ごくりと唾を飲み込んで、小さな子どもの椅子に座った。俺の両隣からずっと輪になって、親たちも子どもの椅子に腰掛けている。
連休前の保育も終わった午後。いよいよ保護者会が始まった。
集まるのは、ほとんどが母親だ。クラスによっては父親が参加したり、おばあちゃんが来たりもあるらしい。とりあえず見渡す限り俺のクラスは全員母親で、その中に男は俺一人。斜め後ろには清香先生。俺に突き刺さる全員の視線が痛いです。助けてくれ。
「本日はお忙しい中お集まりいただいて、ありがとうございます。これから最近の子どもたちの様子をお話して、その後に役員決めを行ないたいと思います」
隣同士で目配せしている親たちと一緒になって緊張が増していく。
「初めのころ泣いていた子たちも、少しずつ落ち着いてきました。僕の話もだいぶわかってくれるようになりましたし、鞄や下駄箱の位置も覚えてくれたようです」
ほんとは未だに泣いてるけどな。違う場所に鞄と帽子入れてる子もいるけどな。俺が何回言っても、全然話し通じない時もあるけどな。二週間やそこらででたいして変わるわけないだろ、という突っ込みは胸に隠しながら進行していく。
今後の行事予定や、保育で進めていくことを手短に話し、役員決めへ移行しようとした時だった。
「ここまでで、何かご質問はありますか?」
「先生、ちょっといいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
「連休明けにお弁当が始まりますよね? お箸の他にスプーンとフォークを入れてもいいってお手紙に書いてあったんですが、ピックも大丈夫ですか?」
「……?」
ピック? なにそれ、意味わかんねーよ。俺に手作り弁当のこと聞くなんて無茶振りもいいとこだろ。
「ピックっていうのは、プラスチックの楊枝みたいなものです。果物に刺したりとか」
戸惑ったのが顔に出てたのか、他のお母さんがフォローしてくれた。
「すみません、僕わからなくて……。でもあの、楊枝はなるべくやめてください。何かの拍子に他の子に当たっても危ないですし」
清香先生も頷き、お母さん達も普通に納得してくれたようだ。ホッと胸を撫で下ろすと、また一人、手が上がった。
「先生、女の子のおトイレなんですが」
出た。そう言えばこの話、保護者会で言わないといけないんだったっけ。
「補助は裕介先生がなさってるんですか? うちの主人が気にしてるんですけど」
強い口調に、思わず清香先生へ視線を送る。打ち合わせで決まったこと、言ってもいいんだよな?
「基本的に女の子は清香先生にお願いしてます。ただ、清香先生も忙しいですし、常にお願いするわけにもいきませんから、僕が補助する時もあります」
え、という感じでお母さん達がざわついた。
「お母様方がご心配なさるのもわかるんですよ」
突然清香先生が、俺に見せた事の無い営業スマイルを振りまいた。誰だコレ。
「最近は嫌な事件もありますし。でも裕介先生は一生懸命やってます。第一そんな余裕ありません。トイレの補助なんて、そりゃあもうしっちゃかめっちゃかですよ。送りに来たお母さん達に残ってもらって、手をお借りしたいくらいなんですから」
緊張気味だった母親たちから、何と笑い声が起こった。
「私も常にそばにいますし、大丈夫です。何より裕介先生を信用してあげて下さい」
「……すみませんでした。失礼なことを言って」
さっきの質問したお母さんが頭を下げた。
「い、いえっ! いいんです」
緊張しすぎて声が上ずってしまった。やっぱり思ってた以上に親はそういうこと気にするんだな。
その後も俺は質問攻めに遭い、清香先生が度々フォローを入れてくれた。結局役員決めも、俺が助けを求める前に清香先生が出てきてほとんど仕切られてしまった。俺が上手くできないのがいけないんだけどさ、でも少し黙ってて欲しかったよ。トイレの件では助かったけど、あんまりいい気分じゃない。
誰もいなくなった教室をモップ掛けしながら、気分は沈んだままでいた。
ふとロッカーの上を見ると、小さな子どもの帽子が置いてある。下の子を連れて来る人も多かったから忘れ物だな。帽子を手にして廊下に出る。しばらく歩いて角を曲がろうとした時、誰かの話し声がした。
「……裕介先生」
「梨子先生もねえ」
な、なんだ? 俺と梨子先生がなんだって? 話をしているお母さんたちからは見えない死角に立ち、こっそり耳を澄ませた。
「やっぱり年少組……頼りないよねえ」
「梨子先生も二年目でしょ? それにまさか男の先生が年少に来るなんて思ってなかったし」
「新人の先生だったら、せめて麻鈴先生じゃない?」
心臓が嫌な音を立て始めた。小さな帽子を強く握ってしまった。
「うちの子、男の人に慣れるまで時間がかかるから、すごく不安なんだよね。家で幼稚園のことも話さないし」
「わかる〜。うちのパパもさ、何で年少組に男? って驚いてたもん。さっきのトイレの質問だって、女の子のママは皆心配してたんじゃない?」
気持ちが悪くなってきた。胃も、痛い。
「ねえ、年長のお母さんに聞いたんだけど、この園で年少から年中に上がれなかった先生って、今までいなかったってほんと?」
「うん。梨子先生が初めてみたいだよ。ピアノがどうのって言ってたけど」
「あんまり、アレなんだよね? こう言っちゃ悪いけど、上手くないっていうか……」
「え、下手なの?」
その時、後ろからツンとTシャツを引っ張られた。
「!」
誰だ!? 驚いて振り向くと、なんとそこには梨子先生、本人がいた。彼女の顔を見た途端、冷や汗が俺の額に吹き出たのがわかる。動揺している俺を見て、梨子先生は口元に手を当てながらしーっとやったあと、無理やり腕を引っ張り、誰もいなくなったひよこ1組へと俺を押し込んだ。
「あの、梨子先生」
「ああいうのは、見ない振り、聞かない振り」
ピアノの上に置いてあった花瓶を持ち、すぐそばの水道の蛇口をひねりながら梨子先生が言った。
「あ、あんなこと言われて平気なんですか?」
「平気じゃないよ。でも仕方ないでしょ、ほんとのことなんだから」
水を取り替え、タオルで花瓶を包むように拭く。もう水滴は付いていないのに、梨子先生はいつまでもタオルでごしごしとやっていた。その手元を見つめながら、俺の頭の中では廊下で話していた母親たちの言葉が往復していた。悲しいことに、あれが本音なんだよ。でもなんか、めちゃくちゃ悔しくて、このままじゃ納得がいかなかった。
「頼りない、とか?」
俺の言葉に梨子先生は顔を上げて視線を合わせた。そこにいつもの笑顔はない。
「そうだよ。私はまだ二年目。裕介先生は一年目。その二人が年少を一年みていくんだから、どんなふうに思われても仕方がないよ」
諦めたその声に、なぜか腹が立った。
「だから見て見ぬ振りしておくの。お母さんたちにだって不満はあるんだから」
「俺……じゃなくて、僕はそういうの納得できません」
「裕介先生は、そういう考えでいいと思うよ」
梨子先生はタオルを離し、水色の花が差してある花瓶を再びピアノの上へ置いた。保育者なら当たり前だけど、彼女の手の爪は短く切られている。何もつけていないのに、とても綺麗な色に見えた。
「私は違う。それだけのことだから」
「……」
「お疲れ様」
「お疲れ様、でした」
楽譜をパラパラとめくりながら、梨子先生はもう顔を上げなかった。俺もそれきり彼女を振り向くこともせず、誰もいない自分の教室へ戻る。
俺、何を期待してたんだろう。負けないように頑張ろうね、とか、頼りないなんてそんなことないよ、だとか、梨子先生が言いそうな台詞を自分の中で勝手に思い込んでさ、それとは逆に意外と冷めていた彼女の言動が気に入らなかったんだ。
子どもたちのことだけ考えてればいいってわけじゃない。親たちと、先生たちとの関係。それぞれの複雑な人間関係を、俺は段々面倒に感じ始めていた。
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