泥濘−ぬかるみ−

(11) 疼き




 自分の椅子を引き、彼女の机に寄り添い勉強を見てやる。休み時間の教室は騒がしく、出入り口から近い一番後ろの席にいる俺たちを気に留める奴は誰もいない。

「だから違う。お前、何聞いてたんだよ」
「どこ?」
「ここ……」
 頭を近づけて彼女の様子を上目遣いで見る。一瞬怯んだように椅子の上で身体を後ずさりさせた春田にもう一度言った。
「ここ。ちゃんと見ろよ」
「……うん」
 彼女の近付いて来た頭に、再び自分の顔を寄せ、互いの髪を感じながらシャーペンを走らせた。カーディガンの柔らかい肩先同士も触れている。
 ……後ろにいるのは、わかっていた。

「春田、葉山くん来たよ」
「え」
 飯島と話をしていた三橋の声に、わざとらしく俺も春田と一緒に振り向く。ポケットに手を入れ、すぐ後ろで突っ立ったままこちらを見下ろす葉山の笑顔は、少しだけ引き攣っていた。
「勉強? また教えてもらってるんだ?」
「うん」
「なんかいつも悪いな三島。俺、頭悪いからさあ」
 近付いた葉山が俺の肩を気安く叩く。その作り笑いが、さらに歪んでいくのはここからだという事も知らずに。
「葉山お前さ、昨日の日曜出掛けた?」
「え?」
「いや、ちょっと見かけたから」
「……どこで」
 一瞬で目の色が変わった葉山の予想通りの反応に、今度は春田へ顔を向ける。
「三島くん、葉山くんは昨日試合だったんだよ。ね?」
 俺にそう告げながら、何も知らないその横顔は葉山を見上げた。彼女の手には、駅前で買った何の飾りも付いていないシャーペンが握られている。
「え、ああそうだけど」
「試合って何時頃?」
「……1時半」
「北高でしょ?」
「そう」
 春田の問いに葉山は頷き、すぐに俺へ視線を戻す。椅子の背もたれに片腕を乗せ、葉山が聞き返さなくてもいいよう、春田によく聞こえるよう、ゆっくりと言葉を吐き出した。

「俺が見たのは……夜の9時半くらいだったかな。それに春田じゃない女と一緒だったから、完全に見間違いか、それ。暗かったし」
「……ああ。有り得ないから」
「だよな、ごめん」
 飯島がさっきからこちらを振り向き、じっと見ている。俺と同じ様にそれを確認した葉山が口を開いた。
「三島、それどこの話? なんか気になるんだけど」
 平静を装いながらもう一度聞いてくる葉山の言葉を無視し、席を立つ。
「悪かったよ。春田に用があるんだろ? じゃ」
 ようやくそこで期待した声が上がった。

「待って、三島くん」
「なに」
 俺の返事に春田は葉山へと視線を移す。同時に髪が揺れ、彼女の首元をくすぐった。あと少しでその香りは一時的に俺に独占されるのだと囁くように。
「今葉山くん、大事な用事?」
「え?」
「私、無理言って三島くんにお願いしたの。だからごめんね。後でもいい?」
「……」
「どうしても今教えてもらいたいの」
「三島に?」
「うん。いい?」
「……いいよ」
 葉山の表情に不満が乗ったのを見逃さない。
「じゃ、後で一緒に弁当食お」
「うん」
 春田の返事も早々に葉山は教室から出て行った。何を思っているのか、俺をどう感じたのか、昼休み春田へどんな言い訳をするのか……その考えを巡らせることができる次の授業の最中が楽しみで仕方が無い。心の中でほくそ笑み、その背中を見送った。

「ねえ春田、いいの? 葉山くん怒ってない?」
 三橋が心配そうに春田を振り向く。
「どうして怒るの? 今いいよって言ったよ?」
「ダメなんて言えるわけないじゃん、あの状況で。あれじゃあ普通は……ねえ?」
 三橋は溜息を吐きながら俺に同意を求める。
「葉山に教えてもらえば? それで解決するだろ」
 離れようとした俺の腕を春田が突然掴み、呟いた。
「……違う」
「なにが」
「……わかんないけど、違うの」
 俺の腕から手を離した春田は顔を伏せ、シャーペンを握り直し、教科書を見た。
「三島くん、ここ何だっけ? これでいいの?」
「春田」
「みっちゃんごめん、ありがと。葉山くんには後で謝るから」
「……そう。わかった」
 三橋は呆れた表情を俺に向け、肩を竦めて「お願いね」とひとこと言って前を向き、また飯島と話し始めた。

 予想を上回る展開に頬が緩みそうになるのを抑え、彼女の隣にもう一度座り直し、さっきよりも椅子を傍に引き、約束を待っていたかのように髪へ鼻先を向けた。
 俺の言葉を必死に聞き逃すまいとし、俺に言われた通り数字や文字を書き、たまに俺の目を見つめる春田から、たまらない狂おしさを感じ、この場で彼女の温もりを奪いたくなる自分をひた隠す。
 奴と同じ様に春田が何を思ったのかはわからない。けれど今、彼女は葉山じゃない、俺を選んだ。

 その意味に――早く気付けよ、春田。



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