泥濘−ぬかるみ− 番外編三島視点

お仕置き (後編)




 誰かが直前まで使っていたのか、カーテンが引かれた薄暗い部屋の中は、エアコンのひんやりとした空気が残されていた。

 無造作に置かれた長机に、折りたたみのパイプ椅子が三つ並んでいる。他には小さなグレーの細長い本棚が壁に収まっているだけだった。
 しんと静まり返った部屋に、廊下や校庭から生徒の声が聞こえてくる。
 手にしていた教科書とノートは机の上に置き、ドアのすぐ横の壁に春田を立たせ視線を合わせた。

 沈黙に眉をひそめた春田は、今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめている。上手く出来なかったことへの不安を覗かせる表情に満足し、少しだけ笑いかけながら、身体をかがませ春田の顔へ近付くと、彼女は観念したかのように震える瞼をそっと閉じた。
 柔らかく見える半開きの唇へ、花に吸い込まれる虫の様に自分の唇を寄せていく。一気に蜜を奪い取っていきたい気持ちを抑え込み、息がかかる場所で押し止め囁いた。
「……素直じゃん」
「……?」
 瞼を上げて俺を確認した春田の顎を持ち上げる。
「でも今はこっち」
 現れた白い首筋に顔を埋めると春田は身をよじった。そこから肩より少し下に移動し、鼻先を向けながら問いかける。
「今日、体育あった?」
「!」
 顔を上げると、春田は真っ赤になり俺を押し退けた後、胸を隠すように両手を交差させ自分の肩を掴んだ。

「そ、そういうこと言わないで」
「なんで?」
「だって学校シャワーないし……あ、暑かったし」
「……」
「シートで拭いたんだけど……汗かいたのわかるの?」
「今くらいくっつかないとわかんない」
「ほんとに?」
「……ほんと」
 それは……制汗剤の香りと、元から付けていたと思われる香水に微かな彼女の身体の匂いが混ざり、自分の全てをそれで埋め尽くされたいと思う程の力を持っていた。
「良かった」
 彼女の安堵した声に、一瞬苛立ちを覚える。
「なにが?」
「だって、恥ずかしいから」
「……恥ずかしいんだ? じゃあそれにする」
「?」
 わからない、という顔をした春田は胸を隠したまま首を傾げた。

 部屋のスピーカーから、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「三島くん、予鈴」
 体をひねり、ドアへ向こうとした彼女の両手首を正面から掴み、後ろ手にさせ、壁に押し付ける。
「え、何?」
「恥ずかしい思いさせられた、お返し」
 もう一度身体をかがませ、体温が直に伝わる夏服のブラウスの胸元に顔を埋めて、今度は春田にわかるように大きく息を吸い込んだ。誰も踏み込めない彼女の秘密を探るように、甘ったるい刺激に身を委ねる。
「や、」
 春田の掠れた声と同時に廊下から、体育館へ向かう生徒たちの会話が間近に届いた。
 知った声を聞いた為か、必死で肩をゆすり逃れようとする春田に、逆らうことは許さない力で手首を締め、さっきよりも強く顔をこすり付ける。
「だ、誰か来ちゃうよ」
「来ない」
「じゃあ……鍵閉めて」
「やだ」
「三島くん……!」
「……お前、俺が教えたこと全然わかってないから、お仕置き」
「?」
 焦る春田の顔を下から確認する。やめて欲しいと懇願する視線を、容赦なく投げ捨てた。

 部屋の冷気はいつの間にかどこかへ消えてしまい、身体を押し付けているせいか蒸し暑さが増してくる。
 首を横に振り、嫌がる仕草をしても絶対に許さない。ささやかな力は全くもって抗えない。彼女の震える吐息が耳に届くたびに、犬の様にしつこく何度も鼻を押し付け吸い込み、大きく息を吐いた。

 ――春田を、支配したい。

 未だに自分の中で繰り返される、卑しく浅ましい渇きに押し潰されそうになりながら、踊り場にいた時と同じ様に低い姿勢で春田の足の間へ膝を滑らせ、動けないよう固定した。
「汗かいてる」
「だってもう、暑いよ、ここ……」
 拘束していた彼女の手首を仕方なく解放し、汗の流れる首筋を両手の指先で味わうように、ゆっくりと拭ってやった。
 春田は強く目を瞑り、唇を噛み締め何かに堪えている。
「……可愛い」
「え、」
 俺の呟きに春田が驚いた表情を見せたその時、真横のドアに何かがぶつかり衝撃が走った。
「!!」
 大きく揺れた春田の肩を咄嗟に掴み、叫び声を上げようとした唇を自分のそれで塞ぎ、横目でドアを確認する。
 数人の男達のふざけた声が、ドアの向こうから部屋中に響き渡った。春田には気付かれないよう、左足で扉を押さえつける。相変わらず右の膝頭は、幼気な足の間へ収まっていた。
 目を閉じ……彼女に集中する。

「いてーんだよ、お前は!」
「あーもうバックレたいんだけど、次」

 すぐそこにいる何も知らない奴らの言葉が耳に入る度に、頭の奥が痺れ、蕩けていきそうな程の興奮が込み上げた。
 俺と同じ様に薄目を開けた彼女のこちらを見つめる虚ろな瞳が、ぼやけた視界の中で少しずつ水気を帯び、濡れていくのがわかる。
 苦しそうなその表情にたまらなくなり、一層強く彼女を求めながら膝を進めていき、眉を歪めた自分の熱も同時に押し付けた。
 鼓動が耳鳴りのように大きな音を立て、動悸が激しく息を切らす。

 鍵は……かかっていない。
 ノブが回らなくても再び衝撃が訪れたら、扉は開いてしまうかもしれない。それとも悪戯に誰かがノブを回して、あっさりこちらへ入ってくるかもしれない。
 その危うさを春田の頭の中へ植えつける。開くことがないと知っているのは自分の左足だけだ。
 何かが崩れそうなぎりぎりの所で、春田はまだ抵抗していた。
 そのささやかな力を二度と俺に向けず、逆らうことなく従い受け入れる無防備な姿を見たい。彼女の口から零れる筈の、聞き入れてもらう為のひとことを早く手に入れ……安心したい。

「おーい、始まるぞー。早く入れ」
 体育教師の低い声と同時に、男達が文句を言いながらその場を去って行ったのがわかった。
 
 顔を離した途端、春田は大きく息を吐き出し、崩れ落ちるようにその場でしゃがみ込んだ。
「誰が座っていいって言ったんだよ」
 唇を拭いながら、肩で息をしている春田の二の腕を掴み無理やり立たせると、彼女は倒れこむように俺の腕の中へ身を預けた。
「もう……立てない」
「……」
「なんで怒ってるの?」
「怒ってない」
「だって、全然許してくれない」
「どうすればいいのか、知ってんだろ」
 俺の言葉に反応した春田がゆっくりと顔を上げた。無言で彼女の唇へ視線を突き刺し、早く言えと促す。自分の苛立ちを受け取った春田は、ようやく思い出した様に呟いた。
「お願い、三島くん」
「……遅いんだよ」
 ため息を吐いた後、彼女を抱きながら背中を壁につけ、そのままなだれ込む様に二人で床に腰を下ろした。

「私……三島くんの匂い、好き」
 さっきとは反対に、俺の胸に顔を埋める彼女の呟きに、身体の奥が再び疼く。
「帰り、俺の家寄れば」
「……何するの?」
「勉強に決まってんだろ!」
「あ、そっか」
「馬鹿みたいな独りごと聞かれないように、徹底的にその頭へ叩き込んでやる」
 腕の中で肩をすくめた春田は、小さな声を出した。
「でも、あんまり苛めないでね?」
「苛めた覚えないし」
「……勉強のあと苛めるじゃん、いつも」

 少しだけ赤い跡がついてしまった春田の手首を取る。
「痛かった?」
「ううん、平気」
 青い血管が透けて見える白く薄い肌を自分の顔に寄せ、そっと唇を押し付けた。羞恥に震える姿を思い出し、本気で逃げようとはしなかった彼女にまた一つ……期待の色を塗り重ねていく。
 その手をつなぎ、春田の肩に頭を乗せてもたれかかり、制服の足を床へ投げ出した。
「ね、体育館行く?」
「もうちょっとしたら」
「さっき初めて言ったでしょ?」
「何を」
「……」
「何だよ」
「……可愛いって」
 躊躇いがちなその声は、また何かを連れて来る。
「いつも言ってんじゃん。……頭の中で」
「そ、それじゃわかんないよ、全然」
「言って欲しいんだ?」
「……うん」
「じゃあどうするんだっけ?」
「また言うの?」
「いやなら一生言わない」
 身勝手な安堵を得る為に、何度でも言わせたくなる。

「三島くん、お願い」
「……」
「お願いだから」
「……」
「……ずっと傍にいて」
 思いがけない彼女の自分を求める言葉に、一瞬視界が滲む程の眩暈が起こり、胸が締め付けられた。
「……いる」
 春田の肩に顔を埋め、くぐもった声で返事をする。そこから伝わる温もりと、まだ続く胸の痛みに目を閉じた。

 部屋の外からは、もう何の音も届かない。日の差さない部屋の中は、二人の呼吸と体温と共に熱がこもり始めていた。
 湿った手のひらを隙間無く合わせ、強く握り締めながら思いを伝える。

 ようやく手に入れたその言葉が確信であると願い続ける為に、互いの流れる汗が辿り着いた先のぬかるみへ……一緒に堕ちていけるなら。

 焦がれて止まない匂いと熱とその囁きに、いつまでも離れることなく、寄り添いながら。
















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