男の子の足下に水溜りができている。しかしここは雨が降るような屋外ではなく教室である。
俺に宇宙人語を教えてくれたようちゃんが、棚に置いてあった大量のタオルを使って、男の子のズボンをごしごしと拭いていた。……おもらしという名の、生理現象である。
語ってる場合か! 俺はせいいちくんを抱っこしたまま、しゅうへいくんと手をつないで部屋へ飛び込んだ。
「あーごめん! ごめんな、先生いなくてごめん!」
「せんせー……いわないで」
蚊の鳴くような声で、おもらしの主、たいちくんが言った。
「ん? 大丈夫だよ、言わないよ」
「まま、いわないで」
「まま?」
「まま、おこる」
ああ、そうか。こんなちっちゃくても気を遣ってるんだ。スモックの裾をぎゅっと握って、たいちくんは目に涙をいっぱい溜めていた。
「大丈夫だよ。先生がママに怒んないように言ってあげるよ」
「ほんとに?」
「うん。お手紙も書くし、お電話もしてあげる。大丈夫だから、パンツとズボン取り替えようね」
「うん。……うっうっ」
安心したのか、たいちくんは静かに泣き出した。しゅうへいくんの手を離し、せいいちくんを床へ下ろす。
「大丈夫、大丈夫。冷たかったね」
「せんせー、いっぱいふけたよ」
「ようちゃん、ありがとう。助かったよ。優しいね」
ようちゃんはタオルを見せてくれた。周りにいた女の子たちも、興味深げに彼女がしていることを見ている。
「しゅうへーもやる」
「せいいちも」
なんと、べそをかいていた二人がタオルを持って一緒に床を拭きだした。自分のことで一杯だったはずの二人が……。なんか、感動じゃないか。
「いこせんせー」
「りこせんせ、きた」
子どもたちの声に振り向くと、梨子先生が心配そうに俺のところへ走って来た。
「裕介先生、大丈夫?」
出たよ天使。なんなのこの人。もしかして俺がピンチになると来てくれる仕様の、特殊なセンサーでも付いてんのか?
「今子どもたちが教えに来てくれたの」
「センサーじゃなかった」
「え?」
「いえ、すみません。ちょっとお漏らしさせちゃって」
「替えられたんなら平気だね。ここは私が見ててあげるから、パンツとズボン、おトイレで洗ってきていいよ」
「1組は?」
「浅子先生がいるから大丈夫。行ってきて」
「はい。ありがとうございます。」
言われるがままトイレへ駆け込み、濡れたパンツとズボンを水道でジャブジャブ洗った。
「……」
こういうことか、清香先生が言ってたのは。目を離しちゃいけないんだ。たとえ1分でも1秒でも。もしこれが、おもらしじゃなかったら。重大な怪我をさせていたら。何も見ていなかった、じゃ済まされない。
窓辺にかかっている洗濯ピンチに、よく絞ったパンツとズボンを干した。帰りまでに少しは乾いてくれるだろう。
廊下へ出るとピアノの音が聴こえた。あれ、梨子先生自分の教室へ戻っちゃったのか?
案の定、梨子先生はいない。けど、鳴っていたのは俺の部屋のピアノだ。お片付けの曲が流れ、子どもたちもなんとなくおもちゃを片付け始めている。
ピアノの前に座っているのは清香先生だった。……どういうことだよ。茫然としたまま近付くと、清香先生は俺に言った。
「裕介先生、子どもたちと一緒に片付けて」
「……はい」
仕方無しに、子どもたちとおもちゃを片付ける。何なんだよ、ここは二人担任じゃねーんだぞ! 俺が担任、清香先生は補助! これじゃ俺が補助みたいじゃんか。
怒りに震える胸を抑えながら、子どもたちと一緒にぬいぐるみや積み木を片付けた。いつの間にか、さーちゃんも俺の仲間に加わっている。機嫌、直してくれたのか。
「できたね。じゃあみんな、裕介先生といこう」
立ち上がり、みんなを促したけれど、まだ返事はほとんどない。二、三人てとこだ。泣いている子を両手につなぎ、俺まで落ち込んだ気分で清香先生の方へと歩き出そうとした時だった。
「?」
背中がものすごく重たい。強い力で引っ張られてる感じがして、何事かとゆっくり振り向いた。
「あ……」
そこには俺のジャージのズボンやエプロン、Tシャツの裾を掴んでいるたくさんの子どもたちがいた。別にふざけているわけでもなく、遊んでいるわけでもなく、表情は皆真剣だ。俺が一歩進むと、一緒にぞろぞろとついてくる。掴んでいない子も俺のあとをついて来ていた。
「み、みんな、お片づけ出来ておりこうさんだったね。先生とお歌、うたおうか」
子どもたちはにこりともせずに頷きながら、それでも俺のそばを離れない。
そうだよな。ここにはママもパパもいないもんな。俺しか頼れないもんな。俺がしっかりしなきゃいけないんだ。
何か、よくわからないものが胸に込み上げて、落ち込んだ気持ちを全て吹き飛ばしてくれた。
カルガモの母親のような気持ちだ。いや、俺はここではみんなのお母さんなんだ。男だけど、でもその役割を果たさなければならないんだ。
「清香先生、ありがとうございました。助かりました」
「……いいえ」
大きく溜息を吐いた清香先生は、俺にピアノの席を譲った。
「先生ピアノ弾くから、ちょっとだけ離してね?」
不安げに俺を見つめる子どもたちが、可愛かった。
「一緒に歌おう」
子どもにも人気のある、俺も大好きなこの歌。楽譜を広げて軽やかに伴奏を奏でた。
「とろろ、好きー!」
知っている歌に、やっと子どもたちが笑った。大きく手を振って行進する子、興奮して走り出す子、泣き止んで周りの様子を伺う子。
知ってる大人は誰一人いなくて、お気に入りのおもちゃもなくて、不安で怖くて、家の方がいいに決まってる。幼稚園なんていやだよな。
でもさ、少しずつでいいから一緒に仲良くやっていこう。ちょっとずつ慣れていこうな。俺も頑張るからさ。
子どもたちに思いが届くように、大きな声で元気よく、精一杯楽しく歌った。
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