あと少しで唇が触れようとしたまさにその時、すぐ傍に迫った長い睫の瞼が開いた。
「ん?」
「!」
驚いて顔を離した俺に向かって、まばたきを二、三回繰り返した梨子先生は、いつもの調子で言った。
「あ……裕介先生、おはようございます」
「え、はい。おは、おはようございます」
大きな瞳はまだ俺を見つめている。梨子ちゃん、君なぜにそんなに冷静!? 今俺、キスしようとしたんだぞ? もしかして、昨夜既に愛を誓い合ったりしちゃってた? じゃあ俺は彼氏から梨子先生を奪ってしまったんだろうか? まさかの略奪愛? ってことはやっぱり俺と梨子先生はヤッちゃっ、
「きゃーーっ!」
「いっ……!」
悲鳴を上げた彼女にいきなり突き飛ばされた。と思ったら、梨子先生はどんどん布団の奥へともぐっていき、俺の足の方へ辿り着くと再び大きな声を出した。
「な、なに!? なんでなんでなんで!? なんで裕介先生!?」
ああ、やっぱりわかってなかったのか。脱力した俺は、とりあえずゆっくりと体を起こした。梨子先生がいるだろう部分の布団が、まん丸く持ち上がっている。俺は昨夜脱いだと思われるデニムを掴み、急いではいた。
「俺、トイレ行ってきますね」
二日酔いの頭を抱えながらトイレから出た所で、突然冷静になった俺は昨夜のことを思い出した。
合コンの後、俺が梨子先生を連れて帰ろうとした時、彼女はとっくに彼氏とは別れたと言っていたんだ。それで結局、二人で飲み直しに行こうとこっちへ戻ってきて、俺も彼女と別れたことぶっちゃけて盛り上がって、終電無くなった流れでそのままここへ来たんだ。そこから先は記憶が無いけど、テーブルに缶がいくつも転がってたから、ここでも飲んだんだろうな。で、眠くなって俺のTシャツ貸してそのまま……ってとこだろ。
キッチンに置いてあるコップへ水を注ぎ、ひとくち飲んでから洗ってもう一度入れる。
部屋へ戻ると、梨子先生は俺の布団から顔だけ出して天井を見詰めていた。
「梨子先生、良かったら水、どうぞ」
「……ありがとう」
起き上がった梨子先生は正座をし、胸の下まで掛布団を引っ張り、黙ってコップを受け取った。離れた所へ俺も正座する。
「すみません。俺、正直に言うと、飲みに行ったあとのこと何も覚えてないんです。どうして梨子先生がここにいるのかも、全然。ほんと、すみません」
「ううん、謝らないで。私も同じだから」
言い終わるとすぐに、梨子先生ははコップの水をひとくち飲んだ。口を引き結び、難しい顔をしている彼女を一刻も早く安心させた方がいい。深呼吸をひとつしてから、慎重に言葉を伝えた。
「多分、俺、その……何もしてないと思います。梨子先生と」
「うん」
「あんだけ飲んでたら、俺……できないんで、やろうと思っても」
だーっ! 恥ずかしいけど仕方がない。こんなとこに来させた俺にも責任は十分あるんだから、きちんと言おう。
「何も落ちてないし、俺自身も、その……そういう形跡なかったから」
「うん。私も、か、確認してみたけど、多分そうだと思う」
確認て。俺がトイレに行ってる間に布団の中でか? ……あんまり深く考えるのはよそう。
「迷惑かけてごめんなさい。着替えてすぐに帰るから」
梨子先生は傍にあった自分の服をかき集め、また布団へもぐりこもうとした。
「そのことなんですけど、この近くに園バスのルートがひとつあるんですよ」
「え?」
「家自体はどこかわからないんですけど、今年から加わった場所らしくて」
この辺は園バスのルートではないと親父に確かめてから部屋を借りた途端、転勤してきた親子が二組いて状況が急に変わった。
「だから、もしかすると園の子が近くに住んでいるかもしれないんです。お母さんたちの顔、あんまり知らないんで、俺は気付いてないかもしれない」
「向こうはここを知ってるかもしれないってこと?」
「はい。ここから出るのを見られるかもしれないんで、今じゃなくて暗くなってからの方がいいと思います」
「でも、いいの?」
「何もありませんけど、梨子先生さえ良ければ」
下を向いた梨子先生は、自分の洋服を握りしめたまま考え込んでいた。もしや、寝起きにキスしようとしたことがバレてて、それを疑われてるんじゃ……。
「俺、何もしないですから」
「ううん、そうじゃなくて」
「?」
「ここに裕介先生の彼女とか来ない?」
何だよ、そんなこと心配してんのか。
「いや、今いませんから。昨夜ぶっちゃけた通り」
「あ、そうだったんだよね。ごめん」
「いえ、俺もほんとごめんなさい」
謝ってばかりいるお互いが何となく可笑しくて、二人で目を合わせて小さく笑った。
俺の幼稚園用のジャージの下を貸し、上はそのままロンTを着ていてもらった。家の中で昨夜のセーターとスカートじゃ、今さらだけど俺も困る。その後は録画しておいた映画だの、夜中のバラエティ番組だのを観てダラダラ過ごし、くだらない話をしていると、すっかり二日酔いもどこかへ行ってしまった。
梨子先生はいつも通りに俺と話してくれた。当たり前なんだけどさ。だけど、それが俺にはすごく嬉しかったんだ。
夕方、ようやく腹が減ってきた俺は簡単な卵チャーハンを二人分作った。小さなローテーブルに二つの皿とコップを並べる。俺が一口食べると、梨子先生は自分のチャーハンを見つめたまま、一度握ったスプーンをローテーブルへそっと置いた。
「この前、偶然会っちゃったの」
「誰に?」
「昨夜話した元彼」
「……」
「まだ先生続けてるのかって、いきなり否定されちゃった。朝から晩まで働いて土曜も行事になって、割に合わないお給料もらって何が楽しいんだって、別れる時に言われたんだけど、いまだにそう思ってるみたい。昨夜飲み過ぎたのは、そのこと思い出したから」
確か、年上のリーマンだっけ。会いたい時になかなか会えないことが、別れる理由の決定打になったらしい。……ワガママだよな。
「難しいよね。自分のしたいことを理解してもらうのって。自分のことだけで精一杯なのに、それを上手に説得なんてできっこない。でも彼の気持ちもよくわかるから、何も言えなかった」
それは俺にもよくわかる。結衣は結局、幼稚園の教諭になりたいという俺の思いを、ひとことも聞こうとはしなかった。俺も梨子先生と同じ、それを上手に説明できなかったから、結衣にとってはお互い様なんだろうけど。
顔を上げた梨子先生は、俺の部屋に置いてある大きな鏡へ視線を向けた。
「入学式の日、終わってから教室覗いたら鏡の前に裕介先生がいて……。スーツ姿見たら少しだけ思い出しちゃったの、あの時」
何となく覚えてる。声も掛けずに、梨子先生はこっちを見てた。
「俺に似てるんですか?」
「……ううん。全然似てない」
嬉しいような、がっかりしたような、複雑な気分だ。
「ごめん、変なこと言っちゃって。聞いてくれてありがとう」
力なく笑った彼女はスプーンを手にした。
卵チャーハン、ちょっとしょっぱかったな。
何となく、今の梨子先生の気持ちはこんなんじゃないかって勝手に想像した俺は、美味しいと言ってくれた彼女と一緒に、チャーハンを口いっぱいに頬張りながら無理に笑って誤魔化した。
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