ぎんいろ 朋美編

3 やくそく 




 金木犀の花びらをもらった日。あれから半年間、佐伯くんは毎週のように私へ連絡をくれた。
 お昼を食べに行こう、絵画展があるから観に行こう、映画の試写会チケットが当たったから、水族館がリニューアルしたから、イルミネーションが綺麗な場所を知ってるから。大学でも前より頻繁に声を掛けてくるようになった。
 まだ友達という枠からは抜け出していなかったけれど、私は変わらず彼のことが好きだったし、何より少しでも一緒にいられることが嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、この関係を壊したくなくて、でもいつか自分から告白しようと心には決めていた。


 寒さに風が痛い冬は影を潜め、黄緑色の葉があちこちに芽吹き始めた三月。
 久しぶりに、あの海の傍にある図書館へやってきた。相変わらず特に読みたいものなどないような様子の佐伯くんは、ひと通り本棚の間をうろうろしたあと私に言った。
「やっぱ出よう」
「また?」
「いいの、いいの。ここ来ると気持ちが落ち着くんだ。それだけだからさ」
「ふうん……?」
 押したガラスの扉の向こうから穏やかな潮風が入り込んでくる。

 海浜公園には春の日差しが柔らかく降り注いだ。ところどころにある木製のベンチには人がまばらに座っている。私たちは公園内を延々と続く小路を歩いていた。
「今日って何日だっけ?」
 くっつきすぎず、離れすぎてもいない。いつも微妙な距離を保っていた。
「三月三日だよ。ひな祭り」
「ああ、ひな祭りか。雛あられだっけ? いろんな色のやつ。田舎の従弟がストーブの上にばら撒いて焼いてたな〜」
「食べるの?」
「食べるよ。カリカリになって美味いんだけど、一歩間違えるとやけどするわ、焦げて不味いわ、ストーブの上が黒くなるわで、結局怒られんの」
 いつもより早口の彼が言った。
 まだ寒いけど海は穏やかだ。カモメの鳴き声が右から左へ空を流れていく。
「あーあ、あちいなー」
 彼は着ていた黒のダウンを脱ぎ始めた。
「え? 暑いの?」
 いくら風があまりないからと言って、暑いなんてことは有り得ない。私はマフラーもしてるし厚めのタイツまで履いている。
「うーん、まあ。今日は暑い。暑いな〜」
 なぜか私から目を逸らしている。走ったわけでもないのに顔が赤い。
「来週は、何の日があるでしょうか」
「何の日って、大学は今休みだし、ひな祭りは今日だし。何か大事なこと?」
「大事だよ」
 立ち止まった佐伯くんが脱いだダウンのポケットをごそごそと探った。
「はい、これ」
「え?」
「誕生日。来週じゃなかったっけ。おめでとう」
「あ……」
 手渡されたのは、カラフルな包装紙とリボンが飾られたプレゼント。
「私、忘れてた」
「忘れんなよ〜。開けてみ?」
 それは私がお気に入りのインポートショップに置いてあった外国の香水。どこにでも売っている有名なものではなく、そこに行かなくては手に入らないもの。凝った造りのボトルに清楚な香り。期間限定でオリジナルの小さなベアが付いている。
「可愛い! これすごく欲しかったの」
「うん。なんか、この前欲しそうにしてたから」
「わざわざ買いに行ってくれたの?」
 うんうん、と何度も彼が頷く。その照れた顔が、大好き。
「もらっていいの?」
「いいのって何だよー。いいに決まってるじゃん」
「ありがとう。私もお返しするね? 誕生日いつ?」
「いいよ、別に」
「だめだよ。いつ?」
 困ったように黙った彼は私の手を取り、小路から芝生へ入り、大きな樹の下へ連れて行った。幹の根本から深い土の匂いが立ち昇る。

「誕生日プレゼントはいらないから、お願い聞いて欲しい」
「お願い?」
「今さらだけど、その。いやほんとに今さらなんだけど」
「うん」
「俺と付き合って欲しい。友達としてじゃなく」
 彼は空を仰ぎ、大きく深呼吸した。そして再び私を見下ろした。
「実は高校の時からずっと好きでした。とか言ったら、引く?」
「え……」
 あまりに驚いて、しばらくは声が出なかった。
 自転車に乗る人、ジョギングしている人、ベビーカーを押している人が小路を通り過ぎていく。
「そんな、嘘だよ。だって大学で初めて会った時、全然普通だったじゃん」
「本当は心臓バクバクだったんだよ。大学が一緒かもしれないってのは知ってたけど、まさか学部も同じになるとは思わなかったから」
 右手を首の後ろにあて目を泳がせた佐伯くんは話を続けた。
「高校で同じクラスになってから好きになったんだけど、話しかけられなかったんだ。共通点一個もなかったしさ」
「関わりなかったのに、どうして好きだったの?」
 私の中でいろんな疑問が止まらない。当時の彼を思い出す。彼の制服姿、勉強しているところ、部活は何だったっけ? クラスの中で誰と仲が良かった? ひとつも被るところがなかったのに。
「体育祭の」
「体育祭?」
「リレー決めかなんかで、皆嫌がっててさ。俺、実行委員で困ってたら、浜野が私やるから大丈夫って、言ってくれて」
「……それだけ?」
「なんか、カッコ良かったんだよ。他の子と違って、きゃーきゃーしてなかったし。大学来て再会してからも、気になってずっと見てた。一緒に出掛けるようになってから、ますますいいなぁって。そういうのじゃ駄目?」
 私を見ていてくれたのは間違いじゃなかった。私も彼に伝えたい。
「ううん。全然駄目じゃない。私も佐伯くんのこと好き」
「え、マジ!? って、あ、ほんとに?」
「うん」
「え、本気で? 友達としてじゃなく?」
「本当に好きだよ。だから、これからよろしくね」
「や……ったああああああ!!」
「きゃ」
 佐伯くんはガッツポーズをして叫び、ダウンを足元に落とした次の瞬間、私のことをぎゅーっと抱き締めた。彼の匂いと柔らかいセーターに包まれ、恥ずかしさで思わず大きな声を出す。
「痛いってば、いたいいたい」
「あ、ごめん。嬉しくて」
 力を緩めて、それでもなかなか離してくれない彼は、腕の中で笑う私と目を合わせ微笑んだ。
「あの……結婚しません? 大学卒業したら」
「え!?」
 私の心臓の音か、彼の心臓の音か、混ざってしまってわからないくらいに大きく鳴り響いてる。
「早く一緒になりたいっていうか、なんかもう今すぐ一緒に住みたいくらいなんだけど、でも同棲とかじゃなくて、俺そういうのきちんとしたい方だから、卒業したら結婚しない?」
「どうして、そんなに急ぐの?」
 うーん、と言って佐伯くんは首を傾げた。
「どうしてかな。一刻も早く一緒にいたいっていうか……。何でだろ。わかんないけど。いや、結婚したいのはほんとなんだけど」
 唐突過ぎて、嬉しいけど信じられないから、頭の中が混乱してる。
「大切にするから、一生。……あーー!!」
「な、なに?」
「なんか俺、指輪とか用意してないじゃん! ごめん! ていうか、いきなりプロポーズとかこれこそドン引きだよな。……ごめん」
 いっぺんに幸せが訪れたことが、何だか怖かった。幸せなのに怖いなんて変なの。

 港へ徐々に近付いて来る船が汽笛を鳴らした。
「今素敵なのもらったから十分だよ。それに引いてないよ。嬉しい、とっても」
 ありがとうと言って彼は抱き締めていた手を離し、両手で私のプレゼントを持っていない手を握った。半年前、信号で手を取ってくれたあの時と同じ温度。
「ねえ、本当に本当に本気で言ってるの?」
「うん。本当に本当に本気だよ」
「じゃあ約束だよ? 卒業するまで忘れないでね?」
「約束します。俺の傍にずっといて下さい」
「……うん」
「約束、して下さい」
「……はい。します」
 足元には名前も知らない綺麗な色の小さな花。私たちを見上げて祝福しているように見えた。
朋美ともみ、って呼んでいい? これから」
「いいよ」
「俺のことは、何て呼んでくれる?」
「私は、やす……」
「やす?」
「やすくん、で。安弘やすひろだから」
「そ、そっか」
「だめ?」
「だめじゃないです。すっげ……嬉しい、です」
 照れたように笑った彼は、今度は私を優しく抱き締め、嬉しいです、と消えそうな声でもう一度言った。

 ずっと一緒に。
 ずっとずっと一緒に、いつまでも。
 なんて素敵な言葉だろう。
 一分でも一秒でも長く、この人と一緒にいたい。




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