金曜日はピアノ
6 ごっこ遊び(1)
あれから、レッスンの度に私は彼に求められるまま過ごした。
先生の手も指も唇も舌も、あんまり慣れている感じがしたから、初めの内、彼には他に恋人がいると思い込んでいた。いないとしても多分、放っておかれない。私が近付きたいと思ったように。
けれど、彼は一人だった。家族の姿を見ることもない。
仕事の休みは金曜日と土曜日。彼はレッスンのあと、必ず私を泊まらせる。
昔の造りそのままの日本家屋には二階がある。狭くて上りにくい階段の先には、八畳の和室がひとつだけ。木枠の窓には玄関と同じすりガラス。きちんと網戸が張られている。部屋の手前に模様のない襖の押入れ。日に焼けて温かな色に染まった畳の上には、文庫本が一冊転がっている。どこを見ても塵一つない、古くとも清潔な部屋は、いつも悲しいくらいにがらんとしていた。
そこへ敷かれた布団に、私は寝かされた。
彼の腕の中は、私をよく眠らせた。気付くと髪を撫でていたり、額に唇を寄せて、まるで恋人みたいに私を扱うその指先を、とても不思議に思う。
だって先生は私を好きだなんて言わない。愛しいとも、恋しいとも言わない。
互いの気持ちの確認や約束事は無しに、ただ体を寄せ合うなんて、今までは考えられないことだったのに。この家に足を踏み入れることを決めた時から、私の中の何もかもが変わってしまった気がする。
ピアノのレッスンを終えると、食事を先に済ませることもあった。
彼はとても神経質で、準備も片付けも何もかも自分でしないと気が済まないらしく、私に手出しは一切させない。家中が綺麗に整っていて、廊下を裸足で歩くのは気持ちが良かった。
そして寝室やレッスン室だけでなく、所構わず私を抱いた。一晩で何度も求められる内に、私もいつの間にか先生との行為に……夢中になっていた。
一階にあるキッチンは広く、向かい合って座るのにちょうどいい二人用のダイニングテーブルが窓際に置かれている。今夜その上には、丁寧に並べられた彩りの良い和食が並んだ。
食べなさいと言われ、椅子に腰を下ろして挨拶をする。ひとくち入れると、口中に旬の香りが広がった。
「あの、これ全部、先生がいつも作ってるんですよね」
「そうだよ」
「すごく美味しいです」
「そう、ありがとう」
にこりともせずに、お箸でおひたしを口へ運ぶ先生を見詰める。
「私の分まで面倒じゃないですか?」
「全然。一人分も二人分も一緒だよ」
食事の時に先生はお酒を飲まない。私を抱いた後、眠る前に気が向いた時だけ。
今度は右手にお茶碗を持ち、ご飯を口へ入れているだけの先生から、目が離せない。綺麗な食べ方が好き、なんて変かもしれないけれど、彼が食事をしているところを見ていると、なぜか身体が熱くなった。
「お母さんに教えてもらったんですか?」
「何を?」
「お料理」
「いないから教われない。父も母もとっくに亡くなってる」
「……そうなんですか。ごめんなさい」
私の言葉に彼はおかしそうに笑った。
「離婚したって言った方が面白かったかな」
「え?」
「それぞれ再婚してるよ。子どもも何人かいる。よく知らないけど」
「……」
「どっちがほんとだと思う?」
先生は、たまに嘘を吐いて私をからかった。嘘を演じる事を強要して、自分と一緒に楽しむことを私へ教えた。私は彼の幼馴染みだったり、血縁者だったり、行きずりの関係……。想像させられ、恥ずかしがる私を見る度、先生は喜んだ。
思い出して喉が渇いた私は、雫を纏ったグラスへ手を伸ばし、冷たい麦茶を口へ入れ流し込んでから、答えを差し出す。
「どっちも、嘘」
「どっちもほんと。僕に親はいない。ついでに言えば、兄弟も祖父母もいない。気楽でいいよ、煩わしい事が一切なくて」
先生も同じように冷たい麦茶を手に取り、一気に飲み干してから、非難する視線を私へ向けた。
「もう食べないの?」
「……食べます」
「たくさん食べないと、このあと体力持たないよ」
その意味に目線を落として心臓の高鳴りを抑える。言葉に反応した足の間が、もう熱い。
「じゃあ、今夜はそういう話にしようか」