泥濘−ぬかるみ−
(12) 翻弄
二月とはいえ、今日は暖かい。
体育の後、外の水道で汗を掻いた顔を洗っていると隣に飯島が来た。勢いよく蛇口を開け、水を跳ねさせて手を洗い始める。他の連中はもう校舎の中へ向かっていた。
「サッカーってやたら疲れない?」
「お前が張り切り過ぎなんだよ」
「女子の皆さんが見てると思ったらさ、やるしかないじゃん。今日は特に」
飯島は笑って水を飲み、手にしていたジャージの上着で口を拭いた。
「三島お前さ、この前ほんとに葉山の彼女見たの?」
「多分」
「多分て何だよ」
「バイトの帰りで暗かったんだよ。近道にでかい公園突っ切った時だったから」
「ふーん。仲良さそうだった?」
「まあ、イチャついてたからそうなんじゃないの」
苦笑した俺の肩に手をやり、飯島は声を落として言った。
「奪ってしまえ」
「何を?」
「……春田さん」
「!」
「お前が彼女作んない理由。それだろ?」
すぐ傍でニヤリと笑った飯島は、俺の肩を叩く。
「ここんとこ立て続けに告られて断ってるって噂だけど。三島くん」
「立て続けって、二人だけだし」
溜息を吐いた俺から離れた飯島は、歩きながらジャージを肩に掛けた。
「俺、ああいう奴許せねんだよ。春田さんが何も知らないと思ってさ」
もう人も少ない昇降口へ二人で入り下駄箱を開け、上履きを乱暴に床へ落とした。
「……それでも」
靴を履き替えた飯島が俺の言葉に振り向く。
「それでも春田が自分で気付かないと意味無いんだよ。いくら周りが何言ったって」
「……そういうもん?」
「そういうもん」
先週、葉山にああして告げた三日後の朝、図書室でほんの少しの時間春田を独り占めした後から、明らかに彼女の様子が少しずつ変わってきていた。
春田がその考えに跪き、無抵抗になるまで俺はこうして愉しめばいい。葉山の傍にいることの無意味さと間違いに自分で気付くまで。
放課後、週番になった春田と俺は教室に残っていた。教卓には職員室へ運ぶプリントと、提出用のノートが積み重ねられている。掃除当番が掃除を始めた中、教卓にいる俺の元へ立石が寄ってきた。
「三島くんて足速いんだね。びっくりしちゃった」
「見てた?」
「うん。応援してたし」
「そうなんだ」
上の方だけ俺が消してやり、残りの部分に黒板消しを当てていた春田はチラチラとこちらを見ている。当たり前の様に彼女へ視線は向けてやらない。
「これ職員室に運ぶんでしょ? あたし手伝うよ」
「そう?」
「あ、あの立石さん」
真っ白になっている黒板消しを持ったまま、春田がやって来た。
「私、三島くんと週番だから運ぶよ」
「お前日誌書いとけよ。俺、立石さんと行くから」
「え……」
春田は一瞬で表情を曇らせた。
「春田さん、いいよ。あたしが行くから。三島くんもそう言ってるし」
「でも」
「書いたら職員室持って来いよ。待ってるから。俺の名前も必要なんだろ?」
「うん。あの……立石さんごめんね。ほんとにいいの?」
「別に大丈夫。ゆっくり書いてて?」
自分の長い髪をいじった手で、立石はまたべたべたと俺の腕に触れた。
「あたし、三島くんにあげたいものあるの。ちょっと廊下で待ってて? すぐ行くから」
立石の言葉に頷き、教卓に積まれたノートを持ち上げ教室から出た。その場に取り残された春田の、何か言いたげな視線を感じた俺の背中が喜んでいる。
「これあげる」
廊下で立石はプリントを持ちながら、紙袋に入った包みを俺に向けた。
「今日バレンタインでしょ? チョコなの」
「ああ、ごめん。受け取れないんだ」
「え」
「俺、甘いもの嫌いで食べられないんだよ。もらっても捨てるだけだから、誰からも受け取らないようにしてる」
「……そう」
「ごめんね?」
「ううん。……ねえ、三島くんて」
急に立石の言葉が猫なで声に変わったのを感じ取り、鳥肌が立った。
「彼女とか、いるの?」
「……いないよ」
「ほんとに? いるから断ってるのかと思った」
嬉しそうなその顔。本当は気分が悪くなるから直視したくない。
「立石さんは?」
「え? あ……あたしもいないよ」
「そう。男に人気あるから彼氏いるかと思ってた」
心にも無い事を言って様子を伺う。女の顔が自信に溢れた表情に変わっていった。春田の気を引く為に利用させてもらった礼として、一瞬だけ期待させてやってもいい。ほんの、数秒だけ。
「あの、三島くん。もし、」
「俺、彼女はいないけど好きな女の子はいるんだ」
「好きな女の子?」
「……そう。すごく好きで、たまらない子」
優しい声でゆっくり振り向き、目の前にいる見たくも無い女の顔を仕方なしに暫く見つめた。
「え……」
立石は期待に頬を染め立ち止まった。視線の高さも、傲慢さも素直さも、何もかもが違う。
そこには自分の求める柔らかい髪も、手を伸ばし奪いたくなるいじらしい瞳も、疼きを覚える言葉を吐き出す唇も……何ひとつ見つける事は出来なかった。
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