ぎんいろ 朋美編
2 うみ
海のそばにある街の図書館に訪れた。ここへ来るのは初めて。
古ぼけた木枠の大きな窓から、潮の香りを乗せた風が入り込む。歴史を感じさせる館内は、日曜ということもあってたくさんの人が訪れていた。
「ね、何調べるの?」
うろうろと歩き回る佐伯くんについて、本棚の間をすり抜ける。
「んー? そうだなあ。なんだろね」
彼は木肌が濃い茶色になっている本棚から、適当に本を取り出してページを一枚めくり、チラ見しただけで元の場所に戻した。
「目的があったんでしょ?」
佐伯くんの傍で出来るだけ小声を出した。それでもこちらを気にして振り向く人がいる。こんなところまで来たんだから、何か特別な本がこの図書館にはあるのかもしれない。
「ねえってば」
彼が着ている長そでTシャツの裾を引っ張った。
「!」
過剰に反応した佐伯くんが大げさに肩をビクつかせるから、私の方が驚いてしまう。
「ご、ごめん」
「いや……あるといえば、あるけど」
窓の脇にかかる少したびれたカーテンが、風に吹かれてパタパタとはためいた。
「出よっか」
「もういいの?」
「うん、もういい。外でよ」
「いいけど、何だったの?」
気付かなかったのか、何も答えない佐伯くんは鼻歌をうたいながら図書館の出口にあるガラスのドアを押した。
大きな通りを港へ向かって歩いていく。
青い青い秋の初めの空。海へ近付くに連れて大きな建物は減り、遮るものがなくなった視界が広がっていく。
隣の佐伯くんを見上げた。デニムのポケットに手を入れて、今何時? なんて暢気に呟いている。
私のこと心配してくれたのは何でだろうとか、今日はどうして誘ってくれたんだろうとか、それを聞いてみたいような、知りたくはないような、このふわふわした高揚感に、まだ気付かない振りをしていた。
横断歩道まであと少し。青信号がチカチカと光っている。三車線ずつあるから、多分次の青になるまでたくさん待たなきゃならない。駆け出した佐伯くんが言った。
「おっ、渡るぞ! ほら早く」
「え、うん」
自然に手を差し出されて、慌ててそこへ重ね合わせると同時にぎゅっと握られ引っ張られた。二人で横断歩道を走る。ヒールの低い靴にして良かった。
真っ直ぐに前を向いたまま私と手をつないで走る佐伯くんの顔は、何だか怒っているみたいだったけど。大きな手が温かい。私、この感触が、嫌じゃない。
自販機で飲み物を買い、大きな船を前に海浜公園の芝生へ座った。家族連れやカップルが私たちと同じようにして、飛んでいくカモメを指差したり、光る海を眺めていた。
「気持ちいいな。もうそんなに暑くないし」
ペットボトルのスポーツドリンクを一口飲んだ佐伯くんが言った。彼が穿いているデニムの色がいい具合にこなれている。
「気持ちいいけど、なんか変なの」
「変て?」
「佐伯くんと、こんなところにいるのが。なんか不思議」
大学以外で会うことなんて想像できなかったから。サークルも違うし、電車でも一緒になったことがない。
「別に変じゃないよ」
佐伯くんの声が変わった。
「変じゃない」
急にそんな横顔見せて、ずるいと思った。横断歩道を渡った時と同じ真剣な表情が、私を息苦しくさせる。
「……だって、変じゃん。図書館行くって言ってたのに」
「ああ、そういう意味ね」
佐伯くんは芝生の上にごろんと横になった。両手を広げて空を見詰めている。
「浜野ってさーあ」
「なに?」
「友達は、いるって言ってたじゃん?」
「うん」
「彼氏もいんの?」
「いないよ。いたら来ないよ」
「ですよねー」
「佐伯くんは?」
「いないです。いたら来ないです」
「でーすーよーねー」
「真似すんなよな」
真っ白なふわふわとした雲がひとつ、空に浮かんでいた。太陽に反射してとても眩しい。私の長く伸びた髪が海風にさらわれた。
「本当は図書館とか、そんなのどうでも良かったんだ」
「どういうこと?」
「浜野って休みの日はどういう顔してんのかな、って知りたかっただけ」
「……やっぱり変だよ、佐伯くんは」
すぐ傍で汽笛が鳴り、子どもたちが歓声を上げた。
「また、誘ってもいい?」
「いいよ。佐伯くん、楽しいし」
すごく嬉しかったのに、どうしてこんな返事の仕方をしたんだろう。可愛くなかったかな。
「おっけ」
返事をしながら彼は飛び起きた。
膝を抱えた佐伯くんは私を見て目を細め、何度も何度も頷いている。
「うん、うん」
「?」
「うんうん、おっけえーい!」
「うるさ……、声でか」
「おっけーーーーい!! うえーーーーーい!!」
また寝転んでは、はしゃぐ佐伯くんがおかしくて、周りも気にせず一緒に笑ってしまった。大きな声で。広い海の前で。たったこれだけのことが何でこんなに楽しいんだろう。
「あ、金木犀の匂いがする」
潮風の中に混じってその香りが運ばれて来た。
「ん? ほんとだ。どこに咲いてんだろ」
起き上がった佐伯くんが辺りを見回す。
もう無理かもしれない。それは認めた途端に私の中で隅々まで広がっていき、瞬く間に浸透してしまった。止めようがないほどの追いつけないスピードで。
「あれじゃない? すぐ傍にあったんだ」
私たちの後ろの方、少し離れた場所に公園内の歩道があり、そこに何本か背の低い木が植えられていた。
「浜野、金木犀好きなんだ?」
「うん。あの匂い、まだ少し暑いけど秋が来たんだなって感じがして、好き」
「待ってて」
「え?」
「いいから、ここにいて」
髪に草を付けたまま、佐伯くんは走り出した。
全部、予感だったんだ。
背筋をぴんと張っていられた四月の教室。会うたびに声をかけてくれたその言葉。心配してくれた木漏れ日のテラス席。
今はもう、すっかり確信へと変わってしまったけれど。
芝生の上で小さな蟻が忙しそうに歩いていた。風は吹くたびに冷ややかなものに変わっていき、時折肌寒くも感じた。スニーカーの駆け足が戻ってくる。
座る私へ、かがんだ佐伯くんを見上げる。逆光で表情が良く見えない。
「両手出してみ」
佐伯くんの手から私の手のひらへ、オレンジ色の小さな小さな花びらがひらひらと何個も落ちた。ふわりといい匂いに包まれる。くすぐったい。思わず笑みが零れた。
「ありがと。嬉しい、すごく」
「今日の目的は……これでした!」
「今考えたんじゃん、それ」
ははっと笑った佐伯くんが、また私の隣へ座る。気付いてしまったら、もう降参するしかない。
秋の香りを手に入れた10月の初め。
私は佐伯くんに、恋をした。
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