陽射しの強くなった八月上旬。街中でも木々にとまった蝉の声が響いていた。
 東京駅まで迎えに来てくれた黒塗り二頭立ての馬車が、日本橋にある百貨店の前に到着した。
「お疲れではありませんか、蓉子さん」
「ええ」
 直之様の手に引かれて馬車を降りる。
「お待ちしておりました。お足もとにお気をつけて、行ってらっしゃいませ」
「ありがとう」
 私たちの前に現れ、恭しく挨拶をした支配人が下足番を呼ぶ。案内された通り、入口で草履を脱いで下足番に渡した。直之様の革靴と共に一般の方とは別の下駄箱に置かれる。用意された履き物に足を入れ、百貨店の中へと進んだ。

 清潔な館内は様々な店が入っており、通路はまるで外の往来の様に御買い物客が行き交っている。なんて広いのだろう。はしたないとは思っても、どうしても辺りを見回してしまう。隣を歩く直之様は行く先々で店員に深々とお辞儀をされていた。
 挨拶を交わした後、彼が私に言った。
「今日はあなたのお好きなように回ってみましょう」
「ありがとうございます」
 直之様は私との結婚披露宴の後、こちらの百貨店の副支配人になられた。横浜の貿易部には今も在籍されていて、週の半分をこちらへ通い、前にも増してお忙しそうなご様子でいらっしゃる。
 ちょうど良い機会だからと、直之様は私を連れて百貨店を案内して下さることになった。夫の仕事場を目の当たりにするなど滅多にないことの筈。彼を支える妻として、しっかりこの目に焼き付けておかねば。
「いかがです? こういった物は」
 お化粧品売り場の前で、直之様が私の顔を覗き込んだ。緊張する私とは違い、彼はとても楽しそうだった。
「雑誌で拝見したものと同じで驚きました」
「気に入ったのがあれば買って帰りましょう。君、ちょっといい?」
 直之様が顔を上げると、すぐに店員が傍にやって来た。今流行なのだろうか、彼女は薄桃色の口紅と、くっきりとした目もとのお化粧をしている。
「奥様は大変お綺麗なお肌をされていらっしゃいますから、お化粧がよく映えますわね。下地にこちらの外国製のクリイムなどはいかがでしょう。肌馴染みもよろしくて、暑い時期にもべたつくことはございませんのよ」
 お試しにどうぞ、とクリイムを手の甲に載せられた。広げて伸ばすと、確かにしっとりとしてくる。
「良い香り」
「薔薇の香料が入りましてございます」
 ではそれを貰おう、と直之様は相変わらずどんどん決めておしまいになった。
 結局、その後回った三軒のお化粧品売り場で、白いお粉や口紅、化粧水に香水などを買っていただいた。女学校を卒業したばかりとはいえ人の妻なのだから、直之様にも気に入っていただけるようなお化粧の仕方も覚えなくては。
 人の妻、の言葉に頬が熱くなった。自分で思い浮かべておきながら、何故か照れてしまう。

 呉服屋や洋靴のお店などでお買い物をし、次はお帽子や手袋等が売っている場所へ。ここは初秋の香りがする小物がたくさん置いてある。
「このような帽子も、あなたによくお似合いですよ。秋物のショールもいいな」
 ほら、と私の頭にお帽子を載せた直之様の視線が眩しくて……こんな場所だというのに、彼を見つめる私の瞳が潤んでしまった。彼の傍にいるだけで、心がふわふわとして全てが喜びに変わってしまう。新婚というのは皆、このようなものなのかしら……? 今度美代子さんたちにお会いした時にでも伺ってみよう。
 品物は横浜の家に送る様にと店員へ言付けた直之様と一緒に出口へ向かう。
「もう他にはよろしいか?」
「ええ十分です。ありがとうございます。あんなにたくさん、よろしいのかしら」
「またあなたはそうして遠慮なさる。俺に任せて、お好きなだけお買いなさい」
「……申し訳なくて」
「まぁ、そのように慎ましいあなただから、余計に何でも買って差し上げたくなるのですけれどね」
 微笑まれた直之様は私の腰に手をあて、行きましょうと百貨店の外に連れ出した。

 そこから人力車に乗って日本橋から銀座方面へ向かった。
 広々とした通りには路面電車が走り、その横を大八車を引く人や自転車に乗る人、私たちの様に人力車で移動する人が行き来していた。もちろん多くの人々が歩いている。通り沿いはたくさんのお店が並び、大きな時計塔や煉瓦造りの建物などもあった。隣に座る直之様が通りの名や、どんなお店があるのかを教えて下さり、楽しく移動時間を過ごせた。
「到着いたしました」
 人力車から降りると、直之様が俥夫に告げた。
「観劇が終わる頃に来てくれ」
「かしこまりました」
 荘厳な佇まいの帝国劇場前で立ち止まり、思わず感嘆の声を上げた。
「素晴らしい建物……!」
 石造りの立派な洋館は、まるで大きなホテルのよう。車や馬車で到着した方々が劇場の入口から中へ入っていく。
「私、観劇は初めてなのです。何か失礼にあたるような装いはしていないでしょうか?」
 直之様が選んで下さったお出かけ用の夏着物を着ているからそれは安心だけれど、髪形や持っているバッグなど、場にそぐわないことだけは絶対に避けたい。
「どこもおかしなところなどありませんよ。誰が見ても美しい俺の自慢の妻です」
 突然褒められて、お顔全体がかっと熱くなった。咄嗟に俯くと、直之様が私の背中を優しく押した。
「今日は女優劇のようです。切符は取ってありますから、行きましょう」
「……はい」
 彼が差し出した白いシャツの腕に手を添え、共に劇場内へ入った。
 大きな会場内に番号の付いた座席がずらりと並んでいる。床が適度になだらかで、どのお席からも舞台がよく見えそうだった。全てに紅い絨毯が敷かれている。席に着き、高い天井や豪奢な舞台に、ただただ圧倒され続けている私に、直之様がおっしゃった。
「オーケストラも聴きに来ましょうか。ピアノを弾かれるあなたならクラシックもお好きでしょう」
「ええ……! 夜会にお招きいただいた時の四重奏をとても素敵だと思ったの。そのような場に行けるのでしたら嬉しすぎて私……どうにかなってしまいそうです」
「そのようなあなたの笑顔を見られるのであれば、毎日でも切符を取ってあげたいな」
 直之様の指が私の頬をふわりと撫でた。彼の優しい眼差しとお声に、胸がきゅっと痛くなる。

 一か月ほど前の七月、直之様と私は結婚式を挙げた。たくさんの方がいらっしゃった盛大なものだった。特に直之様方は、ご親戚やお仕事関係の方、果ては政治関係の方までいらして……私などが直之様のお相手で本当に良いのかと気後れしてしまう程だった。
 でも、お優しいこのお方は、私に気を遣わせないようにと披露宴の間中、尊大な態度などは全く見せず、常に寛いだご様子で私の傍にいてくださった。
 その後も毎日このように直之様から愛を受け取っている私は、この上ないほどの幸せを味わっている。
 ただ最近、私の側に少しだけ気に掛かることがある。直之様にご相談するのが一番いいように思うのだけれど……何となく、どう伝えて良いのか躊躇っていた。

 観劇後、果物食堂フルーツパーラーを訪れた。洒落た名前にぴったりのモダンな三階建の洋館の二階へ。そこは高級果物がメニューに置いてある喫茶室。
 桃と葡萄、西瓜が美しく切り分けられ、平たいグラスに盛られて、私の前に運ばれた。口に入れるとどれも食べたことのないくらいに甘く、瑞々しい。
「とても美味しいです」
 落ちそうな頬を手で押さえる私に、直之様は嬉しそうに頷いた。彼は檸檬の輪切りが入った温かいお紅茶を頼まれた。
「観劇はどうでしたか?」
「とても楽しかったです。皆様の歌声の素晴らしかったこと……!」
「ええ、よく通る声でした。内容もわかりやすかった。何より」
「?」
「俺は、あなたの横顔を見るのが楽しかったですよ。興奮気味に頬を赤く染めていらっしゃる様子に、思わず見惚れてしまった」
 くすっと笑った直之様がお紅茶をひとくち飲まれた。その穏やかなお声に寄り掛かりたい気持ちが、最近の心配事を胸に甦らせる。このような場所でお話することではないかもしれないけれど……
「……あの、直之様」
 どのようにお伝えすれば良いだろう。あれこれ巡らせるよりは、有りのままをお話するのが一番だろうか。
「どうされた? アイスクリンも頼んで宜しいですよ」
「ち、違います。子ども扱いしないでください」
「ははっ、妻になられたらもう召し上がらないのか」
「いえ、いただきますけれど……」
 目を伏せた私に、直之様が慌てて言葉を続ける。
「すみません、あなたが可愛らしくて、ついからかうようなことを。どうされた? 何でもおっしゃってください、遠慮せずに」
「……おやや、は」
「ん?」
「おややがお腹に宿ったら、どのような症状が現れるのでしょうか」
「!!」
 私の言葉に大きく目を見開いた直之様が、お紅茶のカップを倒した。がちゃん、という音に気付いた給仕がやってくる。
「あ、ああ、申し訳ないね」
 カップを持ち上げた直之様が給仕に言った。零れたお紅茶がクロスに赤茶色の染みを作っている。
「お代わりをお持ちいたしますね。テーブルクロスをお取替えいたしますので、少々お待ちを」
 給仕が去ってから、その場で直之様に頭を下げる。
「申し訳ありません、どうしても気になってしまって……。直之様にお伺いするのが一番かと思いまして……」
「いえ、いいんですよ。少々驚いただけですから」
 クロスを取り換え、新しいお紅茶が運ばれたテーブルを二人で見つめた。やはり、このような場所で言うべきではなかったのだわ。
 しばらくの沈黙の後、気まずい雰囲気のまま甘い西瓜をひとくち食べた私に、直之様がおっしゃった。
「今夜は帝国ホテルに宿を取ってあります。俺と一緒に帰るとはいえ、あなたを夜遅くに連れ回すのも忍びないので用意したのですが、ちょうど良かった」
「帝国ホテルに?」
「もしも……あなたが本当にそのような状態であるならば、今日はこれ以上疲れさせるわけにはいきません。すぐにでも参りましょう」
 手を上げた彼は給仕に声を掛けて、その場で支払いを済ませた。


 直之様はわざわざ自動車を呼んで、帝国ホテルまで私を連れて来た。お部屋に荷物を運んだホテルマンに声をお掛けになる。
「君、悪いが近くの書店で本を買ってきて欲しいのだが」
「どのようなものでございましょう?」
「医療の本だ。主に妊婦や出産について書かれているものを」
「かしこまりました。少々お待ちを」
 直之様は居間の窓際にあるソファに私を座らせ、白いシャツの袖を捲りながら隣に腰を下ろした。心配そうに私の顔を見ている。その視線に答えるように、静かに口をひらいた。
「月のものがまだ、来ないのです。三週間ほど遅れていて」
「なるほど。他に何か変わったことは?」
「何となく怠いような気がいたします。今日は少々頭痛も」
「馬車などに乗せて揺らさない方が良かったか」
 呟いた直之様は立ち上がり、顎に手を当て、美しい調度品の並ぶお部屋の中をうろうろと何度も往復した。
 直之様のおややなら、こんなに嬉しいことはない。けれど、もしも本当に彼の大切なおややを授かっていたとして、何に気を付けたらよいのか、そもそもどう過ごしたら良いのかもわからず不安な気持ちでいた。直之様は何でもご存知の筈だからと相談してみたけれど、彼にだってこのようなことは初めてなのだ。何も知らなくて当たり前。そう気付いた途端、不安だった気持ちが幾分か和らいだ。

 早々に戻ってきたホテルマンから本を受け取った直之様が、頁を捲って読み始めた。
「滋養には鰻、浅利、卵……ああ、カルピスも良いのか。うちの百貨店で発売したばかりだったな。それは取り置きして……とりあえず、今夜はここに書いてある物をルームサァビスで頼むか」
「そのような」
「ここでゆったり食事をとりましょう。俺もその方が心配なく、落ち着けますから」
 微笑んだ彼は再び本へ視線を落とした。その横顔は真剣で……私の為の行動なのだと思うと胸が熱くなる。直之様の妻になって良かった。私は世界一の幸せ者なのだわ……
 その時ふと、下腹に違和感を覚えた。ソファに置いたバッグを持ち、御不浄のあるバスルウムへ急いだ。まさか。
 御不浄を出た私は、どうしたものかと途方に暮れた。鏡に映った自分の顔を見て情けなくなる。溜息をひとつ吐き、意を決して彼のいる居間へ戻った。
 まだソファで熱心に本を読む彼に声を掛ける。
「申し訳ありません。あの、直之様」
「どうされた?」
 顔を上げた直之様を避けるように俯いた。……正直に、お話しよう。
「申し上げにくいのですが……月のものが、只今参りました」
「え」
「私の勘違いでした。申し訳ありません……!」
 頭を下げてお詫びの言葉を差し出す。
 きっと、深くがっかりさせてしまったに違いない。早合点した私に呆れられただろう。もしも嫌われてしまったら……思った途端、目に涙が浮かんだ。
「お顔を上げてください、蓉子さん」
「すみません……」
「いいんですよ。披露宴もありましたし、緊張の連続だったのでしょう。体調に変化があってもおかしくない。そう気にせずとも、こちらへいらしてください。俺の隣に」
 恐る恐る顔を上げると、私に優しく微笑む彼の視線とぶつかった。その表情に胸がきゅっと窄まる。
 絨毯の敷かれたお部屋の中を静々と進み、手招きする彼の隣へ座った。
「何もあなたが気に病むことはない。もしそうだったら嬉しいというだけで、俺はあなたが傍にいてくれればそれで十分なのですから」
 傍に来た私の肩を抱き、もう片方の手で私の手を握った直之様がおっしゃった。
「でも、跡継ぎを早くに望まれるのでは……?」
「そんなことはありませんよ。俺は血で経営を継ぐよりも、商才のある者が継いだ方が良いと思っているくらいですから」
 窓から入る夏の夜風が、私たちの頬を撫でていく。カーテンが風にふわりと揺れた。
「勿論、あなたとのお子に継がせたいという気持ちもあります。だからと言って焦ることはない。それに」
「それに?」
「まだ新婚ですからね。あなたと二人きりの時間をもう少し楽しみたい、という本音もありますので」
「……直之様」
「二人きりで好き放題したいんですよ、俺は。……こんなふうにしたり」
 悪戯っぽく笑った彼が私の頬に軽く接吻をした。
「……こうしたり」
「ん……」
 今度は唇を重ね、深い接吻をくださる。舌を絡めながら、労わる様に私の体を摩る彼の手が温かかった。
 顔を離した直之様の頬に私からそっと口付け、耳元で気持ちを伝えた。
「直之様が真剣に私の体を気遣って下さって、とても嬉しかったです」
「当たり前ですよ。大切な人が俺の子どもを、などと幸福な驚きを告げられては、真剣にならない方がどうかしている。……いや、俺も随分慌ててしまって、そこはお恥ずかしいばかりだが」
 珍しくお顔を赤くされた彼に、思わず頬が緩んでしまう。
「そのような直之様のお姿を見るのは初めてでした」
「笑ったな?」
「ふふ」
 二人で顔を見合わせて、くすくすと笑った。

 夜も更けた頃同じベッドで横になり、今日の出来事だけでなく、今までのことや将来のことについて、楽しくおしゃべりを続けた。
 私を抱き締める直之様の優しい感触と囁くようなお声が、いつの間にか幸せの深い眠りへと誘っていた。



次話は本編最終話の直之視点です。
少々黒い直之ですのでご注意を。