いかん、久しぶりに息がかかるくらい、梨子先生と接近してしまった。
いやいやいや、これは事故なんだから不謹慎だぞ、裕介。とにかく彼女に箱が落ちなくて良かった。
「……」
「……」
何で、梨子先生黙ってこっち見てるんだよ。
う、駄目だ。これはやばい。なぜか潤んじゃってる彼女の瞳が危ない。ジャージを着てるとはいえ、この密着感はいけない。俺の一部も危ない。もぎたて果実が当たっちゃってるよ。真冬なのに汗だくだくだよ。まずいまずいまずい……! 慌てて視線を逸らし、素早く起き上がって彼女から離れた。
「すみません、乗っかっちゃって。重くなかったですか?」
「うん」
「起き上がれます?」
何でもない顔をして右手を差し出し、梨子先生を起こした。
「……ありがと。あの、背中痛くない?」
「全然平気です。俺がこの段ボール、上にあげときますから、先行ってて下さい」
「ごめん」
「いいですって」
なんだかなー。明るい振りしてみせるけど、マジでキツイわ。落ちてきた段ボールを拾い上げに行くと、彼女は俺についてきた。
「どうしたんですか?」
「ううん。私、脚立押さえてるね」
「あ、じゃあお願いします」
紳士的にしたつもりだったけど、ただのヘタレじゃねーかこれ。何となくいい雰囲気のような気がしたけど、あそこで何かしたら止められる自信がない。それだけは駄目だ。ここをどこだと思ってんだよ。
朝の園庭に陽だまりが出来ている。こういうの小春日和っていうんだよな。最近寒かったから、ありがたいけど、心が風邪引きそうだよ。毎日一緒っていうのは、かなりつらいな。職場恋愛は駄目だっていうのは、結局そういうことなんだよな。
あーあ、砂場で団子でも作るか。厚手のパーカーの袖をまくり、歩き出した時だった。
「はい、裕介先生にタッチ。あたしじゃ、もう手に負えない」
珍しく疲れた顔をした清香先生が、さーちゃんを連れ俺のところへ来た。
「どうしたんですか?」
「登園してからずーっと、『なんで? ねえ、なんで?』が止まらないんだよね、さーちゃんは」
「うん!」
元気よく頷いたさーちゃんは、にっこりと笑った。
「清香先生はもう降参だから、裕介先生に聞いてね」
「え、ちょっと清香先生」
頼むわーと言いながら、清香先生は他の子どもたちの方へ行ってしまった。さーちゃんは俺へ、いつも以上にものすごい目力を向けてきた。普段でも迫力あるんだから、やめなさい。もう既にこっちが負けそうじゃないか。
「な、なに?」
「ねえ、ゆーすけせんせー、なんでエプロンしてるの?」
「ああ、えっと、汚れるからかな」
「なんで?」
「どろんこ遊びしたり、絵の具使ったり、お掃除するから」
「ゆーすけせんせ、カレー好き?」
「好きだよ」
「なんで?」
「おいしいから」
「なんで?」
これは手ごわいな。つか、なんで言いたいだけだろ、本当は。どう言って答えようか迷ってる間に、さーちゃんは次の質問を俺に食らわせた。
「ゆーすけせんせー、けっこんしてる?」
急だな! さっきの質問はもういいのかよ!
「してないよ」
「なんで」
「……してないから」
答えようがないじゃないか。さーちゃんは俺のエプロンの紐を掴んで引っ張った。
「なんで、りこせんせーとけっこんしないの?」
「え!」
「ねえ、なんで? おんなじひよこぐみなのに。なんで?」
ぐいぐいぐいぐい引っ張るから、ほどけて脱げちゃったじゃんかよ。
「……なんで、だろうねえ」
思わずしゃがみ込んでしまった。
「そんなのさあ、裕介先生の方が知りたいよ。なんで?」
「……さーちゃんが、きいてるんだけど」
「さーちゃんばっかりずるいよ。裕介先生に教えてくれよ。何で裕介先生は梨子先生と結婚してないの? ねえ、何で?」
「わ、わかんない」
「さーちゃん、なんで?」
「あ、りこせんせ」
「いっ!?」
うおーー! やべえ、聞かれてた? 一気に血の気が引く。俺のすぐ後ろにいた、と思われる梨子先生は、さーちゃんへ問いかけた。
「さーちゃん知りたいの?」
「うん、なんで?」
「梨子先生と裕介先生は恋人じゃないからだよ」
「こいびと?」
さーちゃんはきょとんとした顔で、梨子先生を見た。
「そう、まだ違うの」
彼女が言った言葉に、体の奥が急激に熱くなっていった。梨子先生は、さーちゃんの前にしゃがんだ。俺もしゃがんでたから、三人の距離が近い。彼女の顔がまともに見れない。
「およぐの?」
「うーんとね、池の鯉じゃないんだ。年中さんになったらわかるかも」
小さな頭をそっと撫でた梨子先生は、そう言い残して他の子に呼ばれて行ってしまった。
「……何でだよ」
まだ、って何だよ。何でそんなこと言うんだよ。頭を抱えて地面を見つめた。ため息しか出てこない。
「ゆうすけせんせー、りこせんせにきかないの?」
「え?」
「なんで、ってきかないの?」
さーちゃんは心配そうに首を傾げて、俺の顔を覗き込んだ。
「うん。まだ、聞けない」
子どもって敏感だよな。先生が心配させるようなこと言っちゃいけない。立ち上がって、元気な声をさーちゃんへ向けた。
「でもいつか、聞いてみるよ」
「うん!」
ありがとな、さーちゃん。どうすればいいかなんて、今はまだよくわからない。けど、このままじゃいけないんだってことに、何となく気付けたような気がする。
「よし! お砂場行って、一緒にお団子でもつくろっか!」
「なんで?」
「……」
さーちゃん、君最高だよ。
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