泥濘−ぬかるみ−

(28)春泥




 新学期になり、クラスが分かれても、春田は相変わらずだった。

 朝は俺と同じ地下鉄に乗り登校し、教室まで纏わりついてくる。休み時間ごとに声をかけに来ては、俺のクラスや廊下で話をした。
 昼休みも一緒に学食へ行ったり、弁当の日は屋上に中庭、たまに旧校舎の階段に二人で座り食べた。
 飯島と三橋に呆れられるほど、春田と一緒に過ごしている。

 帰り道、いつもの様に春田が俺の隣を歩く。
 日差しは暖かで、昼過ぎまで降っていた雨はもう止んでいた。とっくに花の落ちた桜の樹は、枝に緑の葉を生い茂らせている。

「ねえ、三島くん」
「なに」
「明日も作ってこようか? お弁当」
「別にいらない」
「え、まずかった?」
「まずくはないけど、お前出入り禁止なんだろ。どうやって作ったんだよ。俺怖いんだけど」
「そうだったんだけどね、お母さんにお願いしたの」
「なんて?」
 春田は両手を胸の前で組み、恥ずかしそうに俯いた。
「どうしても、好きな男の子に作ってあげたいからって言ったの。そしたらお母さん、それだったらまあしょうがないかって。あ、でもキッチンでずっと監視されてるんだけどね。それで、」
「……」
「……どうしたの?」
 俺の沈黙に春田がこちらを振り向いた。彼女の言葉に熱くなった顔を、気付かれないよう逸らしながら遠くを見つめる。
「……別に」
「なに? 怒ったの?」
「怒ってねーよ」
「……怒ってる、じゃん」
 口を尖らせて鞄を掛け直した春田に、別の話題を振る。

「お前さ、よくこんなに俺の傍にいて飽きないよな」
「……それ、マフラーの時も言ってたよね」
「ほんと毎日、毎日」
「飽きないよ」
 春田の囁くような声は、いつも何かを連れて来る。
「三島くんと一緒に居るの、全然飽きないよ。本当はもっと……」
「もっと何だよ」
 急に小さな声になった彼女の髪にそっと触れ、言葉には出さず指先で早く続きを聞きたいとせがむ。
「い、一緒にいたいんだけど」
「ふうん」
「三島くんは、飽きたの?」
「……さあ」
 俺の返事に驚いた春田は上目遣いでこちらを見た。その瞳はもう、自分だけに向けられているということを、何度も確認したくなる。
「もしかして、ほんとは飽きてる?」
「買うのが、面倒だったわけじゃないよ」
「え?」
「マフラー」
「え……なに? わかんない」
「まだわかんなくていい」
 髪から手を離し笑いかけると、彼女は首を傾げて黙り込んだ。

 あれからたまに、春田は俺の家へ遊びに来るようになった。
 穏やかな日々が続く。
 けれど時折無性に、彼女のあの表情を見たくなることがあった。それを待ち望む自分を認める日が来るのは、もう既にすぐ傍まで近付いているような予感がしていた。

「三島くん、見て」
 春田が指差した足下の土の中から、小さな虫が出てきた。
「泥の中って居心地いいんだってね。見た目はこんなだけど」
「……」
 ――まだ。
「知ってた?」
「……知らない」
「三島くんが知らないことなんてあるんだ?」
「あるに決まってんだろ」
「私は、たくさんあるよ。知らないこと」
 一歩前に出た春田は何の疑いもなく、俺の顔を覗きこんで言った。
「三島くん」
「なに」
「……もっと、教えてくれる? 私に」
 ――まだ全てを見せてはいない。彼女が俺の傍から離れないと、確信できるまで。

「逃げ出さないって、約束できるなら」

 その先には、違った意味を見出した彼女のぬかるみに堕ちていく自分が見えた。美しい生温さにすがりつき、怯えにも似た悦びに溺れる者の様に。

 朝も昼も夕方も、長い夜も。ただひたすら、その場所で願いながら。










 〜 完 〜






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ナノハ



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