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金曜日はピアノ


5 鍵盤



 先の丸いヒールの靴を履き、玄関に立ててある、柄の細い傘を手にした。リビングからこちらへ向かって来るスリッパの音へ、私から声を掛ける。
「お母さん。私今夜、ご飯いらないから」
「苑子ちゃん、今日はピアノじゃないの?」
「ピアノ教室が友達の家のそばだったの。レッスンが終わったら、遊びにおいでって言われて」
 私の背中を見詰める母を振り向き、笑顔で答える。
「皆で集まるの」
「そう」
「泊まってくるかもしれないから」
「じゃあメールしてね。お父さんも心配すると思うから」
「うん、大丈夫」
 肩まである母の黒く真っ直ぐな髪を横目に、ドアノブへ手を掛ける。そこへ二人の妹も姿を現した。
「お姉ちゃん、今日はピアノ?」
「そうだよ。学校の帰りね」
「麻衣香も、そこまで一緒に行く」
「二人とも、お姉ちゃんの邪魔しないの。亜衣香はお顔洗って。麻衣香はランドセル」
「ママのけち」
 二人は勢いよく母の腰を小さな手のひらで交互に叩いた。こら、と叱られた妹たちは私へ無邪気な笑顔を見せ、元気に言った。
「お姉ちゃん、いってらっしゃい」
「行ってくるね」
 ドアを開けると、外は雨がちょうど降り出したところだった。


 金曜日の学校帰り。楽譜の入ったベージュのキャンバストートを手にして、先生の家を訪れる。
 いつも通りに進むピアノのレッスンは、甘い期待を胸にしていた私を不安にさせた。先生の横顔も、私の手首に触れ、楽譜をめくるその指先にも、揺らぎなんて微塵も感じられない。
「どうしたの、今日は」
 人差し指でピアノの淵を叩く彼の、怒りを含んだ声色にハッとし、背筋を伸ばす。
「心ここにあらず、って感じだけど。真面目にやってくれないと困るな」
「すみません」
 先週彼が言っていたことは、私の勘違いだったのかもしれない。一人顔を赤くし、目を伏せて恥ずかしさに耐えていると、先生が横でクスッと笑った。
「可愛いね。そんなに期待してるの?」
「!」
「大丈夫だよ、慌てなくても。時間はたくさんあるんだから」
 恐る恐る顔を上げて、穏やかな声の彼を見る。
 奥二重の大きくて影のある瞳、薄く笑った口元、すっきりとした頬、濃い茶色がかった触れたくなる髪。シャツの襟元から覗く首筋と、鎖骨の始まり。無駄な肉付きのない肩の線が、視界の端に見え隠れする。その全てが今望んでいるものだと、私の湿った瞳が洩らしてしまったのかもしれない。

 ピアノを再び弾き始めると、いつの間にかレッスンに集中していた。相変わらず同じ箇所を指摘され、先生が納得いくまで何度も弾き続ける。
「まあ、だいぶいいんじゃない?」
 ようやくもらえた言葉に嬉しさがこみ上げる。先生は終了したしるしに、楽譜の隅へ今日の日付を殴り書きした。
「今日でこの曲はおしまい。次へいこう」
 次回の練習曲を簡単に弾いた先生は立ち上がり、楽譜を閉じて私へ差し出した。
「お疲れ様。ちゃんと練習してくるんだよ?」
「はい。ありがとうございまし、た……」
 言い終わらない内に先生の手が私の髪へ触れたから、楽譜を足下へ落としてしまった。途端に早まる鼓動を知ったのか、彼はそれを鎮めるようにゆったりと撫でた。
 あの日と同じ、静かな雨の音が窓から伝わってくる。

 先生の指は髪を離れ、私の熱くなっている頬の線をなぞった。そのまま下唇へと伸び、丸い膨らみを往復する。まるで、滑らかに曲を紡いでいるかのような指先は、抵抗しようのない私の顎を優しく持ち上げた。腰をかがめて近付いた先生の息が、私の唇へかかる。
「どうして今日、着てきたの?」
「え?」
「そのワンピース」
 先生は細かいブラックギンガムの、襟とカフスだけが白いクレリックシャツを着ていた。彼の言った私のワンピースはネイビーで、ひと回り大きな柄。
「急にギンガムが着たくなったの」
 私の言葉に先生がそっと唇を重ねた。
「そう。気が合うね」
 私の唇を自分のそれで挟み、弄びながら先生が囁いた。
 口元から先生の声が溶け込んで体の隅々まで行き渡り、指先まで麻痺させていく。息が混ざって睫の先が重なりそうに近い彼へ、ひとつだけ、聞いてみたかった疑問を渡した。
「私も、教えて欲しいんです」
 彼の真似をして、触れたまま。
「何を?」
「どうして私を、家に入れてくれたの?」
「……顔も声も、茶色の髪も白い肌も、君が僕の好みだったから。それだけ」
 顔の傾きを変えて、彼は目を伏せた。その、あまりにも簡単に差し出された答えへ、私は落ち込むどころか喜びさえ感じていた。
「君は違うの?」
「違わない、です」
 それだけ、という言葉は、出逢った日の私を思い出させた。
「それとも他に何かあると思った?」
 まだ唇を軽く重ね続ける彼へ、首を小さく横に振って反応する。

 それを合図に、先生は私の腕を強く掴んで椅子から立ち上がらせ、ワンピースの腰へ左手を回し、右手で私の首の後ろを押さえた。さっきとは違い、激しく口を塞がれ、彼の膝が押し入って私の足を開かせた。
 勢いにバランスを崩した私によって、後ろにある鍵盤が右手で押される。崩れた不協和音が部屋中に響くのと同時に囁かれた低い声は、私の胸元へ直接響いた。
「ラシドレ。黒鍵は、シのフラット」
 ギンガムの裾から温かい右手が太腿へ触れる。いつも鍵盤に触れている長い指が、私の肌を撫でた。また私を、誘っている。両膝の間には彼の膝が奥まで入り、身動きが取れない。
「言ってごらん」
「ラ……」
 胸に顔を埋める彼の髪の香りが眩暈を起こさせ、吐息も一緒に漏れるから、続けて上手く言えない。
「シドレ」
 命令を含んだ彼の声が強調した。先生はレッスン中もたまに、こういう口調で私をほんの少しだけ怯えさせる。その声に、逆らうことはできない。
「……シド、レ」
「黒鍵は?」
「シの、フラット」
 私のせいで濡れた先生の唇は、胸元から首筋を彷徨ったあと、耳朶へ居場所を定めた。背中のファスナーに置かれた彼の左手が、ゆっくりと私を解放していく。
「そう。シのフラット」
 今度当てっこをしよう、教えてあげるから、と掠れる声で囁いた先生は、腿を這っていた指を足の付け根へと辿り着かせた。やがて、鍵盤の上に置いた私の右手も掴まれて、先生の首へと回された。
 きっと、先生が連れて行ってくれる。何もかもわからなくしてくれる。暗闇の中にある小さな光を教えてくれる。

 ――ラシドレ。黒鍵は、シのフラット。
 頭の奥で音と言葉を何度も繰り返しながら、二人だけのレッスン室で先生を受け入れた。





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