先生やって何がわるい!

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(23)恩返し




 涙をハンカチで拭っている梨子先生を見た俺は、久しぶりに動揺していた。何て声をかければいいのかわからない。ただ呆然と立ち竦んで、ドアのガラス越しに見つめることしかできなかった。

「……裕介先生?」
 こっちに気付いた梨子先生が、俺の名前を呼んだのがわかった。微かな声を聞いた途端、さっきとは反対に身体が勝手に動いていた。
「失礼します」
 引き戸を開けて、ひよこ1組へずかずかと入っていく。ピアノの椅子へ座ったまま、俺を見上げる梨子先生の前に立つ。何て思われてもいい。こんな状態で放っておけない。
「梨子先生。あの、」
「9月から運動会の練習始まるね。12月には発表会だし、忙しいよね」
 何ごともなかったかのように、彼女は楽譜とピアノの蓋を閉じた。目が赤い。どんだけ泣いてたんだよ。
「裕介先生は壁面作ってたの? 私も去年のだけじゃ足りないから、何か作ろうかな」
「梨子先生」
「子どもたち何が好きかな? 裕介先生は、」
「梨子先生……!」
 無理に話を逸らそうとする梨子先生へ、思わず大きな声を出してしまった。
「我慢しないで何でも言って下さいよ。そりゃ俺は一年目だし、まだ保育も上手くできないし、後輩だし、全然頼りないかもしれないけど、でも話を聞くくらいはできます」
「……」
「だから」
 しばらく続いた沈黙の後、梨子先生は、うん、と頷いてから静かに話し始めた。窓の外は夕暮れが近づいている。

「前に、保護者会のあと、お母さんたち言ってたでしょ? 私のピアノのこと」
「……はい」
「裕介先生も気づいてると思うけど、本当なんだ。ピアノが下手で年中に上がれなかったの。ピアノを習い始めたのが高校の時からだから、下手なのは当たり前なんだけど」
 声が震えてる。また泣き出すのを堪えてるように見えた。
「年中って12月の発表会がオペレッタなの。長い曲を担任が弾かなきゃならないから、私じゃ無理だって判断されたんだと思う」
「それ、本当の話なんですか?」
 親父と主任がそうやって決めたのかよ。だったら抗議してやる。保育っていうのはピアノが全てじゃないはずだ。梨子先生はいい先生だよ。それは保障する。子どもたちにだって人気があるし、何より新人の俺をいつも気にかけてくれてる、いい先輩なんだ。
「誰に聞かなくてもわかるよ。それが悔しくて、担任発表のあと美利香先生にずっと話を聞いてもらってたの、ここで。裕介先生、覚えてる?」
「あ……」
 美利香先生に苛められてると思ってた、あの時か。
「情けないけど、何度も練習するしかないから、いつも長いお休みの時は練習してるの。ごめんね、ずっと同じ曲ばっかり。うるさかったでしょ?」
 習いには、行けないか。一年目も二年目もきっとあまり変わらないくらい忙しい。行事があるから土日すら決まった予定は入れられない。
 苦笑した梨子先生の顔を見て、我慢できずに言ってしまった。言わずに、いられなかった。
「もし梨子先生がよければ、俺が教えます」
「え?」
「これでも一応、幼稚園の時からずっと習ってたし、指使いとか間違えやすい場所くらいなら、俺でも教えられますから」
「……ほんとに?」
「俺、いつも梨子先生に助けてもらってるから、これくらいさせて下さい。もうこの後、夏休みの予定もないし。すごい暇なんですよ、俺。ははは……」
 暇だなんて、ただの言い訳だ。本当はあの父親参観日の時みたいに、梨子先生のことが心配でたまらないんだ。
「ありがとう。裕介先生」


 夕方まで制作をこなし、梨子先生と幼稚園を一緒に出て、二人で近くの商店街にあるラーメン屋へ行った。その帰り道、古いおもちゃ屋の店先に花火が売られているのを見つけた。珍しくバラで売っている。大きさの違う箱には長いの短いの、飾りのついたものや懐かしいものが、所狭しと並んでいた。
「すごいね、こんなにたくさん」
「俺、この鉄砲の形がすごく好きで、従兄弟と取り合いしたことあります」
 俺の話に笑った梨子先生は、目の前の花火を選び始めた。
「公園行ってやらない? 私すごく久しぶりなの、花火」
「いいですよ」
 ……こんなのノリだよ、その場のノリ。ラーメン屋でも楽しく食べたこの雰囲気が、今もまだ続いてるだけだ。他の先生たちとも、帰りにどっか寄ったりするじゃんか。それと一緒だよ。先輩に言われたから断れないってだけなんだよ。必死にまた言い訳しながらも、どこか楽しく感じている自分を否定することはできなかった。

 園から近い大きな公園は、さすがに暗くなると人も少ない。ここは園外保育でもよく使われる場所だ。年少は10月の運動会が終わった頃から外遊びへ来る予定だ。
 芝生の前にある大きな木の下で、手持ち用の花火をそれぞれ楽しみ、最後に線香花火を分け合った。
 近くをジョギングしている人が何人か通り過ぎて行った。荒い息遣いが聞こえて振り向くと、暗闇の中から、大きな犬を連れて散歩をしている人が出てきた。怖いっつーの。
「子どもたち、どうしてるかなあ」
 細く頼りない線香花火の先を見つめながら、梨子先生が呟いた。
「プール行ったり、旅行したり、いろいろ楽しんでるんじゃないですかね」
「そうだね。私たちのことも、少しは思い出してくれてるかな」
「さあ……。結構全然忘れられてるかも」
 二人でクスクスと笑いながら、お互い最後の一本へ火をつける。
「夏休みだから、園のことは忘れて思いっきり遊ぼうとか思うんだけど、全然ダメだね」
「……」
「毎日、子どもたちがどうしてるのか気になって仕方ないの。9月になっても幼稚園行きたいって思ってくれてるかなって」
「ああ、そうですよね。俺も子どもたちのこと思い出してたかな」
 最後の一本は、じわじわと大きな火の玉になり、火花もバチバチと明るく散っていた。
「私、裕介先生のことも思い出してたよ」
「え?」
「どうしてるかな、って」
 花火から顔を上げた梨子先生と視線が合った。俺と一緒にすぐそばでしゃがんでいる彼女は、伸びた髪を片方の耳の下で縛り、胸元がきつそうなTシャツを着てショーパンを穿いている。何だかすごく可愛くて、目が離せなかった。
「……俺も」
「ん?」
「今日、梨子先生どうしてるかって、気になってました」
 黙って俺を見つめる梨子先生の瞳が花火で綺麗に光っていた。どうしたんだ、俺。この雰囲気まずいよ。駄目だって思うのに、花火を持ってない方の手が、いつの間にか彼女の髪へと伸びていた。
「あ!」
「え!」
 急に下を向いて声を上げた梨子先生につられてしまった。な、何だ!?
「あーあ、落っこちちゃった。せっかく大きいのだったのに」
 地面に落ちた線香花火から、白くて細い煙だけが残った。心臓が馬鹿みたいにドキドキしてる。俺、何しようとしてたんだ。
 ひと息ついてそっと立ち上がり、がっかりしている様子の梨子先生へ声をかけた。
「またやりましょうよ」
「そうだね。また一緒にやろう」
 これ以上は本気でやばいよ。だって俺、今すごく梨子先生のこと帰したくない。
「明日から特訓ですからね」
「うん! よろしくお願いします」

 胸に起きた予期しない思いを振り払って夜空を見上げる。そこには霞んで見えにくい星がいくつか並んで、二人が歩く道をいつまでもついて来た。





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