「いくぞー? よーい、どん!」
……だからなぜ逆に走る。
十月に迫った運動会の練習が始まった。
想像通り、とにかく大変だ。今もかけっこの為に並ばせるだけで汗だくだというのに、ゴールに向かわずに逆に走り出す子なんかもいて、こっちの方が混乱している。
「違う、違う! 浅子先生の方に向かって走るんだよ。あっちだよ、あっち」
テープの端と端を持った清香先生と浅子先生が、遠くからこっちを見て笑っている。笑い事じゃねーっつーの。爆笑の域じゃんかそれ。
俺と梨子先生は待っている子どもを座らせたり、次の子は立たせたり、掛け声をかけてもその場から動こうとしない子と一緒にゴールまで走ったりと、笑う暇なんか全くないほど、あちこち駆けずり回っていた。
「まあでも、結構日本語が通じるようにはなったよね」
子どもたちが帰ったあと、職員室に残っていた清香先生が、コーヒーを入れたカップを口にして言った。
「状況さえ掴めれば一回で覚えちゃうんですけど、初めてのことだから子どもたちも自分で何してるのか、よくわからないんでしょうね」
日誌を書いている梨子先生は笑っている。確かに、あいつら自分が運動会に出ることすらわかってなさそうだったもんな……。
「これで運動会が終わると、いきなりクラスがまとまったりするから、文句は言えないんだけどね」
「子どもたちも落ち着いて、充実し始める時期ですもんね」
「そうそう」
二人の会話をふんふんと頷きながら、俺は出席簿をチェックする。
言われてみれば、子どもだけじゃなくて俺自身も充実していると思う。やめたいと思ったあの時、子どもたちと気持ちがつながってから、ようやく俺は皆の担任になれたような気がした。最近は泣く子もずいぶん減ったし、俺と遊びたいという子どもも増えてきた。何を教えてあげよう、どうやっていけば先生らしいか、なんて楽しく考えられる余裕もある。毎日の計画にも弾みが出て、やっぱり俺は教師に向いてるんだよな、なんて調子に乗っていた。
そんなある日。
朝の園庭で、梨子先生が小さなプラスチックのスコップを両手に抱え、俺のそばへやってきた。
「裕介先生。ゆいこちゃん、お休み長いね」
壊れたものも多かったから新調したんだっけ。
「はい。具合が悪いらしいんですけど」
あまり目立つことのない、聞き分けの良いお利口なゆいこちゃん。彼女は月曜日から幼稚園を休んでいた。そして今日はもう木曜日だ。
「インフルエンザにはまだ早いよね。風邪が流行り始める頃だから、他の子たちも注意しよう」
ひよこ1組の女の子たちが、一緒にブランコへ行こうと梨子先生のエプロンを掴んで誘っている。子どもたちに引っ張られながら、彼女は振り向いて俺の顔を見た。
「夕方、ゆいこちゃんのお家に電話してみたら?」
「そうですね。一度連絡いただいたきりだったので、してみます」
運動会の練習もだいぶ進んでいる。ゆいこちゃんならしっかりしているから大丈夫だろうけど、それでもやっぱり心配だ。
バス待ちの子どもが帰り、園庭を片づけ、ゆいこちゃんの家へ電話しようとした矢先に向こうから俺に電話がかかってきた。
何だよ、そんなに具合悪いのか? まさか入院とかじゃないよな? 心の中に不安が広がる。放送で呼び出された俺は、駆け足で職員室へと戻り、ガラリと引き戸を開けた。
「裕介先生、1番ねー」
「はい、ありがとうございます」
深呼吸をひとつしてから受話器を取る。ゆいこちゃんのお母さんと挨拶をし、具合はどうかと聞いた俺が耳にしたのは予想外のものだった。
『幼稚園に行きたくないって言うんです』
「え……」
マジかよ。どうしたんだ、ゆいこちゃん。何があった? 一瞬のうちに俺は頭の中をフル回転させ、いろんな可能性を考えた。その中でも一番スタンダードだと思われるものを口にする。
「あ、あの、何か園でいやなことがあったんでしょうか? お友達とか」
『いえ、お友達じゃないみたいなんです。その……』
「?」
『先生がいやだって、聞かなくて』
「え!」
『誤解しないで下さいね。私は裕介先生を信頼してますし、子どもの言う事を全部鵜呑みにしているわけじゃないんです。ただ、ちょっとこういうことは珍しいので』
「……はい」
『何か裕介先生に言いたいことがあるらしいんですけど、私にも教えてくれないんです。よければ明日、先生とゆいこでお話してもらってもいいですか?』
「もっもちろんです! 僕、待ってますから。ゆいこちゃんにもそう伝えて下さい」
『明日は無理にでもバスに乗せてみます。私が園について行くとどうしても甘えるでしょうから』
「はい」
『じゃあよろしくお願いします』
ゆいこちゃんのお母さんは終始穏やかな口調で、俺を非難することはなかった。でも、でもさ。俺が原因で園に来たくないんだろ? 全然そんな素振りも見せなかったのに、何でだよ。
「……」
そうだ。ゆいこちゃんはいつも俺の前で嫌な顔ひとつしなかった。俺が話を聞いてあげられなくても、構ってあげなくても、ひとつも。
梨子先生に事情を話し、俺は早めに園を出た。チャリンコを飛ばし、駅へ向かった。カードを取り出し改札を抜け、駆け足で階段を上がる。電車に乗り込みドア際へ立った。
俺は重大なことを忘れている気がする。
「あった! これだ」
実家へ帰り、クローゼットの奥にしまいこんでいたノートを引っ張り出し、中に書いてあることを口に出して読んだ。
「……大事なのは、手の掛からない子どもへの気配りである」
がーんと頭を殴られた気がした。
「俺、リアルに忘れてた」
大学の講義で唯一俺が尊敬していたおじいちゃん講師。元小学校の教師で、何年かは校長を務めていた人だ。低学年の授業風景なんかをリアルに楽しく俺たちへ教えてくれた。手遊びなんかもたくさんその場で見せてくれた。
『何かを訴えたり、すぐに大きな声で話してくる子、聞いてくれと騒ぐ子は気持ちのサインを人に伝えることができるので、それほど心配しなくても良い。見落としがちなのは、何も訴えずに黙々と教師のいう事を真面目に聞いている子どもだ。彼らはじっと耳を澄ませ、教師や友人を見詰めている。何か言いたくとも飲み込んで遠慮をしてしまう。このサインを教師は常に見極め、見過ごすことのないよう注意する必要がある』
「ちゃんとノートに書いてるじゃんかよ……! あー馬鹿だ、本当、俺馬鹿だ!」
何が教師に向いてるだよ。向いてるどころか教師失格じゃんか。
急いで実家を出てまた電車へ乗り込み、独り暮らしの部屋へ戻った。夜遅くまでそのノートを繰り返し読みふけり、ゆいこちゃんと俺の行動を出来る限り思い出しながら照らし合わせていった。
眠い目を擦り、園で朝の準備をする。職員室での朝礼が終わり、先生たちは皆それぞれの教室へ向かった。いつもと同じ朝だ。通り抜けて行く風は爽やかな秋の匂いがする。廊下で前を歩く梨子先生に声を掛けた。
「梨子先生、僕ゆいこちゃん迎えに行ってくるんで、ちょっとの間、教室をお願いします」
「うん」
じゃあ、と言って彼女に背を向けて歩き出した。どうしようか。もしもゆいこちゃんが許してくれなかったら。やっぱり家に帰りたいと泣いてしまったら。
「裕介先生」
名前を呼ばれて振り向くと、緊張している俺へ梨子先生が微笑んだ。
「大丈夫だよ、ちゃんと話せば。きっとわかってくれる」
「はい」
何度も救われてる天使の笑顔をもらい、気持ちを奮い立たせて園バスが止まる入口へと向かった。ガレージは園の玄関とは少し離れた場所にあり、そこから直接園庭へ出られるようになっている。バスが入ってくると何人かの先生で出迎える。今日は俺もその仲間だ。
子どもたちが次々と降りて、先生たちと元気に挨拶を交わしていく。園バスに乗った年長の先生に手を引かれて、ゆいこちゃんが現れた。他の子どもたちはそれぞれ自分の下駄箱へ元気よく走って行った。静かになった園庭の隅で、ゆいこちゃんと向き合う。
「ゆいこちゃん、おはよう」
「……」
連れてきてくれた先生から離れたゆいこちゃんは、俺の顔を見ずに下を向いていた。ゆいこちゃんは相変わらず右手をポケットに入れている。
「あの、先生さ、ゆいこちゃんのこと待ってたよ」
「……」
「今日来てくれて嬉しい」
何て言ったらいいかわからなくて彼女の帽子をじっと見ていると、消えそうな声が届いた。
「……これ、あげる」
「え?」
ゆいこちゃんはスカートのポケットから、右手をグーにしたまま俺に差し出した。彼女の前にしゃがみ両手を出すと、ゆいこちゃんは俺の手の上で、小さな手をひらいた。何かがぽとりとそこから落ちた。
「これ、ゆいこちゃんが作ったの?」
ゆいこちゃんは、大きくうなずいた。とても、本当にとても真面目な顔で。その折り紙はもう角が折れて、色も所々薄くなって、何を折ったのかよくわからないほどだった。
「……ごめん。先生がずっと、気付かなかったんだよな」
もう一度ゆいこちゃんは大きくうなずいた。
「いや、気付いてても先生、ゆいこちゃんの言うこと、聞こうとしなかったんだ。本当にごめん。……ごめんなさい」
頭を下げて、手の中にある赤いくしゃくしゃの折り紙を見つめる。
「これ、ありがとう。先生すごく嬉しいよ」
するとゆいこちゃんが小さく笑って呟いた。
「せんせー、ちゅーりっぷ好きっていったから」
「……」
「ゆいこ、ちゅーりっぷ初めて折ったの」
言い終わらない内に、ゆいこちゃんを高く抱き上げていた。胸が一杯で、目から涙が落ちそうになるのを何とかこらえる。
ゆいこちゃんは、俺が言ったことをずっと覚えていた。
確かあれはまだ4月のことだ。入園して何日か目の子どもたちに、チューリップの曲をピアノで弾いた。弾く直前にたった一言だ。たった一言俺がチューリップが一番好きだと言ったんだ。誰もそんなこと覚えていないと思ってたのに。
「ありがとう。先生チューリップ大好きだよ。ゆいこちゃんは?」
「ゆいこも好き。ぴんくの」
「先生は赤いのが好きなんだ。これとおんなじだね」
「うん!」
ずっとこれを俺に渡したかったんだよな。たったそれだけのこと、どうして聞いてやれなかったんだよ。忙しいとか、他の子の方が大変だとか、そんなの全部都合のいい言い訳だ。
「ゆいこちゃん。裕介先生はさ、まだ先生になったばっかりなんだ」
「?」
「だから、よくわからないこととか、気がつかないことがいっぱいあるんだよ」
「うん」
「先生に言いたい事があったら、先生のエプロンとか洋服たくさん引っ張って」
「いいの?」
「いいよ。先生のお尻、ぺん! って叩いてもいい」
「おしり?」
ゆいこちゃんは楽しそうに笑った。彼女の笑顔で、俺も笑顔になった。胸に湧き上がるこの気持ちは、きっとどんなものにも代えがたいんだろう。
「できる?」
「できる」
「先生もゆいこちゃんが何か言おうとしてたら、これから気をつける」
「うん!」
「よし。じゃあ先生とゆいこちゃんのお約束!」
「やくそく!」
小指で指切りげんまんをした。小さい、とてつもなく小さい指だ。
「お部屋まで一緒に行こう」
幼稚園に通う子どもにとって、親と離れた知らないこの世界では、俺が唯一頼れる存在なんだ。俺の態度ひとつで一日中幸せになったり、その逆だって十分有り得る。いくらしっかりしてたって、手が掛からなくたって、まだまだこんなに小さいんだ。
教師ってすごいな。最初から先生なんかじゃない。子どもからこうして教えてもらって、少しずつ少しずつ、先生にしてもらうんだ。
軽い足取りで、俺の手を引っ張っていくゆいこちゃんに連れられて、梨子先生と皆の待つ、ひよこ2組の教室へ向かった。
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