再びこうして、蓉子様のお傍にいられることになるなんて。私は何と幸せ者だろう。
姫様のお付きになるお許しをいただいた私は薗田家を出、昨夜こちらの西島家に到着した。直之様に連れられて姫様のお部屋の前に立った時は、緊張のあまり貧血が起きそうだったけれど、姫様のお顔を拝見したら、そのようなことは全てどこかへ吹き飛んでしまった。
直之様の計らいで姫様と共にこのお部屋で朝食を戴いた。
蓉子様はご実家で酷い仕打ちをお受けになった。姫様が川に身を投げようとしたお話を聞き、私は我慢できずに涙を零した。本当におつらいのは姫様だというのに、何と情けないことだろう。お優しい姫様は私を慰め、笑顔で朝食を勧めてくださった。
「私、お庭に出てみるわ」
珈琲を飲み干された蓉子様がおっしゃった。そのお言葉に不安が過ぎる。
ご実家からこちらへいらしても、今なお姫様はお元気がないのだと直之様から伺っていたから。
「お体はもう宜しいのですか?」
「ええ。サワが来てくれたせいか、とても元気が出て来たの」
「それはようございました。では片付けてしまいますわね」
「ありがとう、サワ」
私には勿体ないお言葉を掛けながら、姫様が箪笥の方へ歩いて行く。お召替えだろうか。慌てて手にしていた食器をテーブルへ置き、姫様の元へ急いだ。
「姫様、お待ちください」
「なあに?」
「お召替えのお手伝いをさせてくださいまし」
「一人で出来るわ。ここでは私、何でも自分でするのよ」
洋服箪笥の扉を開けた姫様は、そこに掛かったワンピイスを何枚か取り出し、ベッドの上に並べた。どれも花の様な姫様にぴったりの、美しいお洋服ばかり。
「お着替えも、お風呂も、学校へ行くお支度も全部よ。それにね、直之様がお召し上がりになるお紅茶を淹れるお手伝いだってするし、毎朝お庭から、お花の束を抱えて持って来たりもするのよ」
「あらあら、まぁまぁ……なんてこと」
「ふふ、サワのお顔ったら」
得意げに笑った姫様のお顔を見て、私まで嬉しくなる。
このように明るい表情をされたのは何年振りだろう。姫様は西島家のお邸で、直之様のお傍で……幸せに過ごされていたのだ。ご実家におられた時よりも、こちらでのご様子の方が生き生きとしていらっしゃる。それもまた、おいたわしいことなのだけれど……。
+
玄関前にいらした、シャツとおズボン姿の磯五郎さんへ駆け寄る。残暑は厳しく、蝉の鳴き声はまだまだ元気一杯だ。
「姫様を何卒、何卒よろしくお願いいたします!」
今日から蓉子様と直之様は避暑地の軽井沢へ行かれるという。
私が西島家へ入ってから一週間。姫様はまだ全快されたというわけではない。そのことが心配で堪らなくて……せめてもと、同行される磯五郎さんの元へ出発前にお願いをしに来た。
「え、あ、ああはい。俺に何が出来るって訳じゃあ、ありませんが、危険なことからは蓉子様をお守りいたしますので」
「ありがとうございます」
「顔を上げてくださいよ、サワさん」
磯五郎さんに促され、ゆっくりと頭を上げた。
「直之様が蓉子様のお傍に始終ついてらっしゃるから、ご安心を。磯五郎の出る幕じゃあない、なんてどやされるかもしれません」
あははと大きな口を開けて笑った磯五郎さんと一緒に、私も小さく笑った。屈託のない笑顔が気持ちを明るくしてくれる。
「サワさんは……」
「はい」
口ごもった磯五郎さんは私から目を逸らし、高い空を飛ぶ鳥を追った。どうされたのだろう。
「そのう、甘いもんとか、そういうのはお好きで?」
甘いもん、というのは飴玉や水菓子のことだろうか。
「え? ええ」
「軽井沢に行ったら何か土産でも買ってきますんで、それを楽しみに待っていて下さい」
「まぁ……私の様な者にそのようなお気遣いなど、されませんように」
「楽しみが出来れば心配事も減るでしょう。ね?」
こちらへ顔を向けた磯五郎さんが優しく笑った。そのお気遣いが嬉しい。とてもいい方なのだ、きっと。磯五郎さんだけではない、直之様はじめ、ここにいらっしゃる方は皆、突然来た私に良くしてくださる。
「ありがとうございます、磯五郎さん。それでは、お帰りを楽しみにお待ちしておりますので」
うん、と頷いた磯五郎さんは、直之様をお迎えにお邸へ入った。
+
小鳥のさえずりで目が覚めた。一人のお部屋をいただくなどという贅沢なことに、少しだけ慣れた朝。
今日は蓉子様が軽井沢より、お帰りになる日。楽しく過ごされて、おつらかったことが少しでも薄れていらっしゃれば良いのだけれど……。
姫様のお顔を早く拝見したい。お布団から起き上がり、そわそわしながら着物に着替えようとした時、襖の向こうから声を掛けられた。
「サワさん、起きられましたか?」
このお声はツネさんでいらっしゃる……!
「は、はい! おはようございます!」
慌てて裾を直し、襖を開ける。ツネさんもまだ寝巻のお姿だった。
「昨日届いた、あなたの洋服です。今日から、これに着替えてお仕事なさい」
「私の……?」
「着方がわからなければお教えしますので声を掛けてください」
「はい。ありがとうございます」
「お礼は直之様に」
「はい」
何とか自力で着替え、鏡台の前に立った。鏡に映る自分の姿に驚く。これが、私……?
「……いいのかしら。こんなにも素敵なお召し物をいただいて。汚してしまったらどうしましょう」
白の高さのある襟が付いた黒色のワンピイス。ツネさんとミツコさんが着ていらっしゃる物とは少しだけ形が違うみたい。大きな提灯袖は肘までの長さで、ワンピイスの裾はくるぶしと膝下の間くらい。これなら動きやすそう。着替え用にあと三着、襟や袖が少し違ったワンピイスも渡された。
洋服など一枚も持っていなかったから、心がうきうきとしてしまう。いけない、これはお仕事なのだから、浮ついた気持ちは捨て置かないと。
髪を編んで纏め、頭の上に白いひらひらとした飾りを載せ、真っ白なエプロンを着けた。
夕方の五時過ぎ。蓉子様と直之様を、横浜駅へお迎えに行かれた河合さんの自動車が、お帰りになられた。
姫様は大層お元気で、軽井沢でのことを楽しげにお話してくださった。心配なさそうなご様子ではあるけれど……何故かしら。姫様の雰囲気が出発前と何となく違う。どこかゆったりとしていて、幸せそうな気配に満ち満ちていらっしゃる。もしや直之様と……などと考えてしまうのは破廉恥だわ。ああ、卑しい私をお許しください、姫様……!
翌朝、玄関を出た所でお掃除をしていると、磯五郎さんが傍にいらした。軽井沢へはシャツとズボンでいらしたけれど、今日はいつもと同じ俥夫の格好だ。こちらの方が彼に似合っているような気がする、なんてお話したら、叱られてしまうだろうか。
「おはようございます、サワさん」
「磯五郎さん、おはようございます。軽井沢、お疲れ様でございました」
首に掛けた手拭いで額の汗を拭った磯五郎さんは、私の姿を上から下まで眺めていた。
「それ、似合いますねぇ」
「このお洋服ですか?」
「ええ。なんかこう……いい」
「え……」
視線を合わせると、彼は慌てて手にしていた何かを差し出した。
「え、あーと、いやそうじゃなくて、これを」
「? なんでしょう」
「軽井沢の土産です」
「……まぁ、可愛らしい根付! と、これは……岩海苔かしら?」
「いえいえ、パンに付けるジャムだそうです。珍しい木の実だかなんだかで……忘れてしまいましたが、ホテルの朝飯に付いてて美味かったんですよ。サワさんも食べてみてください」
「ありがとうございます。ツネさんたちとパンに付けてみますね。根付も、いただいて宜しいのでしょうか?」
「もちろんですよ。サワさんに買って来たんですから」
「では……お言葉に甘えて頂戴いたします。大切にしますね」
照れたように頭を掻いていた磯五郎さんが、急に表情を変えた。
「そうそう、それで軽井沢での蓉子様ですが」
「お出かけ先で何かございましたか!?」
「いやそのう……常に蓉子姫のお傍に直之様がいらしたんで、俺の出番は全くありませんでした。サワさんに頼まれたのにすみません!」
あ、そういうことだったのですね。ホッとして気が抜けた途端、磯五郎さんの真面目さが伝わって、私の頬を緩ませた。
「いやだ、謝らないでください磯五郎さん」
「お役に立てなくて……。いやぁ、直之様と蓉子様は仲が宜しくて、あれじゃあ俺が邪魔者みたいでしたよ」
磯五郎さんが大きな声で笑ったから、私も声に出して笑ってしまった。
本当に良かった。蓉子様を元気づけたいとおっしゃっていた直之様の思いが、姫様に通じられたのだわ。昨夜の姫様はお顔の色もよろしかったし、何よりとてもお幸せそうだったもの。
こほん、と磯五郎さんが咳払いをして私に言った。
「サワさんは、今まで横浜にいらしたことがおありで?」
「いえ、初めてです」
「じゃあ今度、サワさんのお休みの日に俺が俥で横浜を案内しますよ」
「私を、でございますか?」
直之様の計らいで、ここで働いている私たちにも順番に週一回のお休みをいただいていた。
「そうです。俺は最近自動車の運転を習い終わりまして」
「自動車ですか」
「ええ。直之様が蓉子様用にもう一台、車を用意しようという計画がおありのようで。ご卒業されたら、俺の運転で街まで出られるようにとのことなんです。俥も段々時代遅れになるんでしょうな。寂しいもんですが。まぁ……この辺りは坂が多いんで、自動車の方が楽っちゃあ、楽なんですけどね」
女学校まではそう遠くはない距離だけれど、私と姫様を載せて軽々と走る磯五郎さんはすごい、といつも思っていた。
「でもせっかくですから、その前にぜひ俥でサワさんを案内したいなと思いまして」
「ありがとうございます。でも、大変ではありませんか?」
「いえいえ、サワさん一人くらい何でもありませんよ」
姫様はご卒業なされたら、この西島家の奥様としてのお仕事がたくさんおありになるのだろう。それならば、自動車での移動の方が宜しいに決まっている。
「姫様は直之様のご実家の自動車にお乗りになったことを私に楽しく聞かせて下さいましたから、磯五郎さんの運転される自動車も、きっとお喜びになられると思います」
「サワさんは……本当に蓉子様を思っていらっしゃるのですなぁ」
磯五郎さんの穏やかなお声に私の心が反応した。ふと、蓉子様のことをお話してみたくなった。
「……姫様は、お優しいのです」
お土産を持っていない方の手で、竹箒の柄を握りしめる。
「私が薗田家へ女中として仕えて二年目のことでございました。故郷の父の容体が悪くなった、すぐ帰れと、母から電報が送られてきたのです。父は私に常々申しておりました。何事が起きても決して薗田家を離れるな、一度家に帰ることがあれば、そのまま女中を辞めさせられるだろうと」
磯五郎さんは黙って聞いて下さっている。
「このご時世です。子爵家へ仕えることなど、そうそう叶うことではありません。私は父の言葉を思い出し、平静を装って薗田家に留まりました。翌日、姫様がたくさんの折鶴を私に差し出しました。どうされたのかとお聞きすると、千羽折りたかったけれど間に合わなかった、これで我慢してくれと……。ひと晩で三百羽も折って、これを持って私に故郷へ帰るようにと……特別に計らってくださいました」
あの時のことを思い出すと今でも涙が浮かんでしまう。姫様が十二の時だった。
「姫様のお陰で父の最期に立ち会うことが出来ました。私は姫様に御恩があるのです。御恩だけではありません、姫様のお人柄を尊敬しているのでございます」
頬に流れた涙を拭い、姿勢を正して磯五郎さんのお顔を見つめた。
「この先もずっと、私の命に代えても姫様をお守りしていきたいと思っております」
彼もまた、真剣な瞳で私を見つめ返してくれた。
「俺も……直之様に対してサワさんと同じ気持ちで仕えてきました。蓉子様のことも、しっかりお守りしていくつもりです。あとは、その」
「?」
「サワさんのことも……守りたいなぁと思いましたよ、俺は」
急に変わった優しい視線に戸惑ってしまう。
「磯五郎さん……」
「じゃあ、まぁその……そういうことで! 休みの日に横浜ですよ。お忘れなく!」
照れたように笑った彼はくるりと背を向けて、門の方へと走って行ってしまった。
……何でしょう、この気持ちは。ほんわかと温かくなる気持ちと、檸檬を舐めた時のような、きゅんとする甘酸っぱい気持ちは……
手のひらに載ったお土産に目をやり、考える。
まずは姫様にお話してみよう。横浜を案内していただくこと、お土産の中身、そしてこの気持ちも……大切な姫様に、全部。
玄関脇の棚にお土産をそっと置いて、暑さの残る朝の空気を吸いながら、竹箒を動かし始めた。
次話は、無事に結婚披露宴を終えた、その一か月後くらいの蓉子と直之のお話です。