の方を向いた。
「くるみちゃん、どう?」
「すごく美味しいです。店長って本当に何でも作れますね」
 良かったと言って店長は前菜を口にした。
 アスパラと茄子のフリッター、生ハムとラディッシュの胡麻ソース和え、大葉とモッツアレラチーズとプチトマトのオリーブオイルがけ。彩りの良い前菜は見ているだけでも楽しい。
「永志、この前の休み、どこ行ってた? 俺ここに来たんだけど、いなかったよな?」
「味の確認と経営のノウハウ、改めて勉強しに行った」
「前に修行したとこ?」
「そうそこ。役に立ったよ。また行ってくるけど」
 今日もお客さんは減ったきり。そろそろ戻ってきてくれてもいいんじゃないかと期待しているのだけど、なかなかそう上手くは行かなかった。
「あんま、思い詰めんなよ?」
「この状況で思い詰めないでいられる方法があるなら教えてくれよ」
 職人さんの珍しく心配そうな声に、店長が苦笑した。
「何にもしないで負けるのだけは嫌なんだ。出来る限りのことはやって、最後の最後まで諦めたくない」
「……悪い」
「いや良晴は悪くない。俺のが悪かった、ごめん。今日はくるみちゃんの誕生日なんだから、こういう話はやめよう」
 明るく笑った店長が私と職人さんに、ワインのおかわりを勧めた。

「時にくるみ。お前何歳になったの?」
 ちょっと職人さん酔ってない? 目が据わってるような気がするんだけど。
「二十五です」
「二十五? え、二十五?」
「何で二回も訊くんですか」
「もう少し成長した方がいいんじゃねーの? 背とか胸とか尻とか頭の中身とか。ああ、もう年齢的に成長は無理か、いてー!」
 隣に座る職人さんの腕を思い切りつねってやった。
「店長、この人セクハラで訴えてもいいでしょうか? この前はパワハラもしてきたんですよ」
「いいんじゃない? くるみちゃんが全力で向かっても勝てなさそうだけどな」
 店長が笑った。前みたいに……笑ってくれた。たったそれだけのことなのに嬉しくて涙が出そう。私は慌てて職人さんの方を向いて、右のてのひらを差し出した。
「何だよ、この手は」
「職人さんは私に何にもないんですか?」
 この気持ちを誤魔化すのが大変だよ。職人さん、ごめん。
「は? 何で俺が? お前のために? 何の義理で? お前、俺に何もくれなかったじゃん。俺はワイン買って来たんだからいいだろ」
「ほとんど自分で飲んでるじゃないですか。じゃあ、あれでいいです」
 雑貨のコーナーを指差した。
「人の話しを聞けって言ってんだよ。何にっこり笑って指差してんのお前は。金出して買え」
「バースディ割引とかなし?」
「あるわけないだろ」
 そう言い終わると、職人さんは突然私に、にやっと笑いかけた。……何? その含み笑いは。

「時に永志」
 ワイングラスを片手に職人さんは店長に向き直った。
「何だよ、改まって」
「お前って恋愛の悩みとかないの? 昔からそういうの聞かないけどさ。お前が言わないだけか」
「唐突にどうしたんだよ、その質問は」
「たまにはいいじゃん。聞かせろっつってんの」
「お前ワインどんだけ飲んでんだよ。帰れなくなるぞ?」
「俺が買って来たんだから、いくら飲んでもいいだろが。帰れなかったらここで寝る。まあ、お前は昔から悩んだりはしてないよな。女なんてよりどりみどりだもんな〜」
 もしかして職人さん、この前私が悩んでいるのを知ったから、わざと店長に話を振ったの? さっきの意味深な笑いはもしかしてこれ?
「悩んでるよ」
 店長が顔を伏せて真面目な声で言った。
「俺だって、そういうことで悩むよ。人間なんだから当たり前だろ」
「へー。好きな女とかいるんだ?」
「いるよ」
 茶化すように訊いた職人さんの質問に店長は躊躇うことなく返事をした。
 好きな人、いるんだ……。彼女はいなくても、好きな人はいたんだ。もしかしてその人のことを思い出して、途中で止めたの? ショックでスプーンを持つ手が止まる。
「それってさ、俺が知ってる奴?」
 職人さん、もういいよ。そんなの、お祝いしてくれてるこの場所で知りたくないよ。お願いだからやめて。
「さあね」
 苦笑した店長はワインを口にして誤魔化した。
「良晴、お前はどうなんだよ?」
「彼女とか恋愛とか、そういうの全てが面倒くさい今日この頃です」
「貴恵、最近来ないな」
「忙しいんだろ。うるさいのが来なくなって快適じゃん」
「そう言うなよ。あれでも、いろいろ考えてくれてるんだから」

 蝋燭の明かりがワイングラスに当たって、きらきら光っている。
 もう、彼のことを好きでいるのは、やめよう。
 こんな気持ち邪魔になるって、迷惑になるって、初めからわかってたんだから。今ここできっぱり決めないと、店長と関わる度にまた何度も恋してしまいそうで怖い。

 ビーフシチューをスプーンで掬い、口に入れた。とろけるお肉、甘みのある野菜。一体何時間手を掛けて作ってくれたんだろう。
 ……美味しくて、泣ける。