泥濘−ぬかるみ− 番外編
お仕置き (前編)
じっとりとした嫌な暑さが肌にまとわりつく。
自分にとって一年で一番苦手な季節に入り込んでいた。
「あれ、春田さんじゃん?」
三時限目の移動教室の後、廊下を歩きながら言われた方を見ると確かに春田がいた。壁際をゆっくりと前へ進む彼女の隣には、同じクラスだと思われる、自分も知った顔の男がいた。
「三島、ヤバイんじゃないのー?」
一緒にいた同じクラスの友人が面白そうに声を上げた。
「何が?」
「やけにくっついてんじゃん。声かければ?」
「……面白いから見てる」
「え」
「先行ってていいよ。次も移動だろ」
「お前って……。ま、いーや。じゃな」
俺の何かを含んだ笑顔に、ため息を吐いた友人はそのまま歩き出した。
歩く速度を極端に落とし、春田の背中を離れた場所から見つめた。
彼女の傍にいるようになってから数ヶ月が経った今でも、少しの不安と苛立ちを覚える時がある。そんな時は必ずと言っていい程、春田へ容赦なく振舞う自分の執拗さに呆れながらも、それを少しずつ受け入れようとする彼女の様子を愉しんでいた。
少し前を歩く春田と男の会話は、ここからはわからない。男は何かを渡して彼女をその場に残し、去って行った。
歩みを止めた春田の後ろに近付き上から手を伸ばし、彼女の手にあったものを取り上げた。
「あ、」
驚く声を聞いたのと同時に、手にしたものをパラパラとめくる。それは物理のノートで、どうやら男が一方的に春田へ貸したらしい。
「三島くん」
「ふうん、良かったじゃん。これからこいつに教えてもらえば?」
「え……」
「そうすれば、俺もわざわざお前のとこ行かなくて済むし」
取り上げたノートをその手に返し、彼女を置いて先に歩き出す。
「待って、三島くん」
駆け寄って来た春田が、顔を覗きこんで来た。
「あのね、違うの」
「違うってなにが」
「私さっき、物理実験室で方程式がよくわかんないってひとりごと言ってたみたいなの。それ聞かれちゃって……」
「だから?」
「だからね、今の人に教えてなんて言ってないから」
必死に言い訳する声に、心の中で彼女からの報酬を期待する。大げさにため息を吐いて立ち止まり、面倒くさそうに春田を見下ろした。
二階を繋ぐ渡り廊下は幅が広く窓も大きい。広々と開け放たれていても、蒸し暑い空気しか入り込んでは来なかった。背中に汗が一筋流れたのを感じた。傍を通り過ぎる新入生達の騒々しい声が、耳に障る。
「……なんなの? お前」
「なんなの、って?」
半袖のブラウスから出ている腕が、男のノートを彼女の教科書と一緒に胸へ抱え込んだのが、合図だった。
「だから何なんだよ、その言い方。そんなことで俺が機嫌悪くしたような言い方すんなよ」
「え、違うの?」
「……」
「だって今……ヤキモチやいたとかじゃ、ないの?」
「……ヤキモチ? 俺が?」
思い切り馬鹿にしたように鼻で笑うと、彼女は一瞬眉を歪ませた。
「まあ、そういうことにしといてやってもいいけど」
「……」
俺の声に何かを察知したのか、視線を外そうとした春田の顔を今度は自分が覗き込む。
「じゃあ、そのノート貸してくれた奴の所に行って、今すぐ返して来いよ」
「今?」
「そう。彼氏がすごく怒ってて、ヤキモチやいちゃって大変なの、って」
「え、私が言うの?」
「お前が言ったんだろ? 俺がヤキモチやいてるって」
戸惑う黒目を睨みつけると、彼女は怯えたように肩を縮ませた。
「でも……そんなこと言えない」
「じゃあ今度からそいつに勉強教えてもらえば」
「そんなの、や。三島くんがいい」
俺が突き放した途端、首を振り唇を尖らせた春田の耳元へ近付き、今度は優しく囁く。
「彼氏のこと大好きだから、何でも言う事聞きたいの。……っていうのも追加」
「え!」
目の前にある少し伸びたクセのある茶色の髪は、今日の暑さのせいか無造作に一つにまとめられ、片方の耳の下で縛られている。
一瞬、何もかも忘れてしまいそうになるその場所から無理やり離れ、今度は正反対の、拒むことを許さない不機嫌な声を出した。
「ちゃんと言えよな。聞いててやるから」
「……」
「早く行けよ」
春田は一歩前に踏み出し歩き始めるとすぐに、後ろからついていく俺を振り返った。そこから投げられた彼女の許しを乞う視線を無視し、顎で早く前へ進むよう指示する。
春田は仕方無しに足を速め、男が戻って行った方へと小走りで進んだ。あと少しで教室という階段の、踊り場から数段上がったと思われる場所から、さっきの男が友人と話をしている声が聞こえた。ここから姿は見えない。
春田は再び俺を振り向き、まだ諦めきれない瞳で見つめてくる。余計に気持ちを煽られるその色は、自分を求める時のそれに似ていることを彼女は知らない。
「行って来いよ。俺ここで聞いてるから」
もう無理だと悟った春田は口を引き結び肩を落とし、のろのろと階段を上っていった。
踊り場の下になる階段の途中で歩みを止めた自分は、奴らからは見えないぎりぎりの場所へ立ち、注意深く耳を澄ませる。階下の音楽室からピアノの旋律が微かに流れて来た。
「あ、あの」
春田の小さな声に、二人の男が反応した。
「春田さんじゃん。どうしたの?」
「さっきノート、どうもありがとう」
「え、もういいの? わかんないんじゃなかったっけ」
「あのね、教えてくれる人いるから……大丈夫なの」
一瞬だけ沈黙した三人の会話が、再び始まった。
「……ああ、彼氏かあ」
「三島だっけ?」
「う、うん」
「あ、もしかして駄目とか言われた? そう言えばさっき後ろにいた気がする、三島」
からかうような男の声に、春田が益々動揺している空気が伝わる。
「駄目っていうか……」
「へえ、三島ってそういうこと言うんだ?」
「有り得ないんだけど」
男達の笑い声の中に、彼女の曖昧な返事が混じった。
「え、とね……そうじゃなくて、」
春田が今どんな顔をしているのか想像するだけで、可笑しさと共に少しの興奮が込み上げてくる。彼女の心臓の音がここまで聞こえてきそうだ。自分も一緒に緊張感を味わい、俯いて足下の上履きを見つめながら肩で笑った。
「わかった。大丈夫だよ、もう。三島によろしく」
「……うん」
「?」
何故かその場を離れない春田を疑問に思ったのか、また沈黙が訪れた。
今、男達の前にいる彼女の頭の中では、俺の声が何度も再生されている筈だ。そして時々それを邪魔するように現れる、実行できなかった場合の自分に弄ばれ、額に汗を掻いているだろう春田を……早くこの手で確かめたい。
「大丈夫? どうしたの」
「三島くんがね……すごく、」
「え、三島がなに?」
「ううん……なんでもないの。あの、ほんとにありがとうね。じゃあ」
春田の返事を聞いた男達は、そのまま上の階へ上がって行った。同時に春田がこちらへ駆け下りてくる。近寄る足音と共に口元に残る笑みを隠した。
「何やってんだよ」
壁に寄りかかりポケットに手を突っ込んだまま、焦った表情の春田を見上げる。露になっている首筋の白さが、髪を縛っているせいでいつもより際立っていた。
「三島くん」
「ちゃんと言えって言っただろ」
「だって……無理だよ」
春田は隣に立ち、困ったように俺の袖を引っ張った。その手を取り強く握る。
「……痛」
「なんか、俺だけ悪者になってない?」
「そんなこと、ないと思うけど」
「あんなこと言われて、すげー恥ずかしかったんだけど、俺」
微塵も思ってはいないことを口にしながら、黙り込む春田の湿った手のひらを握り締めたまま、階段を降りていく。
「どこ行くの? もうすぐ休み時間終わっちゃうよ?」
「どうせ次、体育館だろ。体育祭の学年集会だっけ?」
「あ、うん」
夏休み明けに行なわれる体育祭についての集会だった。
「何かやんの? 応援団とか委員とか」
「やらない」
「……俺も」
春田を大事にしたいという思いと、偏り歪んだ熱を持つ思いとが、常に胸の中でせめぎ合う。
頭の奥から先に立ち、彼女を道連れにと騒ぎ出す、気持ちをかき乱していく自分では手に負えない何かに……今は身を任せたくなっていた。
それが当然だという顔をして春田の細い手首を引っ張り、体育館の手前にある授業中は使われることのない進路指導室へと向かった。
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