喉が乾く。水道へ行って何回水を飲んでも、収まらない。
それになんだか、ずっと腹が痛いんだ。朝から晩までちくちくしてて、それがいつまでも取れない。
ここ二三日、熱が上がったまま下がらない。心臓がドキドキと大きな音を立てている。その音がいつもよりずっと速いんだ。腹の痛みから腰が曲がって、本当は真っ直ぐ立てないんだけど、保育中はなんとか気合で、子どもたちにそんな姿は見せないようにしていた。
今朝、保育前に美利香先生から呼び出された。先週のまゆちゃんの件、園長に話が行く前に、どうして梨子先生に話さなかったのかって責められた。そういえば前に、美利香先生から言われたんだったっけ。なんかもう、どうでもいい。
「裕介先生? どうかしたの?」
やべ、気付かれたか。帰りのバス待ちをしている子どもたちを屋上で遊ばせていると、梨子先生が近付いて来た。
「や、なんか、風邪引いたかもしれないです。喉が痛くて」
「お腹とかは?」
「ちょっとだけ」
「もうすぐ園バス来るから、それまで我慢できる?」
「大丈夫っすよ! 全然! ハハハ!」
腹筋にクるな〜。引き攣った笑顔で答えると、梨子先生が心配そうに言った。
「終わったら、幼稚園かかりつけの内科があるから、すぐ行った方がいいよ」
「いや、本当に大丈夫ですよ」
「ダメだよ。倒れたら誰が担任するの?」
「清香先生」
笑顔を消して即答した俺を、梨子先生がじっと見つめた。口を半開きにして、眉を寄せて、非難の視線を俺に向けている。
「清香先生はサポート。あの子たちの担任は裕介先生なんだよ。みんな裕介先生を頼りにしてるんだから」
「……そんなこと、ないですよ」
そんな風に見るなよ。先輩だからって、そんな目で俺を見んなよ。
別に俺じゃなくたって、誰だってできる。それは、毎日清香先生が証明してるじゃないか。もういっそのこと清香先生がひよこ2組の担任をやればいいんだ。
俺がやるよりよっぽど子どもたちの為になるんだろう。きっと保護者だって納得する。いや、かえって喜ばれるかもしれない。
園の外にある自転車置き場で、デニムのポケットから鍵を取り出す。カゴの中へ乱暴に鞄を突っ込み、チェーンを外してサドルにまたがった。赤く染まった夕暮れの空には、黒い影の出来た雲が三つ四つ浮かんでる。
人気の少ない帰り道、自転車をめいっぱい漕ぐと、情けないけど悔しくて涙が溢れた。
こんなの違う。俺が求めてたのはこんなんじゃない。
子どもたちと遊んでいろんなこと教えて、悩みとか聞いて、できなかったこと皆でできるようになって、ひとつになって乗り越えて、そういう理想みたいなのが、自分の中にあったんだ。
それがなんだよ。何度言ったって子どもたちとはまともに話も通じない。会えば泣かれて、いやがられてさ。俺が何言ったって聞いてやくれない。大体俺は年少なんてやりたくなかったんだ。俺だって楽器指導して、得意のピアノ使ってオペレッタやって、一人で担任して、誰にも口出されないで、クラスを子どもたちと一緒に作っていきたかったんだ。
一生懸命やったって、先輩には叱られてばっかりで、俺は子どもと触れ合いたいのに何でいちいち親が出てくんだよ。何でこんなに毎日否定されて悩まされなきゃいけないんだ。いいことなんてひとつもない。俺、こんなのやりたくて先生になったんじゃない。
足が重い。痛い。腹も腰も痛い。喉が渇いてしょうがない。飲んでも飲んでもまだ足りない。
「なんだよ、ちくしょー……!」
三十分かけて自転車を漕いで、大きな河原へ出た。
誰もいない汚い部屋になんか帰りたくない。なんもしたくない。テレビもケータイも何も見たくない。明日の弁当のおかずなんか、考えたくない。もう、全部やめたい。
土手に上がってしばらく走り、適当なところで停めた自転車が倒れた。面倒くさくてそのまま放置して、草の上に大の字になって寝転んだ。昔の青春ドラマか。
一生こんなことするわけないだろって思ってたけど、人間ってわからないもんだな。
何もかもに嫌気がさしていた。たったの二ヶ月で。
被害者ぶって自分の弱さに気付こうとしない俺の目には、黒い空に星がみっつだけ揺れて見えた。
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